3ー9
極限に張り詰めた空気の中を、涼やかな音が響く。
イライアスは空になったグラスの表面に彫られた銀色の細工を爪でこする様に弾いていた。
「ひ、人を呼んでおかわりを持ってこさせますね!」
場を離れる口実を思いついた私が椅子から腰を上げかけると、イライアスはグラスを見つめたまま即答した。
「結構です。間も無くキースが持ってきますから。貴方はそこにいて下さい。」
キースが?
さっきの目配せだけでそんな注文が通じたのだろうか。というより、イライアスは侍女を毎度いつの間に手際良く追い出しているのだろう。
一旦浮かせてしまった腰を、仕方なく落ち着ける。
「………ディディエを刺したのは確かにこの私です。」
一瞬自分の耳を疑った。
やはりそうだったのか。でもーーー騎士なのだから、人の命を奪った経験があっても不思議は無いのだ。仕事だったのだから……。
私は自分を落ち着かせようとした。
「あの、フィリップ王子の暗殺って……。」
「勿論計画は失敗に終わりました。毒や暗殺者を用いた複数回に渡るものでしたが……。当時権勢を誇っていたジマーマン家を討つのは大変難しく、ディディエ前騎士団長は私兵を用いて激しい抵抗を見せ、私に同行した騎士たちも相当数が負傷しました。」
イライアスは硬い表情のまま、グラスに焦点を合わせていた。
「他にまだ私に尋ねたい事はありますか?」
私は首を横に振った。
その直後、扉が開くとキースが酒瓶を腕に抱えて戻って来た。私の心配は杞憂だったらしい。補佐官ともなれば、上官の思考を読めるものらしい。流石王立補佐官養成所を首席で卒業しただけはある。それにしても補佐官は給仕の真似事までするのか。
キースによって素早くつがれた赤い液体は、グラスを満たすや否やイライアスの喉に流し込まれた。嚥下の間隔を分からせないほどの滑らかさと速さでそれは消費され、再び空になったグラスはテーブルに置かれると時を同じくしてキースの手で満たされた。
先に食べ終えたイライアスは私がデザートの林檎のケーキをモソモソと頬張る間中、次々と酒を煽っていた。怒涛の勢いで飲まれていくその様子を、私は内心冷や汗をかきながらチラチラと見ていた。
ーーーーまさかのヤケ酒だろうか。
酒に余程の耐性があるのか、白い顔には僅かも赤みがさすことはなかった。
食事が済むとイライアスはさっさと席を外してどこかへ行ってしまった。
ノロノロとやっとの思いで重たい腰を上げると、キースに凄まれた。
どういうつもりだ、と言うと彼は腕を組んで私の前に仁王立ちになった。
私も負けてはいけない。キッと目を座らせるとキースに言ってやった。
「こんなだいそれた事実を私から隠そうとする方がおかしいです。何も知識を与えずに王宮に放り込むのは、柵の中にいる狼の群れに羊を投げ入れるみたいなものです。」
「微妙な例えだな。知識があれば役に立つとは限らない。」
「それを判断するのは私です。………キースさんは私が何もかも分からなくて、どれほどここに来て心細いか分からないんですか?」
キースは精悍につり上がった眉根を寄せると、目を閉じて長い息を吐いた。再び開かれた彼の目は、予想に反してやや気弱だった。
「分かってる。俺だってどうして良いか分からなくて少し困っているんだ。あんたが不安なのは理解出来る。だけと、人には絶対に触れられたくない事の一つや二つあるだろう。五年前の件は、イライアス様にとってまさにそれなんだ。」
珍しく弱気な風情を見せ、うな垂れるキースに軽い驚きを覚えつつ、黙って聞いた。
キースは苦しそうな溜め息を吐いた。
「………五年前、俺の先走り過ぎた行動のせいでイライアス様はあの時深い傷を負われて死にかけたんだ。精神的にもなかなか立ち直れない傷を受けて。だから……、頼むよ。この話はイライアス様からなさらない限りしないでくれ。」
死にかけた……。
当時は相当な乱闘になったのだろうか。
私は暫しびっくりして沈黙した。
「………先走り過ぎたって、どういう風に…?」
「俺は若くて、功を焦ったんだ。まだ十分な準備も心構えも出来ていないのに、ディディエに仕掛けた。やり方が違っていれば、怪我人もあんなに出なかったかもしれない。」
床に視線を投げ苦し気な声を出し、頭を下げるキースは今にも泣き出しそうにすら見えた。いやだ泣かれたらどうしよう。目の前で成人男性に泣かれでもしたら、お手上げだ。
とはいえキースの懇願を素直に聞いてやるのも癪だ。
だがこれ以上突っ込んだ話を私がイライアスに聞くのは確かに憚られる。上官を死に追いやった事は、彼にとって癒え難い精神的な痛手になったのだろうと簡単に想像がつくからだ。それに当時王都にいもしなかった部外者の私がとやかく言える事ではない。
でも。
私は両手を腰に当てて、キースを睨んだ。
「普段偉そうで乱暴なキースさんの頼み事なんて、あまり積極的にききたくないです。」
キースは沈黙して右手を額に当て、しかめ面をした。
「……仕方ないだろ。俺だって正直、あんたの扱いに心底悩んで困っているんだ。」
奇遇だ。
私もキースの扱いに困っている。
「約束するよ。あんたが危なくなったら、俺が命にかえて守る。だからイライアス様に五年前の話を振るのだけはどうか勘弁してくれ。」
焦げ茶の目はいつも以上に昏い色に見え、何か別の所を見ている様に思える。
縁起でもない台詞だ。キースなんかに命をはってもらったら夢見が悪くなるじゃないか。そんな事は逆に頼みたくない。
いつもは斜に構えている癖に、弱り切った様子で頭を下げてくるのは反則だ。とりあえず、考えておきます、と言って私は彼を振り切る様に食堂を後にした。
朝から、メリディアン王女がいなかった。
イリスが起こしに行くと、寝台は既にもぬけの殻だったらしい。その報告を受けてふらふらと脱力して手近な椅子に座り込んだグラバー夫人の頭を、何食わぬ顔でイリスは扇子で扇いだ。夫人はどうやら上気し過ぎてしまったらしい。
かくして私とイリスは王女が行そうな場所を探し回る事になった。イリスは王宮内を、まだ内部に詳しくない私は庭園内を。
イリスによれば、王女は早朝にしばしば勝手に出かけてしまうのだと言う。それ自体が信じられないが、現に姿か見えないので探す他無い。
私はポケットの中から王女の予定表を取り出した。彼女の行動は一日の休みも無く、朝から晩まで決められていた。確かに息が詰まりそうだ。ーーーこれでは逃げ出したくもなるだろう。尤もこれが王族の仕事なのだと考えればそれまでだ。一生誰かに虐げられたり、生活に困ったり、売れない鍋を売り歩く羽目にはならない人生が確約されているのだから、ある意味では仕方が無いのかもしれない。
朝の庭園は湿度を帯びた冷気に満ちており、青い香りが立ち昇っていた。まだ散策などをしている者は一人も無く、葉ずれの音と自分のたてる靴音しかしなかった。時折頭上を鳥のさえずりが掠めていく。
ショアフィールド家の侍女が履かせてくれた靴は相変わらずヒールが高く、歩きにくい。特に芝の上を歩くといちいち躓きそうになる。美しいきめ細やかな芝に私の体重で点々と楔を穿つ様で、庭園管理者には大変申し訳ない。
王宮の庭園は広く、大雑把に区分すれば様々な形の噴水が集まるエリアや花壇を始めとした花々が咲き乱れるエリア、そして王族の口に入る作物を育てる為の農園があった。
それぞれの規模が大きく、探し回っているうちに日が高くなり、今度は遮る物が無い太陽がきつく思える様になってきた。
あまり奥まで行くと迷ってしまい、私が行方不明になりかねない。そもそもいなくなったと気付いてもらえるかも心配だ。
一度グラバー夫人の元に戻ろうか。
もしかしてもうイリスが王女を見つけてくれたかも知れない。
グラバー夫人は手の空いている他の侍女たちにも声を掛けて捜索を手伝わせると言っていたから、一旦戻って状況を確かめよう。その方が効率も良い。
引き返そう。
王宮の建物に戻る前に少しだけ農園の中も確認することにした。
よく整備された畑が並び、畑の脇に小さな倉庫があった。
「あの中で木苺でも盗み食いしていらしたりして…。」
畑と道を仕切る様に背丈ほどの木枠の塀があり、そこには赤い実を付けた木苺の蔓が絡み付いて生い茂っていた。私はあの自由な王女が木苺を摘んでいる光景を思い浮かべてしまった。
人の姿を探しながら農園に敷かれた砂利道を走り、石造りの簡素な倉庫まで行くと、私は木の扉をノックした。返事は無い。
丸い黄銅色のドアノブに手を掛けて回すと、扉を開けた。倉庫の中は農作業に使用する道具が雑然と置かれており、見通しが悪かった。その時私の背後で影が動いた気がした。
確認しようと振り返ろうとした刹那、背中に衝撃が走り、私は前のめりになった。高いヒールでよろめく体重を支えきれず、あっと言う間に床が近付いて、私は両手をつく格好で転んだ。その拍子に靴が脱げて転がる。
なんだ、何が起きたんだ。後ろから何者かにつき飛ばされた!?
痛さを感じている場合ではない。信じ難い気持ちで慌てて立ち上がろうとすると、無情にも扉がバタンと閉まった。
閉められた扉を開けようとドアノブに掴みかかると、回らなかった。血の気が引いた。外から鍵をかけられたのだ。
「そんな汚い所に王女様がいらっしゃる訳がないじゃない。馬鹿ね。」
「田舎から来た子は皆頭が回らない子ばかり。」
心臓をギュッと掴まれた様な気分がした。扉の向こうに誰かいる。声からすると、若い女性………?
「貴方にはここがお似合いよ!」