2ー11
「お芝居を徹底されたいんですね。」
「…………私はヨーデル村のすぐそばにも領地を持っています。私が領地を訪れた際に貴方と出会った、という風に話をあわせておきましょう。」
本当は誕生日の晩餐の為に穴を掘って罠を仕掛けたせいで、出会ったはずなんだけど。
私はずっと疑問に思っていた事を聞いてみた。
「あのう、どうしてそこまでしてくれるんですか?私なんかと結婚して、イライアスさんにはどんな得があるんですか?」
私が問いかけると、イライアスの和やかな笑顔が、水が引いて行くように消え、幾分硬くなった。その視線はつい、と私から逸らされ、私が腕の中に抱える赤い林檎の上に落ちていった。
「貴方の家の果物の木は、あれから切られてしまいましたね。」
びくりと体が震えた。そんな事をどうして知っているのだろう。
アルが消え、子ども達は誰も果汁を絞らなくなった。母さんはアンズの世話をする気力を失い、庭は地上に落下した果物にたかる蟻と鳥に支配され、誰も近寄らなくなった為に目を背けたくなる惨状に陥った。今でも、私はあの腐った甘酸っぱいアンズの匂いを鮮明に思い出す。
見かねた近所の人が、木を枯れさせる薬剤を散布して、果物の木を切り倒してくれたのだ。
眉をひそめてイライアスを見ていると、緑の瞳と私のそれは再びぶつかり、彼は疑問に答えてくれた。
「………貴方を、見ていたのですよ。あれからずっと。」
「ずっと!?まさか、宮廷騎士団は父さんと同じく、私たちの事まで見張っていたんですか?」
「まさか。当時のレスター王子にはそこまでの価値はありませんでしたから。ただ、私は…………貴方があの後どうしているのか気になって仕方がなかったのです。私は貴方をとても深く傷つけてしまったから………。」
「それは………。」
想定もしていなかった事を言われた。
強引で傍若無人な騎士団長が、人間らしい繊細な一面を覗かせた気がした。
イライアスが私を傷つけた、とそこまで長く気にしていたなんて夢にも思わなかった。私を国の戦争の駒にしているとしか思っていなかった。しかもずっと見ていた……って……?
「私をあれからずっと見ていた、とはどういう意味ですか?ヨーデル村にまさかあの後何度かいらしていたのですか?」
イライアスはふいに自嘲気味に笑った。
「貴方は私のことを知ればきっともっと私を嫌悪するでしょう。何も知らなくて結構ですよ。今はご自分が王宮で上手くやっていく事だけを考えたら宜しい。」
淀みなくそう言い放つとイライアスはやっと私の部屋の前から体を動かし、道を開けてくれた。私は彼をジッと見つめたままだったが、彼は振り返る事なく自室へと去って行った。
つられる様に私の足はイライアスの部屋の扉の前まで向かい、既に閉まったもの言わぬ扉を食い入る勢いで見ていた。木の扉の表面に施された装飾の一点に焦点を当て、焦燥感に駆られていた。何を考えているのかサッパリ分からない男だ。
少し内面が垣間見れたと思った次の瞬間には、手のひらを返すように突き放された。
視界のはしに人が映っているのが分かり、慌てて目を扉から引き剥がして確認すると、キースが廊下の先にいた。
クラクラとした既視感に苛まれながら後ずさる私にむかって、キースはゆっくりと近づいて来た。暗がりから出て来た彼の表情は案の定、挑戦的だった。浅黒い肌と濡れたような黒髪は薄闇に溶け込み、張り詰めた敵意とあいまって、夜の闇を縫って現れた野生動物を思わせる。
彼は私と適度な距離を取って立ち止まると、腕を組んで胸を反らせた。
「何してる。イライアス様の寝込みを襲うつもりか?」
「はあ?見ればわかるでしょ!私手ぶらですよ!」
「あんたはいつも道具を使うのか。」
どうやらこの男とは、至近距離で話していても会話が噛み合わないらしい。いくら恨みがあっても、あんなに素晴らしい体格の持ち主を素手で襲撃しようとするほど私は向こう見ずじゃない。第一、イライアスはまだ寝てなどいない。さっきまで私と廊下で立ち話をしていたのだから。どうせならもっと早い段階から目撃してくれ。自分の眉間にどんどんシワが寄って行くのが分かる。最近小ジワが増えて来たから、これは良くない。
キースはふん、と鼻を鳴らしてから言った。
「あんた、レスター王とは何もなかったのか?男女の仲だったんじゃないのか?」
信じられない侮辱の言葉をぶつけられ、一瞬頭が真っ白になった。指先の血の気がすっと引いて行き、同時に血流が頭に集まって熱くなっていく気がした。
男女の仲…………?
姉と弟として育った私たちが、なぜ。
私は怒りで震える声をどうにか落ち着かせながら答えた。ーーーー本当はこんな質問、答えてやる筋合いもないけど。
「私とアルは姉弟です。それ以上でもそれ以下でもありません。何をどう誤解されているのか知りませんけど。」
「そう思っていたのはあんただけじゃないのか?レスター王は、別の感情を…」
「何も知らない癖に、おかしな事言わないで!」
カッとなって幾らか大きな声を出すと、キースはその薄情そうな薄い唇を閉じた。
私の怒りを感じて、納得してくれたのだろうか?
だが私に向けられるキースの焦げ茶色の瞳は、どこか探る様なものだった。
彼は静かな、低い声で言った。
「だがやはりそうでなければおかしい。あんたは人質として義父母より価値が有る筈なんだから。」
「無いんじゃないですか?じゃあ。」
ぶっきらぼうに私がそう答えると、キースは鋭利な刃物みたいな視線を私に向けたまま、呟いた。
「あんた見てると、本当にいじめたくなるよ。」
返す言葉も無い。
情けない事に、黙る以上の怒りの表明をする事が出来ないでいる私を尻目に、キースは吐き捨てる様に言った。
「サッサと部屋に戻ってくれ。俺があんたをこれ以上いじめる前に。」
なんでこんな奴に命令されなければならないのだ。私は部屋の机上に放置したままの、メダルのネックレスを死んでもキースにはもうあげるものか、と固く決意した。明日から嫌味なほど毎日つけてやる。
私も目の前の野生動物をやぶにらみしてやったが、彼が一歩私に近づくとその勇気は砂の城が壊れる様に脆くも一気に崩れ、耐えきれなくなった私は脱兎のごとく部屋に逃げ帰った。
その夜、寝入る直前の霞が掛かった頭の中に、入れ替わり立ち替わり様々な光景が浮かんでは消えて行った。それは酷く曖昧で、過去の物とも想像の産物とも判別が難しかった。やがてその先に感じられた心地良い睡眠の世界に身を委ねようとした矢先、雨にうたれる白い顔が私を振り向いた。
アルだ。
あれは私たちと一緒に暮らし始めて二、三年が経った頃。まだアルと一つの部屋を使っていた私は、その頃には珍しく彼がうなされる声を聞いた。私は布団にくるまってジッと耐え、アルを苦しめるその時間が過ぎ去るのを待っていた。だが一向に止まないその辛そうな声に耐えきれず、心配になって寝台からそっと降り、忍び足でついたてに近寄り、アルを覗いた。彼は何かを払いのけるような仕草で手を空中に押しやり、うなされていた。私が見つめているうちに、アルはふいに小さな叫びを上げてガバリと起き上がると、どこまでも淡い青い双眸を見開き、暫時混乱したかのようにふらふらとその瞳を宙に漂わせた。
それは吸い寄せられるみたいに私と目が合うと、瞬時にバツが悪そうに曇り、アルは廊下に飛び出して行ってしまった。
ふらふらと着いて行くと、アルは引き止める間もなく、小さな家の外へ出て行ったではないか。
外は雨だった。
雨粒が家の屋根を叩くサラサラとした音が絶え間なく続いていた。
靴も履かずに出て行ったアルが、これでは風邪を引いてしまう。玄関に立てかけてあった傘を手に取ると、私はそれをさしながら雨がしとしとと降る外に出た。
アルは雨にうたれるのも気にする事なく、庭先にポツンと立ち尽くしていた。濡れそぼった髪からはひっきりなしに水が滴り落ち、その両手は拳を握り締めていた。傘の中にいれてやると、長い睫毛に引っかかっていた雨が、アルの抜けるように白い頬から滑り落ちて消えた。ーーーそれは涙だったのかもしれない。
彼は後をつけて来た私に特段驚く様子もなく、口を開いた。
「………この家の子に生まれていれば良かった。」
「アル……。どんな怖い夢を見たの?オバケ?それとももっと嫌なもの?」
アルは引きつったように笑うと、その顔をグッと私に近づけた。雨を浴びて冷たい唇が私の唇に押し当てられた。ちょっと戸惑う私に、アルは告げた。
「セーラの唇は柔らかい。無垢で罪が無い………。」
「アルの唇も柔らかいよ。」
「………セーラの唇は、……違う。全然。」
するとアルは今度は角度を変えて唇を押し付けて来た。始めは冷たかったそれに、次第に温もりが通い始める。
あの十歳の夏以来となるこの行為に、私はほんの少し怯え、ジリジリと後退った。アルが傘を手に持つ私の手を無意識下に払いのけたせいで、私たちは気が付くと再び雨を浴びていた。
「もう、しないよ。最後にするから、もう少しだけこうさせて。」
泣き出しそうな声でそう訴えながら、アルはついばむ様に私の唇に何度もキスをした。混乱したアルが漸く気を落ち着かせ、私にキスの雨を降らせるのをやめてくれた頃には、私たちは池にでも落ちたみたいに濡れていた。
それを最後に、宣言通りアルは私には頬にすらキスをしてこなくなった。