1ー3
私の十五歳の誕生日がやってきた。
私は朝から張り切って森に仕掛けた罠を見に行っていた。とりわけ今回は前日の夕方に、自分の誕生日用に特製の罠を仕掛けていた。
森を通る獣道に大きな穴を掘り、布を被せてその上に土や葉を敷き、落とし穴を作っておいたのだ。一日がかりの作業で本当に大変だった。特に穴を掘り終わった後にその中から自分が自力で出られない事に気付き、かなり焦った。夕方にアルが探しに来てくれて心底助かった。さもなければ今頃まだ穴の中にいたかもしれない。
お礼にイノシシでも穴に落ちていてくれれば良いんだけどな……。
そうでなくても、誕生日の今日なのだからウサギくらい、捕まっていて欲しい。そうしたら、誕生日の晩餐の時くらい、肉にありつけるんだから。
ああ、肉。
肉が食べたい。
あの歯ごたえ。
ブチブチと歯に挟まれて切れる音。
興奮を呼び覚ます肉汁のかおり……。
今夜こそ、ありつきたい。
年頃の乙女らしい希望に胸膨らませながら、森の中を回ったが、ネズミ一匹捕まっていなかった。
最後の望みをかけて特製落とし穴に向かうと、なんと穴の上に被せていた布が落ちているではないか!
これは確実に何らかの獲物が捕まっているに違いない、とはやる気持ちを抑えつつ、穴に駆け寄った。笑みとヨダレが零れる期待に溢れた顔で足元の穴を覗き込んだ。
………穴の中には昆虫一匹いなかった。
隅の方に、上に被せていた布と土くれが落ちて丸まっているだけだった。
落胆のあまり暫し無言で穴のフチに佇んでいると、後ろから突然声を掛けられた。
「そこなる娘。」
驚いて振り返ると大きな馬に跨る男がいた。念の為辺りを見渡したが、娘はおろか私達二人以外は人っ子一人いない。
男は間違いなく私に話しかけている。
馬上の人物は金糸の刺繍が煌びやかな赤い上衣に白のズボンを履き、膝まである黒いブーツを履いていた。胸あてや腰に下げた長い剣から推察するに、どうやら騎士のようだ。
男は長いマントをはためかせて私を睥睨していた。
騎士は王都を出てから初めて見た。しかも随分と身なりが良い。こんな森の中で騎士に声を掛けられるのも驚きだったが、男の美貌にも驚愕だった。作り物の様にひどく整った容貌を見上げ、暫し思考が止まった。
私はアルは世界で一番美しいと思っていたが、残念ながら種類の違う美がこの世には存在するらしい。
混じり気のない黄金の髪は波打ちながら後ろで一つに束ねられ、瞳は貴婦人の指を飾る宝石の緑だった。
「この穴を作ったのは貴方ですか。」
実に良い声だった。張りと艶があるのに低音で、聞いていると頭の奥が痺れそうだ。私は男の圧倒的な迫力に押されて、コクコクと頷いていた。
「なぜこんな危険な物を。」
男の顔が整い過ぎていて表情が読みにくいが、どうやら私は怒られているらしい。
でもなんで………。
「森の獣を捕まえて夕食にする為です。」
私が正直に答えると男はその形の良い眉を寄せた。不可解、と言いたげだ。
「この様な子どもじみた仕掛けに森の獣が騙されると思いますか。獣は人の残すにおいに敏感だというのに。」
だってこどもなんだから仕方がないじゃないか。
まあ、言われてみればその通りかも知れない。動物は嗅覚が鋭いらしいから。
しかしなんだってこの騎士はこんな事を言ってくるのか。そもそも、ここで何をしているのだろう。
「危うく私が穴に落ちるところだったのですよ。」
私はハッとした。
まさか人が通るとは思っていなかったのだ。むしろ通りかかったのだとしたら、良くぞ落ちずに助かったものだと、男に対して尊敬の気持ちすら湧いてくる。
もし、穴に落ちていたら、男の跨る馬は骨折を免れなかったかもしれない。そう思うと冷や水を浴びせられた気分になった。
「ごめんなさい。そこまで考えていませんでした。」
「分かれば宜しい。では責任をもって直ちに埋めなさい。」
男はそう言うと私に唐突にスコップを突き出した。それまで馬の背中が死角になり、見えなかったが、騎士のくせにどうしてこんな物を持っているんだ。
雪カキもできそうな大きなそのスコップを受け取り、私は絶句した。渡されたのはうちの近所のウーリヒ爺さんのスコップだった。ウーリヒ爺さんは犬が三度の飯より好きで、あらゆる持ち物に犬の模様を家紋よろしく彫り入れていた。手の中のスコップの柄には、大型犬の横顔が彫られていた。
盗んできたのか。
「早くしなさい。私は待ちくたびれているのだから。」
促されてスコップで穴の中に土を放り込み、穴を埋め戻しながら私は困惑した。どうやらこの男は自分が落ちそうになった罠の仕掛け主を待ち伏せしていたらしい。それもスコップを調達してきて。念入りな事だ。
馬上の男に親のカタキでも見るみたいに鋭い目で観察されながら大きな穴を埋めるのはなかなかしんどい作業だった。
おまけに男は、あちらの土を使え、とか腰の使い方がなっていない、とか細々とした指示を小うるさく頭上から飛ばしてきた。まるで土木作業の監督でもしている様だった。
「ああもう。見ていられませんね。」
苛立って溜め息をつく男に流石にムッとして顔を上げると、驚いた事に男が馬からヒラリとおりた。思わず私は後ずさる。
近くで見ると思ったより若く、まだ青年の様だった。
「私に貸しなさい。貴方がやっていたら日が暮れてしまいますよ。」
そう言うなり男は私からスコップを強奪し、自ら穴を埋め始めた。
素晴らしいスピードだった。ほとんど力をかけずに大量の土を穴目掛けて投げ込み、私が一日がかりで作った罠は見る間に元に戻されていく。
唖然とする私の目の前で作業を終えると、男は秀でた額に薄っすらとかいていた汗を拭った。私は結局全部やらせた事を申し訳なく思い、何とか詫びの気持ちを表明して彼の怒りを鎮めようと、自家製オレンジジュースを入れた水筒を彼に差し出した。持ち合わせがこれしかないからだ。
「この辺りの村は果物で有名なんですよ。庭のオレンジを搾ったものです。」
男ははじめ胡散臭そうに私の水筒を眺めていたが、再び目が合ったので私がニッコリと愛想笑いを浮かべてみると、表情を緩めて水筒を受け取ってくれた。
私は男がオレンジジュースを飲み下している間、気まずさを何とかしようと、自分の家の庭について話した。
「ほとんど何の世話もしなくても、果物がなるんですよ。アンズなんて、それこそ数えきれないくらい。」
飲み終えた男がジュースの味を称えてくれながら、言った。
「では庭の果物は売り物にもしているのですか」
「いえいえ。収穫が間に合わないんです。アンズなんて、家族だけの人の手では手に負えないくらい実が木から落ちるんです。落ちて潰れた実は鳥を呼んでしまって、それがまた庭を糞で汚して……。だからアンズの季節になると母が落ちて潰れたアンズを、発狂しそうになりながら拾うんです。」
男は私の身振り手振りを交えた話を、感心した様子で聞いていた。私が話し終えても彼はまだ私から目を離さなかった。そしてふいに尋ねて来た。
「貴方はこの近くの村の人ですか?」
「は、はい。ヨーデル村ですけど…」
「それは丁度良かった。」
男は一転して途端に輝く笑顔を浮かべた。私まで、ええ丁度良かったです、と意味不明に微笑んでしまいそうなほどの爆発的な引力があった。
「では村まで送ってあげましょう。」
えっ、と目を白黒させる私の前で男は突然かがみ、私を抱え上げた。
何をするんだ、と悲鳴を上げる私をよそに、男は私を馬の背の上に軽々と押し上げた。
おかしな体勢でのし上げられた私のせいで馬がよろめき、落馬の恐怖を感じた私は死に物狂いで馬の鞍にしがみつく。どうにか姿勢を立て直し、馬からおりようとした矢先、男に下からスコップを押し付けられ、その機会を失った。
「あの、ちょっと…」
「貴方一人で乗る訳ではありませんよ。少し前に詰めなさい。」
有無を言わさぬその口調に私は無意識に従って、鞍の後ろをあけた。
えっ、いや、という事はつまり………。
予想は当たり、次の瞬間私の直ぐ後ろに男が乗ってきた。
男の内腿が私の尻や腿に否応無く密着し、恥ずかし過ぎて顔から火が吹きそうだ。
「け、結構ですから!歩いて村まで帰れま…うわっ!」
私の発言は軽く無視され、男の掛け声で馬が走り出した。
スコップを片手に持つ私は鞍から滑り落ちそうになり、手綱を握る男の腕に咄嗟に捕まった。
かたっ!!
男の腕は硬く筋肉が盛り上がり、スラリとした長身からは一見では想像できないほど太かった。貴族の次男坊がお飾りで有力貴族の家に仕える様な、名前だけの騎士ではなく、間違いなく本物の騎士だった。
尚更こんな所に何の用があるのか。
村の建物が見えてくる場所まで駆けてくると、男は馬を止めて口を開いた。
「ここがヨーデル村ですね?」
近い。
耳元で美声を囁かないで欲しい。
私がそわそわと同意すると、男は馬をおり、続けて私を地面におろした。
「この村にホルガーという一家はいますか?」
一瞬喉がぐっと詰まった。
まさか自分の家の名を言われるとは思わなかった。私は慎重に答えた。
「はい。いますよ。」
「どの様な一家です?」
ええと、なぜ貴方は我が家の事など知りたがっているのでしょうか。
こんな初対面の怪しい男に自分の家の話をペラペラ話すわけにはいかない。
警戒心も露わに私が男を睨むと、彼はにっこりと笑った。先ほどと違い、目が笑ってないのは気のせいか。
「お礼は弾みますよ。」
お礼………!?
それは聞き捨てならない。
私は男の頭からつま先までを舐める様に見つめたーーー見れば見るほど金の匂いがぷんぷんする男だった。こんなに背筋が伸びて自信に溢れた男など、ヨーデル村では見かけない。男が腰に下げた剣の鞘には無駄に豪奢な彫り物や貴石がはめられていた。
………ま、まあ、良くみれば良い人そうではないか。うん。お金持ちの人なら変な事はしないに違いない。
お礼が頂けるなら、少しくらいうちの話をしても良いだろう。減るものじゃないし。
それにそれで手に入れ損なった肉が買えるかもしれない。
私は笑顔を急ごしらえして言った。
「私の話なんかがお役に立てるのなら、いくらでもお話します。騎士様。」
男は緑の瞳を微かに細めて私に尋ねてきた。
「ホルガー家はずっと前からヨーデル村にいるのですか?」
「いいえ。えーと、私が子どもの頃に、ホルガーさん達が王都からこの村に来たんです。」
「王都から?」
男の読みにくい表情に、一瞬サッと得体の知れないものが走った。
「え、ええ。とっても善良で温厚なご一家ですよ。噂では貴族階級だとか。」
「貴族?こんな辺鄙な村に、貴族ですか。」
そのいかにも信じ難いといった顔つき、やめてくれ。傷つくではないか。
男はやたらお綺麗な顔を巡らせて、鄙びたヨーデル村を見渡した。
「とりあえずそのスコップを所有者に返却してきなさい。」
ギクリとした。
私が返したら私が盗んだと思われるじゃないか。
だが穴を埋め戻すのをやって貰った手前、文句は言えない。
男は私に一歩近づくと、私の顔を覗き込む様にして声を落として言った。
「また戻って来て、もう少し話を聞かせてくれませんか?……思ったより早く仕事が終えられそうです。」