3ー12
私とフィリップ王子の間を、風が吹き抜けた。私たちは顔にかかった髪をお互い払いのけもせずに、問う様に見つめ合っていた。
「イライアスから聞いていなかった?………これははやまったことを言ってしまったかな。」
フィリップ王子はついと私から視線を外すと、バルコニーを離れた。廊下の中に戻った彼を私は追う。
「あのう、イライアスさんがレスター王子の警護を?」
「宮廷騎士団は王族の警護もするからね。特に過去逃亡経験があるレスター王子には、その意味でも腕の良い騎士がつけられていた。」
そんな肝心な話を、イライアスはなぜ私に黙っていたんだろう。アルの様子を誰より近くで見ていたんじゃないの。
「………そんなに怖い顔をしないでおくれ。可愛らしい顔が台無しだよ。君に話せなかった彼の気持ちは痛いほど分かる。レスター王子の警護は決して愉快ではないからね。レスター王子が君を大切に思っていた事はイライアスも当時から知っていた筈だ。彼にしてみれば、君を横取りした様な後ろめたさがあるんだろうね。」
私の中で再びイライアスに対する評価が揺れた。彼は私に優しくしてくれているようで、そして疑問には表面上は答えてくれている様で、それでいて実際には重要な事を話していないのだ。話していない、というよりはむしろ、何かを意図的に私から隠しているようにさえ感じられる。イライアスの思考は、掴みどころが無いのだ。このままでは肝心な時に手の平を返される気がする。
イライアスを信じられたら、どれほど楽か。けれど彼がそうさせてくれないのだ。
最後にフィリップ王子が私を案内してくれたのは、美術を嗜む為の部屋の様だった。
部屋の壁には所狭しと絵画が掛けられ、あちこちに描きかけと思われる、色が中途半端にしかまだ入っていない絵が立てかけられていた。
絵の具のにおいだろうか、独特の油臭さが辺りに漂う。
フィリップ王子によれば、アルは絵を描くのが趣味で、良くここに入り浸っては少しずつ完成させていたらしい。
フィリップ王子は部屋の奥へ一度消えると、二枚の絵を腕の中に重ねて抱え、再び戻ってきた。見てご覧、と言いながら彼が示した一枚目は、風景画だった。
小さく簡素な家が緑の中に建ち、木々が青空を貫いている。緑の間には家の住人だろうか、二人の大人と、二人の子どもたちが描かれていた。
これはうちだ。
ヨーデル村の景色をアルが描いたものに違いない。赤い髪をした子どもは、小さく描かれているだけなので断言できないが多分私なのだろう。
「私はこちらの絵の方が好きだ。」
フィリップ王子がそう言いながら一枚目の絵をどけて、重ねていた後ろの方の絵を私に見せた。
一人の少女が絵いっぱいの満面の笑顔を見せていた。赤い髪が風にでも煽られているみたいに広がっている。
「これは君だ。多分レスター王子が想像した、少し成長した君。」
決して実物に似ているわけではないが、そうなのだろうと思えた。これは私だ。
恥ずかしい様な嬉しい様な複雑な気持ちで私はその絵に触れた。
どうして私を描いてくれたのだろう?私を恨んではいなかったの……?
絵の中の私の背景は、緑と黄と青の点がまばらに広がり、なんだか良く分からなかった。
「半年前、父上の御耳に不穏な情報が入ったんだ。ガルシアが領土奪還を目論んでいる、とね。そこでレスター王子の私物を再度確認したところ、この絵に目が止まったんだ。彼が親しい人間に昔たまに話していた、大事な女の子の絵に違いないと、直ぐに分かった。だから私は宮廷騎士団長のイライアスにこの娘を探し出して王宮に連れて来い、と命じたのだよ。」
この絵はそんな役割を果たしたのか。驚いて顔を上げた私の両肩を掴むと、フィリップ王子は私の真向かいに来た。
「あの時イライアスはこの絵を食い入るように見つめていた。立ち尽くす彼が非常に印象的だったよ。彼は君の笑顔を見慣れていなかったんだ。ーーーーー君と彼が15歳から付き合っていたというのは嘘だ。」
フィリップ王子の語り口は淡々としていて、笑って誤魔化すのが難しかった。
「それ自体はどうでも良いのだよ。真実では無いと私が知っている事を彼も分かっているだろう。そうまでして手元に君を置きたかったんだね。それとも私がそんなに危ない男だと思っているのかな。」
別れ際、フィリップ王子は私と目を合わせずに言った。
ガルシア王国軍は西進をやめず、じきに国境警備隊を主とした現在の体制ではもたなくなるだろう、と。
「奴等は押しては引いてを繰り返している。焦れたイリリア王国軍が出てくるのを待っているんだろう。心配はいらないよ。イリリア王国軍が出れば小国ガルシアなど、あっという間に打ち負かしてしまうだろう。そうなれば晴れて君は故郷に帰れる。或いは君はイライアスの元に残る方を選ぶかな。」
「………というお話を聞きました。」
私はフィリップ王子が言った最後の一文を除く会話を、帰りの馬車の中で話した。
イライアスは背もたれに深く寄りかかり、腕を組んで私の話を聞いていた。キースは一貫して窓の外を眺めていて、かかわりたくありません、という明快な意思表示をしていた。
「レスター王子にとって、あなた方が如何に大切なものだったかが、良く分かったでしょう?」
「分かりました。でもそれ以上に驚きの情報だったのは、イライアスさんがアルの警護を担当されていた事です。なぜ言ってくれなかったんです。」
「聞かれなかったからです。」
あまりにもいけしゃあしゃあと答えられたので、私がぐっと詰まってしまった。もっと焦ったり悪びれたりするものかと思っていたのに………。私がアルの事を知りたがっていたのは分かっていたんじゃないのか。だったら、自発的に教えてくれたって良いはずだ。全く気が利かな過ぎる。いや、そんなものをこの宮廷騎士団長に要求するのがそもそも間違いか。
とりあえず私は知りたかった事を聞いた。
「………アルは王宮で上手くやっていましたか?アルがどうしていたのか教えて下さい。」
「初めこそ苦労されていましたが、文武に優れた立派な方でしたよ、貴方の弟は。」
「アルは、その、私を恨んではいませんでしたか?」
「なぜ。絵を見たのでしょう。」
フィリップ王子に見せられたヨーデル村と私の絵が、頭の中に蘇った。確かに明るく優しい色彩のあの絵からは負の感情は一切伝わって来なかった。
「あの絵をどう思いました?」
「暖かい、と思いました。私の絵には驚きましたけど。……似ている様で、似てない様な。私の真っ赤な髪の毛があり得ないくらい広がっていましたし。」
イライアスは私の反応をうかがう様にジッと見つめて来た。
「あの絵ーーーーあれは王子が自分に向けて駆けてくる貴方を描いたものですよ。だから髪があの様に。」
走っている私?
意外な解釈を聞かされて私は目を白黒させた。
そんな一場面を切り取った構図だったのだろうか。
「あの絵の背景が曖昧なのは、彼にとって他の景色はどうでも良かったからです。この少女しか、目に入らないーーーーあの絵は、見るものに不用意にもそれを伝えてしまったのですよ。」
それはだって、アルは私と一番仲が良かったのだから。彼を拾ったのは私だし。彼にとって、ホルガー家の中でも私は第一の家族だったから。だから。
…………違う。そうじゃない。
あの絵を思い出し、イライアスの話を聞くほどに、胸が重く、息苦しくなるのは何故だろう。
いつか私にアルが、私の事を家族だと思ったことなどない、と言い放った。蓋をした記憶から溢れ出すのは、いつか彼が私に押し付けてきた唇の熱さと強さ………。
私は堪らずに自分の胸を押さえた。
畳み掛ける様にイライアスが言った。
「レスター王子は、貴方を愛していたのです。家族としてではなく、一人の女性として。」
それを否定する材料を私はもう持たなかった。




