3ー5
お気に召して頂けなかったのですか。
物憂げにそう呟くと、イライアスはその緑の視線を私の胸元に投げた。
朝食のパンを頬張りながら、私は気まずさに目を逸らした。昨夜貰ったばかりのネックレスを早速今日身につけるのが、なんだかとても恥ずかしかくて、出来なかった。
それに何だか、屋敷の中でたまに向けられる彼の笑顔が怖かった。始終顔を合わせていると、警戒すべき相手なのに、気がつくと心の中にずかずかと彼という存在をいれてしまいそうになるーーーそんな気がしたのだ。私は彼に気を許すのが怖かった。
王宮に着くとグラバー夫人に呼ばれた。朝だというのに彼女は既に疲れた顔をしていた。
なんと王女はまだ寝室にいるのだという。既にイリスが起こしに行っているらしいのだが、まだ起きてこないから、私も寝室に行きイリスを加勢して来る様命じられた。
王女の寝室は赤い小花柄の壁紙がやや煩い、いかにも女の子らしい部屋だった。
「お腹が痛いんだってば!今日は寝ていたいの。」
寝室に入るなり王女の大きな声が聞こえた。天蓋のついた立派な寝台の上で、絹のカバーがされた布団の中に王女が蓑虫の様にくるまっていた。
イリスが王女を睥睨しながら腰に手を当て、冷静な声で言った。
「嘘ですよね、また。昼にある姉姫様のお誕生日の食事会を欠席する為の伏線でございましょう?お見通しですから。」
私は慌てて今日の予定表を確認した。昼食を挟んだ予定欄には、確かに第一王女様お誕生日会と書かれていた。王室の人間が集まってを昼食を食べるのだろう。
第一王女は確か第一王子の妹で、側室の王女だったはずだ。何故姉のお祝いに参加する気がないのだろう。私は素朴な疑問を蓑虫王女にぶつけてみた。
「あのねぇ、あれは皆で寄ってたかってフィリップお兄様に媚びへつらうだけの集まりなの!もっと癪に障るのはお兄様の妃と小生意気なその侍女連中だけれど。それにわたくし仲の良い姉妹もいないの。何にも楽しくないんだから。」
なるほどそれはつまらなそうだ。主役の第一王女も心境いかばかりか。しかし、かと言って祝いの席を蹴るのは大人気ない。組まれている行事に私情を交えずきちんと参加するのは王室の義務でもある。どうしたものかとイリスと困り顔で目を合わせていると、突然王女が上半身を起こした。何やら目をパチパチと瞬いて私の方を見ていた。
「そうだわ。今回はお前がいるじゃないの。お兄様の妃達の侍女連中は日頃からイライアスをそれはそれはうっとりした目つきで見つめているのよ。セーラを見せびらかしてあの連中の鼻をあかしてやろうじゃない!なんて言ったって、イライアスの新妻なんだから!」
ああ、なんて素晴らしい事を思いついたのだろう、楽しみだ、と、急に水を得た魚の様にイキイキとしだして寝台からおりる王女の機嫌と反比例するように、私の心中には暗雲が垂れこめた。
なんてことだ。避けて通りたかったところなのに。私とイライアスの関係など、突っ込まれると困る事ばかりなのに。
初めて王宮に来た時に出会ったシューリやその友達と同じく、イライアスに熱をあげている侍女たちからすれば、私などイライアスを横取りした女にしか思えないだろう。とりわけ王宮で王族の侍女をする女性は皆、基本的に名家の貴族の子女ばかりなのだ。田舎の男爵の娘など、お呼びでなかったに違いない。
私まで急な腹痛を訴えたくなってきた。
弾けんばかりの瑞々しい笑顔の王女は、私を見せつけるという趣味の悪い娯楽を余程楽しみにしているのか、午前中の日程を驚くほどそつなくこなした。
授業だけでなく、彼女には視察や訪問という仕事があった。その日は視察が一つあり、何代前かの王女が創設したとかいう、王宮から直ぐそばにある病院へ私たちは行った。私たちや王女が乗った馬車は、玄関に勢ぞろいした病院の職員たちによって歓迎され、院長が付きっきりで病院の概要や近況を説明してくれた。
意外にも難しいのは、それに対して要所要所で質問をしたり、適切な相槌を打つことだった。何せこちらは病院経営や医学に精通しているわけでは無い。けれど、万人の視線が有るので、非常に興味を持っているフリが要求されるのだ。
また、予め指定された患者とも言葉を交わす機会があった。これもなかなか難易度が高かった。かける言葉が思いつかない。無難な返答が難しい。それらを一身でこなす王女は、王宮で私たちに見せる我儘で幼稚な姿を完全に封印していて、その変わり身の良さにある意味感服した。
お昼になるといよいよホールへ向かった。私は一般的な広い食堂の様な所を想像していたが、そこは一風変わった空間だった。
ホールの中は白で統一され、花々や木々が茂る大きな中庭に面していた。中庭に面したテラスは開けられていて、心地良い風がホールの中まで入って来る。テラスと反対側の窓からは、王都が眼下に一望出来、ここが天空宮であることを改めて思いださせる。まるで宙に浮く庭園のようだ。
ホールには長い食卓が並べられ、既に殆どの王族の人々が席についていた。私と王女、イリスの三人が中に入っていくと、一斉に視線を浴びた。
ーーーまあ、メリディアン様、またご欠席かと思っていたわ。
ーーーあれが新しい侍女?直ぐに又辞めるでしょうね。
ーーーあの子が宮廷騎士団長の!?
密やかな、だがはっきり私たちに向けられた言葉の端々が耳に滑り込んで来る。
メリディアンの席はフィリップ王子の近くだった。フィリップ王子の両隣には天上から降りて来た美の女神かと思うほどの麗しい女性たちが座っており、どうやら彼女たちが王子の妃たちであった。
人間離れした美貌の殿下や妃たちの近くに座るメリディアン王女は、痛々しいくらい視覚的な落差が浮き彫りになっていた。尤も、お妃たちの後ろに控える侍女たちも皆顔立ちが整っており、彼女たちの横に身を縮こませて立つ私も、はたから見れば貴石の隣に転がる石ころにしか見えないだろう。
その侍女たちの一人を見てギクリとした。見覚えがある気がするのだ。記憶違いだと信じたいが、初日に王宮に私が来た時にシューリと一緒にいた女性のうちの一人ではないだろうか………。
彼女は私を一瞥した途端、燃える様な嫌悪を顔中に露わにした。
まずい。
泣く子も黙りそうな、美女による恐ろしい形相に思わず私は一歩下がってイリスの陰に隠れる様にした。
お妃たちの後ろに立つ侍女たちは、お妃が少し動いてその肩からショールが僅かにずり落ちるだけで、その度後ろからそっとショールを直していた。
運ばれて来る料理はどれも豪華で、私たち侍女は後で王女が授業を受けている間に昼を食べられる事になっていたのだが、空腹を抱えながら目の前で垂涎ものの料理が消費されていくのを、ただ眺めるしか無いというのは精神衛生上かなりの問題があった。
主役である第一王女が最初に短い挨拶をすると、参加者たちは各々自由に会話を始めた。
なるほど、メリディアン王女の指摘した通りかも知れない。席についた王室の一員たちは、皆一様に猫なで声で媚びる様な笑顔を作りフィリップ王子にせっせと話しかけていた。そのすぐ近くで相槌すらうたず、つまらなそうな仏頂面をしていたメリディアン王女は、ふと思い立った様に顔を上げ、まだ幼さの残るよく通る澄んだ声で言った。
「良い機会だから紹介したいわ。わたくしの新しい侍女よ。セーラ=ショアフィールド、こちらに来て。」
わざとらしくフルネームを披露して王女は私に手招きをした。やんごとない人々の視線を一身に浴びながら、私はイリスの陰から出て王女の直ぐ後ろに歩み寄った。とりあえず、丁寧に礼を取る。
「お世話になります。一生懸命頑張りますので宜しくお願い致します。」
月並みだが心にも無い事を言った。他に何といえば良いのか思いつかない。
「お見かけしない方ね。……ご出身はどちら?」
誰だか全く分からないが、恐らくメリディアン王女の姉姫の一人なのだろうと思われる女性が、勿体ぶった口調で私に聞いてきた。私がヨーデル村のある地方の名前を答えるとその女性の後ろにいた侍女が口元を白い手で押さえて言った。
「まあ!遥々いらしたのね。勇ましいこと!」
するとそれを受けて周囲にいる者たちはドッと笑った。明らかにそれは嘲笑に近かったので私は物凄く恥ずかしくなった。
今度は何を思ったか、メリディアン王女が口を開いた。
「そうね。セーラは勇ましい宮廷騎士団長ととてもお似合いだわ!」
ホールを満たしていた笑い声が、波が引く様に消えていった。それと置き換えられる形で、侍女を始めとする女性たちの顔に羨望と嫉妬が入り混じった様な表情が走る。私は大層居心地が悪い視線を一同から浴びた。
メリディアン王女はこの状況に至極満足したらしく、笑顔を隠そうともせずにあたりを見渡してから、グラスを手に持ち、なみなみと入っていたそれを一気に口に流し込んだ。
「それはそうと、パトリックは今度剣術大会に出るんだって?」
人当たりの良いフィリップ王子の声がホールに響いた。彼は少し遠くに座る男性に話しかけており、一同の注目はその男性へと移った。
良かった。助かった。
私はホッと胸を撫で下ろした。
話題が剣術大会に移り、皆が口々に話し始めると、ふとフィリップ王子の眼差しが私に向けられた。互いの視線が絡んだ僅かな間だけ、彼の顔に柔らかな笑みが浮かび、時を置かずに逸らされた。
ーーーフィリップ王子は私を庇ってくれたんだ。
微妙な立場である私に皆の注目が集まってしまうと都合が悪い、との判断が働いての行動かもしれなかったが、私には有り難かった。