僕の母が死んだらしい
これはとある友人の言葉が胸に突き刺さって書かずにはいられなくなって書いた作品です。
どうしてもわからなかった。書いても結局、彼女達を理解することはできなかった。
そんな、母親達に捧ぐ。
***
「篠原亮君?」
僕の母が死んだらしい。
「はい、そうですが」
「私は神崎美緒。大事な話……いや、そうでもないかな」
三十路前後の小綺麗なOLといった風の女は、言葉を濁らせつつ口元に緩く曲げた人差し指をあてた。知らない女のはっきりしない態度。怪しくて堪らない。そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。女は僕を見てあたふたと言った。
「私はあなたのお母さんの友人で、決して怪しい者では……」
「……"お母さん"?」
理解が追いつかない。僕の無意識な問いかけに、女は悲しそうに眉尻を垂れた。
「そのことで、話がしたいんだけど」
生まれてすぐ施設に預けられた僕は、両親を知らない。
僕の母が、死んだらしい。死んだものと、いなくて当然と思っていた母が死んだらしい。息子の僕も知らない遠いところで、一人で。
***
新幹線に乗って、ぼんやりと窓の外を眺めていた。高層ビルが並ぶ景色は何時の間にか田園風景に変わっており、近くにあった全てが向こうの青い山のように遠くへ行ってしまったように感じる。
駅弁も買ってはみたものの、喉を通らない。ジュースも買ってはみたものの、口に運ぶまでの動作がどうしても億劫。仕方がないから、僕はじっと外を見つめてみる。母が見ていたであろう、この景色を。
*僕のことと母のこと
「もう、高校生だっけ」
「はい」
「立派になったものね。部活帰りだったみたいだけど、何してるの?」
「……バスケ」
「へぇー、楽しい?」
「まあ、楽しいです」
美緒さんに誘われて、帰路の途中にある喫茶店に入った。猫舌の僕は飲みなれないコーヒーを冷まし冷まし飲んでいたが、美緒さんは煙草片手にブラックコーヒーを難なく口に流し込む。単純だが、"この人は大人なのだ"と改めて思った。
「あ、ごめん。煙いかな」
大人の雰囲気に見惚れていた僕。美緒さんは煙草の先を灰皿に押し付けようとしていた。
「いえ、大丈夫です」
「そう? ありがとう」
美緒さんはにっこりと微笑み、結局、まだ長い煙草を捻じ消した。
「でも、よかった。学校も行って、部活もして……楽しく暮らしてるみたいで」
辛いことも沢山ありましたよ、なんて言えない。言う必要性を感じない。
「あなたのお母さんも、きっと喜んでると思う」
遠い目をして、カップの中の黒い液体を見つめる美緒さん。その少し色素の薄い瞳が、僕をとらえた。美緒さんはカップを置いて、言った。
「あなたのお母さん、一月前に亡くなったの」
「……」
「交通事故で、即死だったみたい」
「……」
「なんて、言われてもね。困るよね。顔も見たことないらしいし」
美緒さんは悲しそうに笑って、俯いた。横に流していた茶色い前髪が下りてきて、その表情に影をさす。
僕はというと、ある疑問で頭をいっぱいにしていた。ずっと胸の内にしまってきた疑問。誰に問うこともできなかった疑問。それを、この人なら答えてくれるだろうか、と。
「……何で、」
僕が声を絞り出すと、美緒さんが顔を上げた。
「何で、母は僕を産んだんですか」
すっかり冷めたコーヒー。ミルクを足しても、砂糖を足しても、満足する味にはならない。僕が視線をカップに落とすと、美緒さんの重たい声で話し出した。
「お母さんのことを話すとなると……少し、長くなるよ。長くなるのに、ちっとも理解なんかできないかもね。二十年近く付き合ってきた私でさえ、あなたのお母さんのことは何一つ理解してあげられなかったんだから」
二十年。僕が産まれる前から、美緒さんと母は……
視界の外からライターの着火音が聞こえたかと思うと、煙草の匂いが鼻に入り込んできた。
「でもね、今のあなたを見て確信した。あなたのお母さんは、心の底からあなたを愛してた。むしろ、それしかわからないのだけれど……それでも、聞きたい?」
少し間を置いて頷くと、美緒さんはふっと細い音を立てて息を吐いた。それと共に、薄くなった白い煙が狭い視界を淀めく。
「気持ちのいい話じゃ、ないよ」
母の名前は篠原優。美緒さんとは同じ大学で、所謂、悪友だったそうだ。母は人間関係が得意ではなく、孤独を好む自由な人だったらしい。その性格もあってあまり男性との関係も長続きしなかったようだ。
「亮君は彼女いる?」
「……います」
「そっか。束縛し合ったりする?」
「……僕はしないけど、彼女からは結構……されます」
美緒さんは僕を何処か懐かしむような目で見つめ、小さく微笑んだ。
「それがね、嫌だったみたい。あなたのお母さん美人だったから、かなり言い寄られてたんだけどね。どれもこれも突っぱねてたよ。珍しく特定の男性ができたと思えばすぐ別れてたし。恋愛に飽きてたの、あなたのお母さん」
「……付き合ってる相手に飽きることはあるかもしれませんけど、恋愛に飽きることなんてあるんですか」
「ねー。その辺りが、私じゃ理解できなかったよ。高校生にこんなこと言うのも難だけど、私は恋愛体質だったから」
そう言う美緒さんの左手の薬指には、銀の指輪がはめられていた。
「……飽きる程、男と遊んでたんでしょうね」
僕がぼそりと呟くと、美緒さんの左手が視界から消え、テーブルの下に潜り込んだ。
「……そうかもね」
自分の女癖の悪さは、遺伝だったか。話を聞く分には、母と僕はよく似てる。賑やかなことが苦手で、どちらかと言えば一人が好きで。異性と付き合っては面倒臭さを感じて嫌気をさす。
だが、理解できない。恋愛は飽きるのか。それはもう、"人"に飽きているのと同じなのではないか。
「……そんな母が、どうして僕を」
「ごめん。わからない。お母さんの話をしていれば、君ならわかるかもしれないと思っただけだから」
僕がわかるはずもない。話したことも、顔も見たことない相手の心を理解することなんてできるはずもない。例え、親でも。
「でも……前にこんな話をしたよ」
美緒さんは煙草を灰皿に置いて、両肘をテーブルに置いた。
「次妊娠したら、どうする? って話」
「……次、って」
「私も、あなたのお母さんも、若い頃に一度子供を堕してるの。そうだね、私は二十歳の頃だったけど、あなたのお母さんはちょうど、あなたと同じ年の頃……だったかな」
18。想像できない。自分にもし、今子供ができたら。いや、したくない。
「今はどうか知らないけど、当時は中絶なんて珍しくなくてね。若くて馬鹿な男女が避妊もしないでセックスして子供作って、育てられないから堕ろす、なんて普通だった。でも、そうやって普通に堕胎をする男女の中には、泣く泣く子供を堕ろしたって人もいる。その中の一人が、あなたのお母さん」
僕は、何も言えなかった。子供は作りたくないが、避妊の重要性も漠然としていて、実際、ろくな避妊なんてしていなかったからだ。
「あなたのお母さん……手術が終わってから、自分の泣き声で目が覚めたんだって」
そう言う美緒さんのコーヒーカップは、空だった。
*私と友人
「次、妊娠しちゃったらどうする?」
「産む」
「結婚するってこと?」
「しない」
いい加減だと思った。自分のことを棚に上げるようだが、私は彼女のそういうところが好きじゃなかった。面倒臭がりで、いい加減。よく言えば楽観的だが、疑り深く悲観的な私とはそりの合わない部分も多々見受けれたのだ。
「全然話変わるけど、」
散らかった部屋。私と彼氏が同棲する狭いワンルーム。そこで遠慮なく足を伸ばしてソファーに腰掛ける彼女は、無造作に流していたテレビを見つめて言った。
「私、次妊娠したとしたら産む産まないより、堕ろせるか堕ろせないかしか考えられない」
全然話が変わってない。そう思ったが、
「そうだね。でも堕ろすしかないでしょ。育てられるわけないんだから」
ペディキュアを落としながら、私はそう答えた。シンナー臭いつんとした匂いが部屋に立ち込める。
「いや、堕ろすしかないのはわかってるけど、そこで堕ろせるか堕ろせないかを考えちゃうんだよ。私はどう考えても無理だ。たぶん、次できたら産む」
また、いい加減なことを。
「ろくに育ててあげられないのに産んだら可哀想じゃん」
「施設に入れる」
「親がいない子がどういう気持ちで生活してるか、わかってないでしょ?」
私だって、わからない。でも、生まれてこなければよかったと思わせるくらいなら堕してあげるのが正しいと思っていた。いや、思っている。しかし、彼女は言ったのだ。
「わからないけど、生きていれば幸せになるチャンスには何度でも巡り逢える。でも、死んじゃえばそれで終わりだよ。それに堕ろすとなれば私、また殺さなくちゃいけなくなる」
彼女の顔は見ていない。自分の足を見つめていた私は、彼女の低い声を耳にただ、ティッシュで色を落としていた。
「産めばあんたも子供も不幸になるけど、堕ろせばあんた一人が辛い思いするだけで済む。子供にまで不幸背負わせることないじゃん」
「まるで、死んだ方が幸せみたいな口振りだけと。産めば不幸になるって、何でわかんの? みんなそうなの?」
「まず避妊したらいい話なんだよ」
「……それもそうだ」
私は話すのが嫌になると、強引に話を終わらせた。彼女とは意見が合わないといつもこうして言い合いになるからだ。いや、違う。私は誰の意見にも折れたくなかった。私は私だけが正しくて、そうでなければ生きている心地がしなかったのだ。子供のために堕したのであって、殺したわけではない。そう思わなければ……私は。
二十二歳の夏。若くて馬鹿な私達は、こうして知った風な口を利いては話し込んでいた。とても無意味で、くだらない会話。悲しくもそれが、私達の若かりし頃だったのだ。
*理由と思い
「……じゃあ、母は僕を身籠って堕ろせなかったから産んだだけ、ということですか」
僕はやっと視線を上げることができた。しかし、今度は美緒さんがカップを見つめている。何も入っていない、黒いシミが浮かぶカップを。
「……さあ、わからない」
「父親は、誰なんですか」
「聞いてない」
「あんまりだ……自分が人を殺したくないからって産むだけ産んで捨てるなんて。僕がこれまでどんな思いで生きてきたか……知らないままに死ぬなんて!」
込み上げる怒りは、強い言葉となって外へ漏れ出す。寂しさを堪えた幼少の頃を思い出し、膝の上に置いていた拳が震えた。両親がいないというだけで白い目で見られたことを思い出し、奥歯を噛み締めた。身勝手な親のせいで、僕はずっと……苦しんできた。
「交通事故? 当然の報いだ。死んで当然だ。いや、死ねばいいんだ。そういう親がいなければ、不幸な子供だって……!」
「でも、お母さんがいなければ君だって生まれてなかったんだよ?」
「生まれてこなければこんな辛い思いはせずに済んだのに! それこそ、堕してくれればよかったんだ!」
無意識に、僕は拳をテーブルに叩きつけて声を荒げていた。目の前にいるのは母でもなんでもない。ただの傍観者なのに。
「……ちょっと、落ち着こうか」
「落ち着けませんよ、そんな話を聞かされて……!」
「じゃあ何、学校行って、部活やって、彼女もいて、順風満帆な生活してるのに母親が憎いからこれから死のうっての?」
美緒さんの目が、嫌に冷たくなった。
「言いたくなかったけどね、あなたのお母さんは親がいても金が無くて高校に行かせてもらえなかった。それでも勉強がしたかったから親戚に借金してまで受験資格取って大学に入った。同年代が遊び惚けてる中であなたのお母さんはずっと働きながら勉強してたんだよ。そこであなたを妊娠して、苦労して稼いだ学費を全てあなたにつぎ込んだ。それでもあなたは、お母さんのお腹で死ねればよかったと思ってるの?」
「違う! 僕は……!」
「怒ってんでしょ? 一人にされて寂しいから」
「違う……違う、違う!」
鞄を手に席から立ち上がり、僕はその場から逃げ出そうとした。しかし、腕を掴まれた。振りほどこうと腕を上げると、思い切り頬を叩かれた。
静かになる店内。さほど人も入っていないが、その視線を全て僕が集めていた。
「……座って」
美緒さんに言われて、僕は放心気味に、倒れるように席へ戻った。落ち着きを取り戻した、というより、突然のことに思考が止まってしまったという感じだ。
「……ねぇ、本当に生まれてこなければよかったと思う?」
先程までの少し威圧的だった声とは違い、優しく問いかける美緒さん。
友達もできた。彼女もいて、施設の仲間とも楽しく暮らしている。しかし、両親のことで涙した日々も頭を過ってゆく。僕は力なく、こくりと頷く。もう、半分は意地だった。
「……あのね、確かにあなたのお母さんはあなたを堕ろせなかったのかもしれない。でもね、それよりもまずあなたに生まれて欲しかったんだよ。この世界で生きて、幸せと巡りあって欲しかったんだよ」
「……」
「愛されてたとは、思わない?」
「……だったら、捨てないで欲しかった」
口から、言葉が零れた。顔も知らない母が、とてつもなく恋しい。死んでしまったという事実に対する悔しさが、悲しみへ変わってゆく。
「……そう、だよね。それは、間違いなんだな、と思ったよ」
美緒さんのいる方向から、鞄をまさぐる音がした。そして、目の前に数枚の紙が差し出された。
「お母さんが死ぬまで肌身離さず持ってた写真」
白黒の、エコー写真。クリップで留められたそれに、僕は震える手を伸ばした。捲ってゆくと、段々と白い豆粒が大きくなってゆく。
「あなただよ」
目から零れる涙は、写真の表面を撫でて、落ちた。
「そんな大事に思ってたんなら、育てる自信がなくても一緒にいればよかったのにね」
悲しげな、美緒さんの言葉。僕はただ、頷くことしかできなかった。
僕は確かに、母の中にいた。そして今は、篠原亮としてここにいる。生きている。
「あなたを見て、堕ろすのが正しいと思ってた私が間違ってたのかもしれない、って思ったけど。やっぱり、わからないや」
美緒さんは大きく溜息をついた。
「でも、あなたは幸せになることを望まれて生まれてきた。辛くてどんなに死にたいと思っても、生きてさえいればそれだけで幸せになる機会は巡ってくる。そう、あなたのお母さんが言ってたからね」
「……母は、幸せだったんでしょうか」
美緒さんは少し悩んで、言った。
「わからない。でも、あなたのお母さんは他人からみたら不幸な環境にあっても自分は幸せだって言い張るような、変な人だったから」
「変な人、ですか」
確かに。僕は涙を拭いながら、小さく笑ってしまった。
「変な人だったよ。不思議で、でも居心地がよくて。いい友達だった」
「男にはだらしなかったみたいですけどね」
「いや、あなたを産んでからは一切そういうのはなかったよ。独身だったし」
「……モテたんですよね」
「そうなんだけどね。何でだろうね」
母が何を思って独身を貫いたのか。何故僕を産み、捨てたのか。
「……やっぱり、あの人のことはよくわからないや」
美緒さんが少し残念そうに微笑む。その笑顔は悲しそうでもあったが、呆れたような口調に懐かしむような表情が印象的で……簡単に言えば、内心複雑そうだった。
結局、どんなに考えても確証のある答えは何も得られないのだろうと思った。それでもいいと思った。憎たらしくも恋しい母が死ぬまで独身で、誰のものでもない、僕の母としてのみ生きていたというだけで……何故か、満足してしまっていた。目の前のエコー写真を手に、死んだ母を独り占めできたような気になっていたのだ。
*僕と母
新幹線で3時間。そこから電車で更に2時間。そして、バスに30分揺られてタクシーで10分。徒歩では何処にも行けない、とんだ田舎町。春風が山間を抜ける人気のない山道に、その寺はあった。聞いたこともない風の音。見たこともない青々とした景色。吸ったこともない、新鮮な空気。それらを身にひしひしと感じながら、僕は境内に入った。そして、美緒さんに教えてもらった地図を見ながら歩いた。
山の斜面に、まるで段々畑のように列をなす墓石。そのちょうど中段辺りに、それはあった。篠原家と刻まれた、灰色の墓石。意外にも綺麗に整えられており、花も飾られていた。誰が手入れをしているのかもわからない。僕は、親戚かもしれないと思ったが……その考えを振り払った。僕は、一人だから。
墓石を見つめながら、ふと心の中で話しかけてみる。俺だよ、なんて。でも、それ以外に何も頭に浮かばない。話したいこともない。僕はじっと、その場に立ち尽くしていた。
青空の下、広く殺風景な田園を背に僕の心は不思議と穏やかだった。この長閑な雰囲気のせいか、母の墓を目の前にしているからかはわからない。僕は振り返り、そよぐ風を感じながら下方の景色を眺めた。母が見てきたであろうそれは、静かで、美しかった。
生んでくれてありがとう、とはまだ言えない。思えない。それでも、幸せになる努力はしようと思った。それだけを望まれて、僕は生まれてきたのだから。
「……さようなら」
僕は持ってきていた花を置き、その場を後にした。また、いつもの毎日が始まる。両親がいない、いつもの毎日。
僕の母さんは、死にました。
読んでいただいてありがとうございました。名前も何も全て偽名ですが、ほぼ実話です。
とりあえず、僕としては避妊しよう、としか言えません。もし子供ができたとしてそのこと自体を"誤り"だというのも子供が可哀想だし、堕ろすにしても仕方ないで済ませるのも心苦しい。かといって、子供を殺した罪悪感で未だ苦しむ彼女を見ている僕には、親達を責め切ることもできそうにありません。
彼女は産みたくても産めなかった。そして手術の後、ごめん、許してという自分の泣き声で目が覚めたそうで。「自業自得なんて言葉では済まない、私は自分の子供の未来を潰したのだ」と言っていました。
何もできません。何が正しいのかもわかりません。ただ、世の子供達が幸せに健やかに育つことを祈って、締めさせていただきます。
ありがとうございました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー誠。