2ー5
窓の外の晴れ渡る青空色の瞳を歓喜に輝かせ、靴の音を軽快に響かせながらその男性は私の至近距離に迫った。
腰まである艶やかな茶色の髪をはためかせ、男性は私の前で膝を付き、そのまま私の手を取り、その甲に口付ようとしていた。
私は火に触れたみたいに、勢い良くその手を振り払った。その拍子にガクンと足がグラつき、高く細い慣れないヒールに躓き、転倒してしまった。
「姉上、お怪我はありませんか?!」
男性が輝く満面の笑顔で私を助け起こした。
私はイライアスに助けを求める視線を送りながら叫んだ。
「イライアスさん、この人、誰ですか!?」
「私をお忘れですか?アルですよ、姉上。」
「そんな筈ありません!」
アルと同じく、大変整った容貌の持ち主ではあったが、アルの面影は全く無い。それに髪や目の色が違う。更には、目の前の男性には内面から滲み出る様な華やかな雰囲気があった。例え脱皮していようともアルではあり得ない。
いくら十年もの歳月が経っていても、それくらいは分かる。家族だったのだから。
私が逃げる様に男性から離れると、イライアスが呆れたような口調で口を挟んだ。
「殿下。ですから、そんなお芝居は通用しないと申し上げたのです。殿下とかの王子とでは、あまりに違い過ぎます。」
軽快に笑ってからその男性は残念だ、と言った。その顔は全然残念そうには見えなかった。彼は一旦笑いを収めると、真顔になった。
「私は第三王子のフィリップだ。ようこそ天空宮へ。」
第三王子と言えば、正妃の王子で確か次の国王に最も近いと言われている王子だった筈だ。何人もいるという王子の中でも、この私ですらその名を知っていた。確か、麗しの美王子様、との別名を持つ王子だった気がする。
その有名な王子が、なぜアルのフリなどしている。
「はじめまして。あの、アルは何処にいるのですか?」
「君たち家族がアルと呼んでいた人物は、もう天空宮にはいないよ。」
えっ、と反射的に呟き、私はイライアスを問う様に見つめた。
イライアスは表情一つ変えずに言った。
「私は王子様が貴方に会いたがっている、と言った筈です。貴方の弟の名は一度も口にしていません。」
イライアスが言わんとする事が私にはまだ理解出来なかった。目を白黒させたまま彼を見上げていると、イライアスは溜め息をついた。
「申し訳ありません。私は貴方を騙して王都に連れて来ました。今貴方が弟に会う事は出来ません。」
「そう。君を呼んだのはこの私だよ。」
騙された?
アルがここにいなくて、会えない?
私は驚愕に目も口もだらしなく開いて、目の前の美形二人を交互に見た。
事態が飲み込めないのは私が田舎者だからか。何が起きているのかさっぱりわからない。
騙されて宮廷騎士団長に寝起きを攫われて、勝手に結婚させられ……………今、茫然自失する私の両手首に、なぜか麗しの美王子様が手早く銀色の輪をはめていた。一瞬腕輪かと思った呑気な自分の思考回路を数秒後に死ぬ程罵った。
麗しの美王子様は私に手枷をはめていた。
「何ですか、これ!?」
私の両手首を謎の枷の上から優しく握り締めて、麗しの美王子様が麗しい微笑を浮かべて歌う様に囁いた。
「君の為に特注したんだよ。花の模様が可愛らしいだろう?」
「そんな事聞いてません!なぜこんな物はめられなきゃならないんです!?」
「君を逃がさない為だよ。セーラ。君が騙されてくれないのなら仕方が無い。君の弟アルの最大の弱点は君だからね。」
私は手を枷から抜こうとしてガチャガチャと枷を動かした。両手首に巻かれた銀の輪は鎖で一つに繋がれ、可愛らしい彫刻がされた華奢な外観に反して、頑丈だった。
「殿下。セーラは私と昨日結婚しております。この様な扱いは困ります。」
イライアスの告白を受けて、麗しの美王子様はたっぷり三秒かけてその目を見開いた。
「結婚!?イライアス、お前が?まさか…」
「私達は彼女が15の時に知り合ってから、ずっと愛をあたためあって来た仲なのです。」
ねえ、セーラ、と脳髄が蕩けてどこかへ流れて行ってしまいそうなほど、艶っぽく同意を求められ、私は動転しつつも話を合わせろと言われていた事を思い出した。イライアスに話を合わせれば、手枷を外して貰えるのだろうか。だとすれば、捨て身で一芝居打つ必要がありそうだ。
私は王子様の手を払うと、甲斐甲斐しくイライアスの背中に隠れた。
「………イライアス。お前らしくもない。なぜそんな事をした。」
「セーラ=ホルガーとして彼女を差し出せば、殿下が彼女に何をなさるか分からないからですよ。その手枷の様に。」
「それは心外だな。私は別にセーラを慰み者にしようなどとは思った事もないぞ?」
「………慰み者にするつもりだったんですか。」
変態だ。
間違いなく麗しの美王子様は変態だ。
麗しの変態王子はイライアスの背に隠れる私を覗きこんで言った。
「弟の真実を知りたいか?彼は君の弟などではない。君と同い年だ。彼は我がイリリアの敵国、ガルシア王国の第二王子として生まれた。」
ガルシアの王子?
そんなバカな。
アルの年齢は私も疑っていた。けれどそれは瑣末な事だ。私達は彼をイリリアの王都からそう離れていない森の中で見つけたのだ。そのアルが、ガルシアの王子だったなんて、あり得ない。
「この天空宮には他国の王子がたくさんいるのを知っている?」
麗しの変態王子に言われて、私はある言葉を思い出した。
人質外交。
子供の頃、本で読んだではないか。
イリリアは周辺諸国を圧倒する莫大な経済力と文化を保持している。そんな大国イリリアに王子を留学させる国は多い。だが一方で留学というのは表向きの理由で、実態はイリリアに王子を差し出す代わりに平和を約束する人質みたいなものなのだという。
「ガルシアとイリリアは昔から小競り合いが絶えなくてね。第二王子は和平協定の印に、五歳の頃にイリリアにやって来たんだよ。それなのに、彼が九歳になると、ガルシアとイリリアの国境線で再び戦が始まってしまったんだ。その頃、ガルシアのスパイが第二王子を天空宮から本国に戻そうと連れ去った。スパイは捕らえたんだが、肝心の第二王子が長く行方不明になっていたんだ。彼の身の安全の為に、敢えて公にはされなかったんだが、あの頃は王宮が大騒ぎになったものだよ。」
まさかその逃げた第二王子が、私達家族が拾った、アルだったというのか………!
私は出会った頃のアルを思い出した。
私のうちに来たばかりの頃、彼が夜に度々うなされていたのを思い出した。15歳の時に迎えが王宮から来ても、彼はちっとも嬉しそうではなかった。………それはアルが人質だったからなのか。
麗しの変態王子は笑顔を消し、冷徹な瞳で私を見据えた。それは他者を見下す事に慣れた、薄情なまでに人を利用しようとする王者の顔だった。
「今ガルシア王国軍を率いているのは君のアルだ。彼は兄王子の急死を受けて、八年前に王太子として正式にガルシアに帰国した。彼は今、ガルシア王国の王だ。レスター王。それが君のかつてのアルだよ。」
アルが、王様?
聞かされた言葉は実感をまるで伴わず、私の頭の中をただただ旋回していた。レスター。それがアルの本当の名前だというのか。
私の手首にぶら下がる手枷が、急に重たくなった様に感じられた。
なぜあんな大軍が私の家を取り囲んだのか。
それに対する答えは、今十分に与えられた。
ホルガー家は敵国の王を育てたのだ。
「君はレスター王ーーーーアルと一番仲が良かったそうだね。戦いが長期化すれば、私は君を前線に連れて行く。それまでは、イライアスの身を削る愛に免じて、この手枷は外してあげよう。」
麗しの変態王子は私の手をそっと取ると、華奢な小さな鍵を手枷に入れて回し、私を拘束していたそれはガチャン、と金属音を立てて床に落ちた。
口ぶりや仕草はあくまでも丁寧であったが、やっている事は容赦が無い。
麗しの変態王子は解放された私の両手首を握り、軽く首を傾けて言った。
「イライアスと愛し合っているなんて嘘でしょう?」
「あ、愛し合っていますとも!だから、彼と離さないで下さい!」
自分でも鳥肌が立ちそうな寒い台詞を吐いていた。でもイライアスは少なくとも手枷をはめたりはしないだろう。この得体の知れない王子に捕らえられるくらいなら、イライアスの方が数ミリマシだ。
麗しの変態王子は私の目の奥を見透かす様な目付きで、ふうん、とだけ言った。
多分信用されていない気がしたが、それ以上は何も聞かれなかったので黙っている事にした。
彼はもともと座っていた椅子に向かって、コツコツと足音を響かせながら歩いて行った。そこに深く腰掛けると私を真っ直ぐに見た。
「君には私付きの侍女になって貰う。明日から…」
「殿下。お話が違います。王女付きの侍女にさせると仰っていたではありませんか。」
「ははは。そうだった、そうだった。だがどうだろう、本人の希望を聞こうではないか。セーラ、私には同母妹がいてね。私とその王女どちらの侍女になりたい?」
そんなところだけ気前良さげに希望を聞くのか。私は間髪入れずに答えた。
「どちらも嫌です。」
「………そうか。ではやはり手枷を…」
「王女様が良いです!!」
「ははは。楽しい人だね。妹は少々我儘で、正直他の侍女たちを手こずらせていてね。皆残念な事に直ぐに辞職してしまうんだよ。君みたいに王宮に染まっていない女性の方が、いっそ適役かもしれない。仲良くやってくれ。」
空中に舞うタンポポの種よりなお軽い調子で、私の意思は無視されていく。
私はイライアスの方をチラチラ見ながら口を尖らせた。
「あの……。でも侍女になるというそのお話は、ヨーデル村を出る時にお断りしたのですけれど。」
「侍女になれば私の妹と王宮の礼儀作法を始めとして様々な事を学べる。貴族の娘なら誰もが欲して止まない立場になれるのだよ。これで君も言わば憧れの的だ。天空宮に留学をした気分で来てくれれば良い。」
辞職者続出の後任が憧れの的になるとは到底思えない。しかもそれこそまさに留学という名の人質ではないか。
はっきりしているのは、変態王子の手枷よりは良さそうだという事だけだった。