2ー7
私が父さんの蒸発以降に我が家に起きた出来事をひとしきり話している間、父さんは目に涙を溜めて口を真一文字にきつく結びながら、うん、うん、と頷いていた。
それは単純な相槌ではなく、自分をどうにか納得させる為のものに見えた。父さんは理不尽に離された家族との距離を、父さんの送金のお陰で無事に成長し、うまくやってこれた娘たちの話を聞いて、なんとか我慢しようとしているのではないかーーー私にはそんな風に見えてならなかった。
姉さんに赤ちゃんができたことを教えると、父さんの濡れていた目から、遂に一筋の涙が流れ落ちた。
「ねえ父さん、母さんに会ってあげてよ。お願い。」
「できないんだよ、セーラ。状況は悪化しているんだ。ガルシア王国と戦争が始まってしまったし。それに、今やレスターはあちらの王だ。もう父さんはお前たちに会うのを諦めていたんだ。まさかこんな形でセーラと会えるなんて思いもしなかった。」
それは私たちも同じ気持ちだった。
そして私には父さんが考えた事も理解出来た。母さんと姉さんがガルシア王の家族だとバレれば、二人を守ってくれる人は誰もいないのだ。父さんは母さんと姉さんを守りたいんだ。
でも、私はもう一つ言わなきゃいけない事があった。
私はイライアスに一瞬視線を投げた。
彼は何時の間にか手に持っていた人参の、フサフサとした葉を指先で気まぐれの様に撫でていた。
私は父さんに今一歩近づき、声を落として囁いた。
「父さん、私ね」
「セーラ。」
何の前触れもなく乱暴に背後から肩を抱き寄せられた。
イライアスのその唐突な動作のせいで、私は忌々しいほど高いヒールによろめき、倒れこみそうになる。そんな私をイライアスの力強い腕が抱きとめ、私は彼の胸の中に押し付けられた。私の首筋にイライアスの髪が触れたかと思うと、イライアスは私を抱きすくめたまま、私の耳元に唇を寄せて来た。そうして小さな声で素早く耳打ちしてきた。
「ホルガー殿は昨年、大きな病気をされたのですよ。まだ本調子ではないホルガー殿にこれ以上、ご心配をおかけしてはいけませんよ。」
父さんが病気?
全身にどっと冷や汗が出てきた。
イライアスは私が父さんに今正に言おうとしている事が、分かったのだろうか?
ねえ父さん、私この見知らぬ騎士団長と勝手に結婚させられたの。変態王子の妹の侍女をさせられそうなの。助けて。と。
自分の一身上に起きている出来事が突飛過ぎて、説明が憚られるほどだ。
私は抱き寄せられていた身体を解放されても、硬直したままだった。
父さんに相談した方が良い?
それとも………。
父さんは戸惑った様子で私に言った。
「病気といっても、たいしたこと無いし、今はもう治っているから心配いらないよ。セーラ、それより……お前までこちらに来る事になって、父さんはお前と、村に一人残された母さんが心配だ。その…私たちは今や人質みたいなものだからね。」
みたいなんてものじゃない。れっきとした人質だ。
「ガルシア王国軍とイリリアの国境警備隊が衝突し始めたと耳にして、嫌な予感はしていたんだ。騎士団長殿から聞いているよ。セーラも王宮で働くように命じられてきたんだろう?お前はアルと一番仲が良かったからね。」
こんな事になるんじゃないかと思っていたんだ、と絞り出された父さんの声は苦悩に満ちていた。
「父さん……私、こんな所で働きたくない。それがだめなら、せめて父さんと暮らしたい。」
「出来るならそうしてあげたいよ。でもね、セーラ。父さんはお前にここで下働きなんてして欲しくないよ。ここでは権威や後ろ盾といったものが非常に重要なんだ。父さんなんかといたら、かえってお前の為にならない。聞いた話じゃ、騎士団長殿が身元保証人になって下さるそうじゃないか。大貴族ショアフィールド家なら間違いない。父さんを助けるように当時の騎士団長に進言して下さったのも、ここにいるイライアス=ショアフィールド様なんだよ。」
イライアスが父さんの命の恩人?
意外な事実を知らされて三たび振り返ると、イライアスは私と少しの間目を合わせただけで、何も言わなかった。
「そのお方なら、王宮でお前を必ず守って下さる。国王陛下からも、そして次の国王におなりになるであろうフィリップ殿下からもご信頼厚い、頼り甲斐あるお方だよ。異例の若さで騎士団長を任ぜられている、類い稀な。」
私を安心させる様にイライアスを褒めちぎる父さんに、イライアスが口を開いた。
「有難いお言葉です。報告が遅れてしまいましたが実はセーラの立場を強固にする為に、私との婚姻を昨日済ませてあります。」
父さんの表情が固まった。
無理も無い。
しかしその後に続いた父さんの反応は、私の予想を上回るものだった。
父さんの目はゆっくりと見開かれ、一定の大きさで止まると、ダラしなく口が開き、その短く太い喉が震え始めた。まるで喉の中で小さな動物が暴れているみたいに。
続いて薄暗い部屋のなかですら、明らかに顔色が悪くなって見える父さんは、掠れた声で言った。
「……ああ、そんな。まさか……。それだけはお許し下さい。田舎者のこのセーラに騎士団長殿の奥様など、到底つとまりません!」
父さんの目からは私に再会出来た喜びがすっかり失せ、代わって強い困惑の色が浮かんだ。
父さん!
もっと言ってやって!
出来れば強気に恫喝して欲しい。
娘はやれません!と。
「ホルガー殿、ご心配なく。私は武人ですので、貴族然とした社交などはセーラに望みません。必要な立ち居振る舞いなど、王宮に勤めていれば間もなく身につきましょう。」
「騎士団長殿……。そんな…、どうかご慈悲を。セーラを妻になど…何故です。ど、どう考えても不釣合いではありませんか。」
なんだか父さんの様子があらぬ方向へ行っている。先ほどまで褒めちぎっていたのはなんだったのか、と首を傾げたくなるほど父さんは狼狽していた。
身分違いの男と自分の娘が結婚させられたことから来る焦りや恐縮といった感情と、少しの怯えが手に取るように伝わった。
頼れと言った舌の根もかわかぬ内に。
「セーラはまだまだ未熟者です。それに、王宮の至宝と名高い騎士団長殿と鍋売りの娘では、ちぐはぐが過ぎるではありませんか。」
「そのくだらないあだ名をホルガー殿までご存知だったのですか。………ホルガー殿。いえ、義父上。セーラは私が責任を持ってお預かりしますからご安心を。戦が終われば里帰りもさせますので。」
「ちょっと!それどういう意味ですか?まさか私は村に戦が終わるまで帰れないって事じゃないですよね!?」
「…セーラ、なんて口のきき方を……!」
父さんは骨の髄まで震え上がっている様な声を上げて私とイライアスを交互に見た。
対するイライアスは悠然としていた。
手に持つじゃがいもを無意味に右手から左手、そして左手から右手に持ち替えながら、父さんは眉根を寄せて気の毒なくらい動揺していた。過呼吸にでもなるのではないか、と不安になるくらい浅い息を繰り返している。
私は改めて十年振りの父の姿を見つめ直した。
どう見ても貴族には見えない。
調理人である事を示す白い上掛けの下に着ている服は、平民の物。
ただあの日から年をとった私の父がそこにはいた。父さんは、やはりあの父さんだった。
しがない料理人である父さんが、宮廷騎士団長のイライアスに向かってできる事は余りにも限られているのだろう。
私は期待していた事が脆くも崩れ去ったのを感じた。結局どうすることも出来ないのだ。ここまで連れて来られたからには、私はこの珍奇な事態に飲み込まれるしか道は無いらしい。