2ー10
「私が怖いですか?ならば二度と妙な画策はしないように。」
「は、はい。」
「私は今から出掛けます。」
「へ?あ、はい。」
「帰りは遅くなります。」
「ご、ご勝手に……。」
「…………。」
「い、行ってらっしゃいませ。」
イライアスは暫く私を見つめた後、くるりと背を向けて出口に向かって歩き出した。
彼が消えて行った扉を私は椅子に座り込んだまま長いこと凝視していた。
机に置きっ放しにされた母さん宛ての手紙に目を走らせると、アルについて書かれた箇所がきっちり塗り潰されていた。更に誤字脱字や文法上の誤りがある部分に赤く下線が引かれ、几帳面に説明が朱書きされていた。ご親切な事だ。教師みたいな男だ。
やられたこちらが本職なのだから、立場が無い。大急ぎでしたためたから、仕方が無いじゃないか。
恐らく最も添削騎士様のご不興を買ったのが、私がショアフィールドのつづりを間違えた箇所らしかった。一際目立つ大きな字で訂正がされた上に、小さくお綺麗な字でショアフィールドという名前の由来について、「つづりを覚えやすくする為の補助的情報」である旨を明記した後に長々と書き連ねられていた。
ーーーーーー部屋に戻ろう。
痺れた様な頭で立ち上がると、数歩進んだ所で靴の下でジャリっと音がして何かを踏んだと気づいた。靴を退けるとそこにはメダルから落ちた鎖が転がっていた。何気なくそれを拾い上げると、両手に鎖とメダルを持ってぼんやりと考えた。留め金に刻印された、材質を示す細かな字を、目を凝らして確認するとどうやら純金製の様だった。母さんが箪笥の奥深くに大事にしまっていた金のネックレスですら、純金製では無かったのに。
純金だとあまり丈夫じゃないなら、少しくらい混ぜ物がされている方がいっそ良いのよ!と母さんが強がっていたのを思い出した。
イライアスは私にくれると宣言したのだ。有難く頂戴してやろうではないか。
切れた鎖を修復する技術もツテも残念ながら持ち合わせていない。私は無惨な形状と化したメダルの穴に鎖を通すと、千切れた鎖の端と端を手で紐の様に結んだ。元々イライアスが首に掛けてもゆとり有る長さだったそれは、頭から被るとどうにか私の首にも下げられた。
それはイライアスに対する私のささやかな反抗心だったのかもしれない。
部屋に戻るとキースがやって来た。
彼はイライアスに命じられて、私に王宮のしきたりについて説明をしに来たのだと言う。
部屋の戸口から動こうともせず、彼はさも不本意そうにその任務を開始した。
「いいか?メリディアン王女は侍女を困らせる事を生き甲斐にしている我儘女だ。振り回されるな。第三王子は自分に落とせない女はいないと自覚している。歩く女捕獲器みたいな王子だから上手くあしらえ。他の侍女たちとは波風立たせない様適当に持ち上げて従っておけ。以上だ。」
なんて口が悪いんだ。
王宮の人間が聞いたら卒倒しそうだ。
しかも簡潔過ぎやしないか。明日から働く人間に対してもっと丁寧に説明しておくべき事項は有るのではないか。
私は念の為更なる情報の開示を促した。
「あのう、他には?」
「ああ、大事なのを忘れていた。第二王子の母親は五年前に失脚した大貴族ジマーマン家の娘だ。あの王子と関わると厄介だから避けろ。というか会うな。イライアス様の逆鱗に触れるぞ。」
私は無意識に胸元のメダルを触った。逆鱗に触れたらきっと私がこのメダルになるのだろう。
「おい、そのネックレスはまさか…」
「はい。イライアスさんから貰いました。」
「なっ…!ズルいぞ、何時の間に!」
ズルいって何がだ。
ハッキリ言って壊されてから貰ったし。というか拾い物に等しかったし。
そんな風に顔を赤くして睨まれる筋合いは無い。
「………欲しいのなら、あげますよ。鎖が切れていますけど。この独創的な形はイライアスさんに元に戻して貰った方が良いと思います。」
怪力だからこれを直すのくらい朝飯前だろう。
よいしょ、とネックレスを外そうとすると、キースは後頭部を掻きながら鼻を鳴らした。
「ふん。まあ、良い。許してやる。あんたから何か貰うつもりはない。兎に角、説明はしたからな。」
本当に説明はこれだけですか?!と不満を表明する私に彼は言った。
「心配するな。明日にはきっとイライアス様の妻だと噂が回っているだろうから。ショアフィールド家の大船に乗っていれば危ない目には合わない。」
「えっ、嘘!やだ、私、妻じゃないから……!」
するとキースは突然ふき出して笑った。直ぐに真顔に戻ると鋭い目つきで私を捉えたまま言った。
「あんた……変わってるよな。」
キースからは、今まで止む事を知らず鮮烈に出ていた敵意みたいなものが、この時ばかりは幾分弱められていた。
「イライアス様に全然似合っていないと思っていたが、不思議とあんたが来てからイライアス様の表情が豊かになったのは確かだ。女性と深く付き合うのを何年も避けて来たイライアス様がご結婚なさるのはこの上なく目出度いが、相手があんたじゃご乱心としか思えなかったが………。」
イライアスの表情が豊かに?
全然そんな風には見えない。
「それでも、イライアス様に惚れるのは俺が許さないぞ。あくまでもあんたの今の地位は一時的な仮のものでしか無い。」
困惑する私をよそに、キースは一人で勝手に溜息をつきながら首を左右に振り、踵を返して去って行った。
勝手に私に反発心を抱いているみたいなので、本当に厄介な男だ。
翌日は身支度の為に日の出前に起こす、と侍女から脅迫じみた宣言をされていた為、私はその日早目に就寝する事にした。
高いヒールで痛めた足の甲を摩りながら、寝台の上で丸くなって考えた。
…………もう、逃げてしまいたい。
王宮で侍女なんてやりたくない。イライアスの側にもいたくない。それに何より、私が王宮にいたら、ガルシア王国で頑張っているアルの足でまといになってしまう。
アルはまだ十年前の私を恨んでいるだろうか。更に憎まれる様な事態だけは避けたい。
あの淡い瞳をもう一度見たかった。アルに、会いたかった。
どうにもならない身の上に思い悩んで寝台の上でゴロゴロ転がっていると、喉が渇いてきた。我慢しようかとも考えたが、気にし出すと気になって仕方がなくなり、どうしても喉を潤したくなってきた。
おまけに明日は王女に会うのだと思うと、気が重くなってきてしまい夕食があまり喉を通らなかった。そのせいか今更ながらお腹の虫が騒ぎ出してしまった。
お腹がすいた……。
仕方が無い、台所に行こう。
屋敷は広かったが、ウロウロすればそのうち台所に辿り着くだろう。私は部屋を出ると薄暗い屋敷内を彷徨い始めた。どうせ台所は食堂の近くに配置されているのに違いないという私の洞察力はたいしたものだった。案の定食堂の奥には調理場があり、中に倉庫室の様な部屋がついていた。
サッと目を走らせ、棚に陳列されていたパンを小脇に挟み、赤く熟れた林檎を鷲掴みにすると、残る左手に水をいれたコップを持った。
人に見つからない様にいそいそと台所を出ると、自室に向けて急いだ。美味しそうなパンだーーー抱え込んでいる細長いパンから、甘い小麦の香りが立ちのぼり、食欲をそそる。もう少しで部屋に戻れるーーーそう思って顔を上げると、ギクリと私の心臓が跳ねた。
私の部屋の前にイライアスがいた。
彼は扉の前で仁王立ちになり、腕を組んでこちらを見ていた。
嘘でしょ………。なんでよりによって今いるのかな。しかも私の部屋の前で………待ち伏せか?
慌ててどこかに身を隠そうかと思ったが、時すでに遅く、彼は真っ直ぐにこちらを視界に捉えながら速足で私の目の前までやって来た。私は拝借してきた林檎とパンをどうにか腕の中に隠そうと、モゾモゾ両腕を動かしながら口を開いた。
「えーと、今お帰りになったんですか。随分と遅かったんですね。………こ、ここで何を?」
「部屋の扉が開いていたので。どちらに行かれたのかと案じていました。」
そう答える間、イライアスの視線はひたと私の腕からはみ出たパンに注がれていた。やがて彼の端正な顔が歪んだかと思うと、次の瞬間腰を折って俯いて肩を小刻みに震わせ始めた。イライアスが笑っているのだと気がついたのはその少し後で、それに気付くと私は顔から火が吹くかと思うほど恥ずかしくなった。
「食事が足りませんでしたか?」
それ以上笑うのを何とか堪えようとして失敗し、おかしな顔になりながらイライアスは私に尋ねた。人の家の食糧を漁ったことがバレ、更に思い掛けぬ人物に笑われた恥辱からか、気がつくと私は逆上していた。
「……ご忠告に従いましてもう少し肉を付けようとしただけです!お気になさらず!」
「……すみません。昼間のあれですか。怒らせてしまいましたか。」
「今分かったんですか。気付くのが遅いです。」
その時、廊下の先から時を告げる鐘の音が二回響いた。
もう深夜だった。
「随分お帰りが遅かったんですね。また王宮に?」
「いいえ。………少しばかり用事がありまして。」
「えっと、……ああ、もしや女性の所でしたか?余計な事を聞いてすみません。」
私は軽蔑の思いを込めてイライアスを一瞥し、自室に戻ろうとした。だが扉の前にイライアスが立ち塞がっているので進めず、たたらを踏んだ。空気を読んでどいて欲しい。
「貴方が言う通り、私はシューリに会いに行っていたのです。」
「そ、そうですか。」
別にそんな報告はいらないんだけど。
「シューリとはもう会いません。貴方に失礼ですから。」
えっ……。
私は虚を疲れて暫し惚けた様にイライアスを見上げた。
「………それとも貴方は私が別の女性とどこでどう会おうが、気になりませんか?」
「全然気になりません。」
「……………。」
「……………。」
急になんだか気まずい沈黙が垂れ込めた。私は軽く咳払いをしてから、逆に質問をしてみた。
「じゃあ、例えばイライアスさんは私が男性と二人でいたら、気になるんですか?」
「なります。とても嫌な気分になります。」
えーと、それは一体どういう事だろう。
そもそも女性とは一夜限りが主義じゃなかったのか。
形ばかりの結婚を勝手にしたからって、私が頼みもしないのに、貞淑な夫を演じてくれちゃう気が満々で、それを私にも強要したい、という事だろうか。
相思相愛で結婚したというお芝居を、もしや徹底したいのだろうか。だとすれば、納得できる。私に黙って婚姻届を出した事実を、隠蔽したいのだろう。