3ー7
両手のひらが痛かった。私は自分の拳をきつく握りしめ過ぎて、手のひらに爪を食い込ませていた。
アルをヨーデル村まで迎えに来た宮廷騎士団長は、ディディエという男だった。イライアスは五年前に宮廷騎士団長に昇進したと言っていたはずだ。つまり、この男性がいう事が本当だとすれば、五年前にイライアスはディディエという名の騎士団長を殺した、という事だろうか………?
動揺を見せてはいけない。
私はどうにか平静を装おうとした。そもそもそんな事をわざわざ私に言って来るこの男性は一体誰なのだろう。
私は気持ちを落ち着かせようと、ごくりと喉を一度鳴らしてから誰何した。
「あの、失礼ですけれど、貴方はどなたなのでしょうか……?こちらに来たばかりで、御名を存じ上げません。」
「私はレイモンドという。君が仕えるメリディアンにとっては母親が違う兄にあたる。」
レイモンドーーーー!!
瞬時に私の脳内をキースの低い声が蘇り、警告を鳴らした。
実家が失脚したとかいう、第二王子。
マズイ。
確かイライアスの逆鱗に触れる、との有難くもない一言が付加されていた王子の名前だ。とはいえ、逆鱗になど触れたくはないが、聞き捨てならない話であるのも間違いない。
例え実態はどうであれ、イライアスは一応私の夫という事になっているのだ。そんな人が、己の野心だかの為に、上官を……?
「レイモンド殿下……。あ、貴方様は、イライアス本人が前宮廷騎士団長を……こ、殺す所を見ていたのですか?」
「いや。だがディディエが殺されたのは彼の自宅であり、又そこは私の母の生家でもあったのだよ。当時の様子は誰より詳しく聞いている。イライアスは大量の騎士たちを引き連れて、ジマーマン家の屋敷に押し入り、ディディエと剣をぶつからせ、彼を斬ったのだ。彼に鍛えて貰ったその腕で。」
ジマーマン………その名もキースが出していた。
つまり、ディディエはジマーマン家の人間だったという事か。でもなぜ、イライアスが。
もっと聞きたい事はたくさんあるのだが、私が何も知らないと思われるのも嫌だった。
「少し調べさせて貰ったよ。君は、男爵令嬢らしいが、君の家に受け継がれているのはもはや爵位だけで、領地はとうの昔に失っているようだね。そんな君と、なぜイライアスが?彼の狙いは何だ?」
一番指摘されたくなかった事実を突かれ、胸をドッと押された様な気分になる。余計な事を話してはいけない。私は一生懸命動揺を抑えて口を開いた。
「父の領地の有無など、私たちの結婚に関係ありません。私と彼には愛があるのですから。」
「愛、ね……。」
とんだ嘘だ。私たちの間には愛情なんてありはしない。
イライアスがジマーマン家に何をしたのかは知りたくて仕方が無い。だが、これ以上この王子と二人きりで話すのは危険だという気がした。
私は先を急ごうと回れ右をした。
「馬車を待機させていますので、これで失礼致します。」
「待ちなさい。」
歩き出しかけた私の前にレイモンド王子が立ち塞がった。私は思わず足を止め、少し恐怖を覚えた。
そのままレイモンド王子に、まるで顔色を読むかの様に覗き込まれた。
「私は君の味方だよ。……君は、イライアスに良い様に利用されているのではないか?何も知らない君がいつか、散々彼の目的の為に利用されて、捨てられるのではないかと、心配しているのだよ。」
「わざわざご忠告ありがとうございます。ですが、私も田舎からこんな所まで来ている以上、……色々な覚悟はもうできていますので、ご心配なく。」
もう、貴方のお話に興味はありませんよ、という意思を目一杯出したつもりだったが、レイモンド王子は尚も私の進路を塞いだ。
彼は声を落として、私を説得するかの様に言った。
「君は、騙されている。」
ご明察だ。騙されまくって王都に連れて来られた。そんなご忠告は今更だ。でも一応、聞いておこう。
「私が、何を騙されていると仰るのですか?」
「イライアスは君を……愛してなどいない。」
知っているから、それ!
ここまで勿体ぶっておいた挙句、いう事はそれか。
先ほどまでよく視界に捉えられていたレイモンド王子の表情が、見づらい。廊下はすっかり暗くなっていた。夕陽が沈んだのだ。
急がねば本当にイライアスを待たせてしまう。
私は失礼致します、と抑えた声で再度宣言しながら、今度こそレイモンド王子を置いて先へ進んだ。王宮の至宝との異名を持つ、愛の無い形ばかりの夫の元へ。
案の定イライアスは既に先に馬車の前で私を待っていた。その隣にはキースもいる。イライアスは私をみとめると、微かに表情を緩めた。
「遅くなりましたね。お疲れ様でした。」
さあ、帰りましょう。そう言添えながらイライアスは私の手を取り、馬車に乗り込んだ。キースが後に続き、イライアスの隣に腰掛けた。イライアスは馬車の中でマントが邪魔になったのか、肩から外した。それを無言でキースが受け取り、器用に畳み始める。今日は疲れているのか、イライアスは馬車の革張りの背もたれに深くもたれ、深く溜め息をつきながら、両目を伏せた。私はその一挙手一投足を複雑な心境で眺めた。
本当に、ディディエ前宮廷騎士団長を、彼が……?
レイモンド王子の話が脳裏に蘇り、正面に座るイライアスの、石膏の如き滑らかな白い肌に、赤い鮮血が飛び散っている様を思い浮かべてしまう。レイモンド王子が嘘をついていないとすればーーーーイライアスはその時どんな気持ちで上官の返り血を拭き取ったのだろう。もしくは、洗い流したのだろう。
閉じられていた瞳が前触れなく開かれ、強い意思を感じさせる緑色に真っ直ぐに射抜かれて、私はぎこちなく目を逸らした。逸らした先がまずかった。キースのやぶ睨みとぶつかり、私が暫くの間イライアスを只管眺めていた事をキースに気づかれ、気まずさでいっぱいになった。
外はもう真っ暗で、王宮の正門から第一の門までの一本道は、道の両端に灯りが等間隔で配置されており、光る道が眼下に続いていた。
「お父上には会われたのですか?」
はっと顔をあげると、イライアスは窓の木枠部分に肘を乗せ、手の平で自分の側頭部を支えながら、やや下から見上げる形になった目で私を見ていた。
「いいえ。今日は忙しかったので。調理場に行く時間が無くて……。」
「それがよろしい。頻繁に行けばそれだけ周囲に怪しまれます。」
私はふと疑問に思った。
「あの……。私が今日父さんに会いに行こうとしていた事を何故知っているんですか?」
「昨日、刺繍をしていたのでしょう?まさか私にくれるわけではないでしょうから。想像したまでです。」
洞察力が怖い。私が自分で使うとは思わなかったのだろうか。
それにしても、刺繍をしていたのをイライアスに話したのはキースだろうか。
私はまだ手巾がちゃんとポケットの中に入っているかどうか、手を入れて確かめた。何しろメリディアン王女の予定表を一日中、ポケットから出したりいれたりを繰り返していたのだから。
そっと手巾を出すと、私は自分の刺繍を見た。糸が所々はみ出たり、隙間がどうしてもあり、余り上手ではないかも知れないが、手作り感が溢れていて父さんならきっと喜んでくれると思う。
「きっと喜ばれる。」
イライアスが呟き、私は再度顔を上げた。
「えっ?」
「お父上は、大層喜ばれるでしょう。」
私は胸の中心がジワジワと暖かくなる様に嬉しくなり、糸で構成された手巾の模様を指で撫でた。