3ー11
「王女様。そもそも貴方が勝手にどこかへ行かれたりなさるから、こんな事になったのですよ!」
過呼吸気味のグラバー夫人に怒鳴られて、王女が大人しくなったのは僅かな間だけだった。
彼女は私をチラリとバツの悪そうな顔で見ると、またグラバー夫人に言い返していた。
「ダリヤとマーヤに処罰を!わたくしの侍女を虐めてくれた代償を払わせるのよ。」
ああ、ついでにお姉様も処罰すべきね、と続ける王女を前にグラバー夫人はその雪の様に白い頭を抱えた。
グラバー夫人は、処罰は与えるが侍女にだけです、と絞り出す様に言った。
「あの二人も倉庫に閉じ込めるべきよ。セーラにしたみたいに。そうでしょ?そうして欲しいでしょ?」
王女が私に同意を求めると、その場にいたイリスもグラバー夫人も私を見た。どうやらそろそろ何か意見を言った方が良いらしい。
「王女様。彼女たちを閉じ込めるのはやめて頂きたいです。」
「あらなぜ?!遠慮はいらないわよ?」
遠慮ってなんだ……。
二人を倉庫に閉じ込めでもしたら、倍返しの報復を受けそうではないか。私はここで顔がきくわけでも広いわけでも、人望があるわけでもない。女信者だけは多い宮廷騎士団長の妻で変わり者王女の侍女という、胡散臭い立場を持ち合わせているだけで、おまけにそれらも私の意思が挟まる余地が無く、いつでも相手の一存で消失できそうな不安定なものだ。ダリヤとマーヤとやらにされた事は許せない。だが目下私はただ、波風を立てずに目立たず騒がず今は王宮で生き延びるしかないのだ。かといって、黙って無抵抗にやりすごせば私への攻撃が悪化しかねない。それはいただけない。
私は冷静になろう、と慎重に言葉を選びながら言った。
「ダリヤとマーヤに同じ事をすれば、悪い事をしても良いのだと教える事にはなりませんか?」
王女は目を瞬かせた。
痛みを知る人間は人に優しくなれるとしばしば言われている。けれども私はそのままの意味では嘘だと思う。
私は教会の子供たちの事を思い浮かべた。見てきた子たちの中には、やはり悪ガキもたくさんいた。私には、幼少時にいじめられっ子だった子が少し大きくなるといじめっ子になるケースが少なくなかった様に思える。……つまるところ人はそんなに上等にはできていない。
「何故いけないのかを分かって貰いたいんです。」
「じゃあ、どうしたら良いと思うの?」
私は暫し考え込んだ。
侍女の間での新人いびりは昔から絶えない中でも今回はとりわけ悪質だとグラバー夫人は怒っているが、ダリヤとマーヤは常日頃から王宮貴族である事を鼻にかけていて、特に地方出身である侍女たちをよくいじめているのだという。
私はグラバー夫人を見た。
ふと農園の光景が頭の中に浮かび、思いついた事を、我ながら自信なさげに提案してみる。発言すべき時はしなければ。新人は意見を表明する機会を誤ってはいけない。
「あの、……ダリヤとマーヤの二人にここの農園の土いじりを手伝わせてはいかがでしょうか。」
グラバー夫人は僅かに目を剥いた。
地方の貴族であれば、経済的に多少のゆとりが無い限り、軽度の農作業を少しはするものだ。別に驚くほどの事ではない。
「大変さや尊さが分かれば、田舎貴族だの、他の侍女を馬鹿にしなくなるかもしれません。」
「素晴らしいわ!お姉様にもぜひ土いじりを…」
「第一王女様には必要ありません。ですが、二人に目を覚まして貰うには、良い機会になるかもしれませんね。面白い考えです。」
思案を含んだ声の調子から察するに、意外にも私の提案はグラバー夫人に気に入られた様だった。
私はふと気になって時計を見ながらポケットから王女の予定表を取り出した。本来なら王女は今この時間、古典の講義の真っ最中のはずだ。
「王女様。古典の講義は如何なされたのです?」
「古典よりダリヤとマーヤの処置の方が大事だわ。」
するとイリスが口を開いた。
「それについては今結論が出ました。さあ、教室に戻りましょう。」
「わたくしは傷ついているセーラについていてあげたいわ。それに古典なんかを学ぶ必要性が全く分からないの。」
「私ならもう平気です。それより古典の先生が気の毒です。きっと傷ついています。」
王女は今度は唇を尖らせて古典がいかに下らないかを力説しはじめた。そして、古典に詳しい事が教養の高さを示すという、王族たちの間の暗黙のルールについてこき下ろした。
「セーラ。わたくし、昔の人の趣向や考え方には特に興味が無いの。古典から何を学ぶと言うの?」
そんな事を私に聞かないで欲しい。それにしても屁理屈の多い王女だ。正直、疲れてくる……。本人は真剣なだけに余計にあしらい辛い。
私は全ての講義に共通する大原則を言った。
「つまらない話もじっと席についたまま聞くという忍耐を学ぶのですよ。」
「あら。上手い事いうじゃないの。」
ダリヤとマーヤは翌日、農園の作業を手伝わされたらしい。相変わらず私めがけて無人のカートが転がってきたり、上から水がかけられそうになる小さな新人いびりは陰で続けられたが、この出来事の様な陰湿な物は以後起きなかった。どうやら、私はグラバー夫人に認められたらしいという事と、何よりあのメリディアン王女が気に入ったらしい、という半ば敬遠されるに等しい距離を持たれる様になったのだった。
アーチが幾重にも並ぶ高い天井のホールを通り過ぎるとそこは北棟だった。
ホールから北棟と繋がる渡り廊下の前後には、私がいつも見慣れた宮廷騎士団の衣装を身につけた騎士たちが立っており、彼等とは北棟の中で頻繁にすれ違った。
メリディアン王女が生活する区画はどちらかと言えば色使いに富み、華やかで温かみがある内装をしていたが、北棟はそれより無駄がなく洗練された雰囲気だった。白い大理石の床が続き、吹き抜けの高い天井から柔らかな陽射しが注ぎ、真っ直ぐに伸びた廊下の両端にはたくさんの部屋が並んでいた。其処彼処に設置された飾り台の上には、私が見た事が無い、用途不明な変わった形の陶器や、不思議な様式や動物の石像が置かれていた。外国からの品々なのだろう。北棟を歩いていると、次第に自分が異国に迷い込んだ気分がした。
私を先導してくれるフィリップ王子は、軽やかな足取りで歩きながら北棟内部の説明をしてくれた。
他国からの客人である王子や王女だけでなく、賓客を接待する際にも北棟は使われるのだという。
アルがかつて使用していた寝室は、今は他の王子が使っているので、見る事は叶わなかったが、それとよく似ているという部屋を見せて貰えた。三部屋からなるその空間は、メリディアン王女の居室と負けず劣らず豪華で、強いて違う点を言えば窓からの見晴らしはあまり良くないという事くらいだった。だが一つ一つの窓の上部に半円形の窓がついていて、それらは多彩な色からなるガラスで細かな模様が作られたステンドグラスで、光が入ると万華鏡の様でとても美しかった。
皆で一同に会する食事の為の大広間は実に巨大で、いかに多くの他国の王族たちがこの国に留学をしに来ているのかが察せられた。
花々と緑が美しい中庭もあり、侍女たちを引き連れた可愛らしい幼いお姫さまらしき少女が、中庭に出されたテーブルについて訳知り顔で茶菓子をつまんでいた。彼女はフィリップ王子が近くを通る事に気がつくと、はち切れんばかりの笑顔でこちらに手を振ってきた。
歩きながら私は尋ねた。
「ここに来ている王子様や王女様は皆様お親しいのでしょうか?」
一瞬答えに詰まった後、フィリップ王子は緩やかな笑みを作って言った。
「そうだよ。………と言いたいところだけれども、現実はそう甘くないかな。国力が本人の立場に比例するからね。小国から来ている王子たちよりはやはり、そうでない王子たちの方が胸を張って闊歩しているよ。」
胸が痛くなった。
では小国な上に敵対国から来たアルは、どう扱われたのだろう。
私の胸のうちを読んだかの様にフィリップ王子は続けた。
「レスター王子は、なるべく目立たない様に終始気を配っていたよ。高名な師から私たちが一緒に受ける授業がある時、たいてい彼は自分だけが分かった解答があっても、それをおくびにも出さなかった。剣の訓練でも、とっくに上達しているのに、肝心な所で手を抜いて勝とうとはしなかった。」
突き当たりにある大きなバルコニーに出ると、風がドレスの裾を激しく揺らした。慌てて裾を押さえる。フィリップ王子はそれを見て軽やかに笑った。
「高さがあるからね。風が強い。レスター王子はこの場所が好きだった。良くここにいて、街並みをーーーーいや多分その先にある更に遠くを眺めていた。」
アルがここに立って、今私が見ている物と同じ物を見ていた………!そう思うと、無性に切なくなる。アルはどんな気持ちでこの場にいて、あの淡い青の瞳には何がうつっていたのだろう。
吹き付ける風の音以外は何の音もせず、バルコニーは静かだった。
フィリップ王子は白いバルコニーの手すりに身を乗り出す様にして寄りかかりながら、呟いた。
この方角は、ヨーデル村だからかな、と。
ハッとして目を凝らすが、整然とした王都の街並みの先にはポツポツと緑が広がり、それは深くなって行き、その先は遠すぎてもう良く見えない。ジッと見ていると風で目が乾いてくる。
アルは、帰りたかった……?ヨーデル村に。
確かめようのない問いが私の胸に渦巻く中、フィリップ王子が言った。
「レスター王子のここでの過ごし方なら私よりイライアスの方が余程詳しいだろう?彼は一時期レスター王子の専属警護を担当している宮廷騎士だったんだから。」
「……………えっ?」
風は奇跡的に止んでいた。私の聞き間違いではないのだとしたら、これは何だ。
私の解釈に問題があるのか、イライアスとの間に予想以上の重大な情報交換不足があるのか。