4ー2
デザートのパイを食べ始めても、イライアスのお小言は飛んでこなかった。やはりキースを同行させたのは大正解だった。
それにしても夕食が毎日凄まじい量なのだが、幸い王都に来てからさして私の体型には変化がなかった。メリディアン王女の相手をしているからだろうか。子育ては体力を使うと言うのは本当なのだろう。
「結局、手巾は無駄になりそうなのですか?」
既に完食しているイライアスが私を見つめながら尋ねてきた。
「いいえ。この次に訪問する王立孤児院に持っていく事になりました。」
「却ってそちらの方が良かったかも知れませんね。」
パイに舌鼓を打ちながら私も頷いた。私が王女に、兵士たちにあげるには手巾の数がとても足りないだろう、と報告すると、彼女は大層失望していた。だが、代替案として他の訪問先である、王家と関わりの深い孤児院にいる子どもたちにあげてはどうかと私が提案すると、思いの外喜んでくれた。
王女の心遣いが無駄にならなくて本当に良かった。
私はカラになった皿を見下ろした。
今日の夕食も実に美味しかった………。この生活に慣れ始めてしまっている自分が怖い。そして当然の様にイライアスと毎日食事を共にし、ショアフィールド夫人と呼ばれている事に疑問を感じなくなっている自分が怖い。
順応性とは恐ろしいものだ。人が環境に馴染んで生きて行く為の長所なのかもしれないが、この場合馴染んで良いのかが分からない。
「ダンスの授業はいかがですか?少しは上達しましたか?」
「いいえ。全然だめなんです。そもそも私、身体を動かすのが全般に不得手でして。」
するとイライアスは椅子から立ち上がり、食卓をぐるりと回って私の方へ歩いて来た。膝上のナプキンを折って遊んでいた私はキョトンと間抜けな顔で彼を見上げていた。
「練習しましょうか。」
「はい?」
練習。何の?
「ダンスの練習のお付き合いをいたしますよ。」
まさか、今ここで?
私の返事を待たずに彼は私の手を取り、立ち上がらせた。
「あの、でも私本当に下手で…」
「尚更やりましょう。」
イライアスの手が私の腰に回され、その手が異常に熱く感じられてしまう。その秀麗な顔は毎日見ていても、間近で見上げると不覚にもドキドキしてしまう自分がいた。
足の動きを揃える為にイライアスが口ずさむ、一、二、三という静かな声が妙に耳に近く感じられ、頭の中が熱くなっていく。
「謙遜かと思っていました。ここまでとは……。」
どうやら私はイライアスの予想を超えて下手くそだったらしい。
「………そこ。違う。ほらまた。」
深い彫りに更に影を作ってイライアスは私の足元を注視していた。声が一層低くなったのは、下手過ぎて機嫌を損ねたからか。ゆっくりやると出来るのに、何故速くなると出来ないのか、と不可解そうに彼は眉をひそめた。何度目かで間違えると、イライアスは大仰に溜め息を吐き、呼気が私の額を掠めていく。
「す、すみません。また踏んで…」
「口を動かす暇があるなら足に集中しなさい。」
イライアスの教え方は非常に厳しかった。特に頼んだわけでもないのだし、私も何が何でもダンスを習得したい、というわけではない。寧ろ正直、どうでも良いと思っていた。だが今更そんな事は言えない。
夕食の食器類を片付けに来た侍女たちは、まるで微笑ましいものでも見るみたいな目つきで私とイライアスを見て来た。差し詰め私たちがダンスを楽しんでいるとでも思っているのだろう。だが真下から見上げるイライアスの顔は怖いくらい真剣だった。
どうしてそこまで熱心なのだろう。一体いつスイッチが入ったんだ。ついさっきまで、和やかな雰囲気で夕食を食べていた筈なのに。
夜会でダンスがまともに出来ないと、私が思っている以上に困るのだろうか?もしかして、このままだとショアフィールド夫人はダンスが下手だ、と嘲笑されてイライアスが恥をかいたりするのかもしれない。
何事も完璧を追求するイライアスの性質はいかんなく発揮され、昼間の授業よりよほど厳しかった。気が付くと彼は私の腰あたりのドレスの生地を掴み、当初優しく握ってくれていた片方の手は、私の手首を鷲掴みにしていた。
逃げられない………。
広い食堂を何往復したのか分からない。きっと、私がマスターするまでこの練習は終わらないのだろう。そう分かると、死ぬ気で覚えるしかなかった。
本気そのもののイライアスの目を盗んで時計を見ると、一時間たっていた。
「やっと出来ました!」
どうにか数種類のダンスの動きを、通しで覚える事が出来た。それを必死にアピールしようと、作り笑顔でイライアスを見上げてみる。
もう満足したでしょう?私、マスターしました!!
しかし、練習の終了の予感はあえなく裏切られた。イライアス鬼講師の形相は僅かも変化が無かったのだ。まるで吹雪の雪原で向かい風にあおられているみたいな顔をしている。
「頭で覚えるのではなく、体で覚えて下さい。一晩寝たら忘れていた、という事が無い様に。」
彼が私を捕らえる力には僅かの緩みも無い。
絶対、ドレスがシワになっている。間違いない。
その後も私はダンスの動きをモノにした、とイライアスが確信に至るまで、私たちは食堂を往復した。やがて彼は繰り人形よろしく掴んでいた私のドレスを放し、そっと手を当ててきた。同時に鬱血寸前だった私の手首も解放され、かわりに私は手をそっと握られた。
イライアスは低音で音楽を口ずさみ始めた。彼は急に大きく一歩、私の方にむけて踏み出すと、身体をグッと接近させて踊り始めた。
困惑してチラリとイライアスの表情を確認すると、彼は厳しい顔つきを緩め、涼しい口元には微かに笑みさえ浮かんでいた。
ダンスだ。
私たちは普通に、ダンスをしていた。
もう疲労困憊で座りたい私の心境をよそに、イライアスは至極愉快そうに音楽を口ずさみ、私をリードしていた。
なんだか、凄く楽しそう……。
目の前のイライアスの様子が、酷く新鮮なものに思えた。
私を見下ろす緑の瞳が、いつもに増して輝いている様に見える。動きに合わせて揺れる金色の柔らかな髪が、食堂を照らすあかりに透け、何とも言えず美しい。
彼に微笑みかけられて、私も頬を緩めていた。
「楽しいでしょう?踊れた方が。」
「………楽しい、です。」
「良かった。………私は貴方の母上に約束したのですから。最高の教養を。」
思ってもいなかった話が出て、笑顔が消えた。
確かに、私をヨーデル村から連れ出す時に、イライアスはダンスや刺繍がどうのと言っていたのだ。まさかその時の一言に彼が重きを置いていたなんて。
イライアスはゆっくりと身体を離すと、私の手をとったまま、足を折ってお辞儀をした。
「疲れていたのに、すみません。」
「いいえ。教えて貰えて助かりました。ありがとうございました。」
ようやく練習が終わり、部屋に戻った。
この屋敷には立派な図書室が備わっていた。私は寝る前にそこの本を読むのを最近の習慣にしていた。図書室に行こうと廊下に出て、少し歩くとキースと鉢合わせした。
無言で通り過ぎようとすると、声を掛けられた。
「食堂でイライアス様と踊っていたんだって?」
また上官に対して妙な嫉妬をしているのかと、振り返ると、意外にもキースは単純に沈んだ顔をしていた。なんだか心なしかやつれた気がする。
キースは出会った頃、もっと覇気がある男だったのではないだろうか。私がここに来てからの短期間で、随分若々しさが無くなったのは気のせいだろうか。
キースは静かな声で言った。
「あんた、イライアス様が好きなのか?」
「だからなんでそうなるんですか。別に好きじゃありません。」
だから安心して、その落ち窪んだ目をどうにかしてくれ。
キースを睨んでいると、不意に彼の焦げ茶の瞳が見開かれ、私の肩越しに視線が投げられた後、何故か気まずそうに逸らされた。不思議に思って後ろを確認すると、イライアスが立っていた。
心臓がぎゅっと痛んだ。
そんなところにいたなんて、全然気がつかなかった。
イライアスはお休みなさい、と言うと押し黙る私とキースの横を通り過ぎて行った。それを見届けるとキースは後頭部を掻いた。
「ごめん。悪かったよ。」
絞り出す様に呟き捨て、キースは俯いたまま私から離れていった。