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一方通行  作者: 間宮 榛
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04 スプリングに焦がれて

※この章には同性愛(男性の同性愛)要素が含まれます。

 性愛の描写・年齢制限(R18)に抵触する描写はありませんが、御不快に思われる方はご覧にならないようお願いいたします。

 また、閲覧は自己責任でお願いいたします。


 昼時、生徒たちが色めくような、困惑するような、混沌とした気配を持って立ち止まっているところがあって、何事かと思って近づいた。三倉さくら高校の風紀委員長として存在するからには、異変があったらば一度確かめなければならない。ポケットに常備している風紀の腕章をつけ、立ち止まったままでいる生徒の間をすり抜けるようにして、異変の中心へと向かう。喧嘩しているような気配ではないし、なにやら頬を紅潮させている女子生徒を何人か見たところから推測するに、暴力沙汰といった類ではないことがうかがえる。不思議に思いながらも、時に声をかけて台風の目を目指した。

 慣れ親しんだ声が聞こえた気がして、首を傾げつつ最後の一人の横をすり抜ける。人の輪でぽっかりと開いた空間にいたのは、俺がよく知る二人だった。

 泉が、ゆずりはを抱き締めていた。

 棒のように体を硬直させて、俯いてされるがままになっている楪。ふわふわとした髪の間から覗く顔は朱に染まっていたが、表情までは見えなかった。

 そんな楪を愛おしげに腕に囲う、幼馴染。つい先日、この高校で俺しか知らなかった本来の姿に戻り、周囲の困惑と動揺を一身に浴びながらも、楽しげに新たな生活を送っていた。高嶺の花は皆に囲まれて一層魅力的な花となり、高嶺から丘にその身を移したように感じられた。

 二人の姿を見て、じくりと胸の奥で、なにかが破れて溢れだした。



   * * *



 生まれた時から隣にいて、そのことに別段疑問が浮かばないほど、俺たちにはその位置が自然だった。隣にいないことの方が不自然で、ほとんど俺たちは二人で行動をしていた。

 小さい頃は虚弱体質だった泉は、体調の良い時は元気いっぱいで周りと変わらぬ無邪気さで遊び回るが、他の子供がつまづかないようなほんの少しのことで体調を悪化させては寝込んでいた。いつもより少し風が冷たかったから、常温より少し冷えた飲み物を飲んだから、その程度のことで起き上がれなくなるほど体調を崩し、ベッドの住人となっていた。そんな泉を親たち、特に泉の祖母は不安がり、古くから伝わる民間信仰のひとつに頼っていた。そのせいで泉は幼い頃から女の子の姿で生活していて、一緒に風呂に入った時に俺と同じ体でひどく驚いたのを覚えている。細くて白くて、黙っていれば人形みたいだった泉だから、余計に。本人も物心ついたあたりから「男だけど女の格好をさせられている」ということに気づいていたが、泉の祖母がきつく言いつけてあったせいでそれに抵抗しようという気はさらさらなかったようだ。その証拠に、特に嫌がらずにスカートを穿きこなしていた。

 本人は祖母の気持ちを十分理解していたようで、祖母が亡くなる高校一年まで忠実に女子の姿をして、女子の姿ですべての生活をしていた。学校側にはどう説明したのか詳しく教えてもらえなかったが、唸るほどある金を寄付し、それを理解料として出す代わりに口を出すなという取引をしたらしい、と泉本人が苦い顔で言っていた。高校になったらさすがに思春期真っ盛り、元の姿に戻してもらえるかもしれないとわずかな望みを持っていたのを知っていたから、長く伸ばされた髪を忌々しげに弄りながら語る泉に同情と、つきりと胸を刺すやましさを抱いた。

 ずっと、女の子の姿をして、女の子の行動をして、隣で綺麗に笑っていたから。だから、勘違いしてしまったのかもしれない。

 恋愛的な意味で好き、だなんて、笑い話にもならない。



 高校三年生の初日、いつものように待ち合わせ場所となっている互いの家を分断する小道の角で待っていたら、泉じゃない泉が来た。

 触り心地の好きだったあの長い髪はばっさりと切り落とされて、他の女子より長めにしてあったスカートは俺と同じスラックスに、胸元を飾るリボンはネクタイになっていた。昨日まで見ていた姿の片鱗をどこにも見出せず、けれどどう見てもその男は泉でしかなくて。

 俺が大事に思っていた女の子は、呆気ないほどに男になっていた。

 驚愕のあまり高校に行くまで事実を受け入れ難く、隣を歩く泉を盗み見ては視線を戻す、という女々しいことを何度もしてしまった。何度見ても泉の姿は男子そのもので、女子の姿の時から整った容姿で男子を騒がせていたのに、これでは女子が騒ぎだすのは目に見えていた。ライバルが全校生徒になった、と考えると頭が痛い。それでなくとも泉は高嶺の花として噂になっているのに。

 泉の祖母が亡くなって、一年半。その間、女の姿のままで過ごしていたじゃないか。どうして今、男の姿に戻ったんだ。

 ぐるぐると、その疑問が頭の中を回り回って、答えだけが見つからない。……いや、見つからないのではない、見つけたくない。薄々感じていたんだ、泉に意中の相手がいることに。ただ、今までは泉は女の姿で生活していたし、きっとその相手と特別な間柄になりたいなどと言う強い気持ではないのだろうという希望に、俺はすがっていた。昨日の入学式で駆り出された時も、普段と別段変わらぬ様子で仕事をこなしていた。違和感を覚えたのは、バレンタインデーの時に委員会内で義理チョコを受け取っていた時くらいだ。あれからしばらく普通だったのに、どうして今なんだ。

 泉が、男だということはわかってる。理解している。男同士、どうこうなる可能性など限りなくゼロに近いことも。でも、それでも、長い時間をかけて育ったこの思いを、もう捨てることができない。見ないふりをすることができないほど、大きくなりすぎた。

 恋人になってほしいなどということは思っていない。なってくれるわけがないこともわかっている。ずっと隣にいたから、泉が俺をどう思っているかなど、わかりきっている。けれど、少しでも長く隣で笑っていてほしい、そう思うのは俺のエゴだろうか。せめてこの制服に別れを告げるまでは俺がその笑顔を独占したい、そう思っていた。大学は別の遠いところを受けて、泉から離れようと、そう決めていた。年をとって、実はあのときお前のこと好きだったんだよ、なんて笑い話にできるように。

 だからさ、泉。もう少しの猶予期間を、俺にくれないか。この恋心にけじめをつけるための、若い頃の美しい思い出にするだけの時間を。

 お前がとろけそうな笑顔で接するかわいい後輩に、醜い嫉妬なんてしたくないんだ。



   * * *



 普段の生活で、泉を避けようと思ったら意外と簡単だった。

 家を出る時間を早くして、泉には用事があるから先に行くとメールで伝える。学内では泉の男姿に慣れていない生徒たちの反応を注意深く見ていれば、泉が近いかどうかの予測ができる。生徒の熱と囁きに背を向けて、それから逃げるように移動すれば、自然と顔を合わせなくなる。クラスが違うから泉と教室で鉢合わせすることもないし、二クラス合同で行う体育も組み合わせが違うから一緒になることはない。風紀委員会が始まるまでに、気持ちを整理しておきたかった。今顔を見たら、変なことをしそうで怖かった。

 そう思っていたのだが、現実というものは結構無情だ。

 この一年をかけてゆっくりふっきれようと思った気持ちが早々に消えるわけでもなく、結局胸のうちの黒いものが消えないままに、今年度の風紀委員会が始まってしまった。

 委員長として、教室の端に用意してある椅子に座って、視線だけで教室内を観察する。風紀委員会は一年時の風紀経験者がそのまま三年間在籍することが多いので、今年度も二、三年は見た顔ばかりだった。目が合うとにぱっと笑う同学年のお調子者もいるし、今年もよろしくお願いしますなんて言いに来るかわいい後輩もいる。それほどまとめるのに支障はなさそうだ、と思いながらレジュメに目を通していると、これまた見慣れた顔が入ってきた。

 泉がお気に入りの……いや、泉が懸想している楪。連れ立っているのは、津由つゆだ。二人は昨年度の風紀委員であり、相棒同士だったはずだ。クラスが変わって、共に誘い合って来るほど仲が深まっていたのかと邪推する。そこで自分の身勝手さに気づいて、思考を止めた。楪が津由と想い合う仲になっていればいいだなんて、都合のよすぎる妄想だ。楪は大人しめな後輩だったから、きっと津由がサポートしているのだろう、そう、思い直す。楪と視線が合って、花が色づくように白い頬が染まった。色づいた頬をそのままに動けなくなっている楪に気づいた津由が、こちらに目を向ける瞬間。

「セイにい

 声をかけられ、二人しか見えていなかった視界が急に広がる。我に返ってそちらを向けば、泉に似た顔がそこにいた。

朱音あかね? なんでここに?」

「それはもちろん、風紀に入ったからよ。セイ兄もお兄ちゃんもいるんだし、入らない手はないでしょ?」

 ふふ、と笑いながら小首を傾げて同意を求められ、頷いた。泉より小柄で、本物の女の子である、泉の妹。今年この三倉高校に入学した、尾本朱音だった。この間の入学式の誘導の際に見なかったのは、単に俺が一か所におらず常に動きまわっていたからだろう。

 泉と似た髪質なのか、肩から滑り落ちる髪の動きがよく似ている。肩の細さはさすがに違うけれど、男にしては細めの泉の肩と、女の子である朱音の肩のラインや首筋など、似ているところを探そうとすればいくらでも見つけられそうだった。容姿も泉に比べたら甘さがあるものの、似通った点が多い。泉が本当に女の子だったら、朱音と双子に見られたかもしれないと思うほどに。その証拠に、遠慮のない視線が何本かこちらに向けられている。控え目な視線も入れたら、泉と面識のある二、三年はほぼ全員がこちらを見ているのだろう。

「セイ兄、そういえばお兄ちゃんは? 副委員長なんだって聞いたけれど」

「……さあ、まだ見てないよ」

 心がチクリとした。見ていないんじゃなくて、避けているから。そう言えなかった。

「あれ、朱音?」

「あ、お兄ちゃん。何してたの?」

「クラスのやつがなかなか離してくれなくて」

「友達できたの? 男?」

「男に決まってるだろ。朱音の方はどう?」

「ばっちりに決まってるじゃない。あと、先輩方から『前のお兄ちゃんにそっくり』ってお褒めの言葉を頂戴したくらいかしら」

「それは褒めてるわけじゃないと……まあいいや。セイちゃん、そろそろ時間だし始めよう」

 仲睦まじい兄妹の会話をぼんやり見ていたら、急に話を振られて心臓が跳ねる。久しぶりの泉は男としての挙動が板についてきたようで、違和感の欠片も見つからないほどの堂に入った様子だった。女の子としては丁寧過ぎる動作と喋りを心がけていた時とは違い、今の姿の方が自然なのだろう、肩に力は入っておらず気楽そうにしている。いつもとは少し印象の違う髪の下に白い首筋を見て、さりげなく視線を逸らす。

「そうだな、始めよう」

 俺が席を立てば、委員長だと知っている生徒たちが自然と席に着く。先輩たちが姿勢を正したのを見て、新入生たちも自然と真似て教室内のざわめきは消える。

 教壇に俺が立ち、その脇に泉が立つ。昨年度まで当たり前だったその立ち位置は、泉の変化によって俺は違和感をぬぐえない。それでも、姿が変わろうと泉は泉だから、隣にいると胸が苦しくなる。知った顔、知らない顔をぐるりと見回して、口を開く。委員会の間中、暇さえあれば泉の視線が一人の人間に注がれていることは気づいていたが、それを見ると胸が痛むから見ないふりをした。

 顔合わせと、風紀独自の制度である相棒という名の仕事仲間の決定、あとは仕事の分担程度しかないので、特に大きな問題も起こらずに予定時刻で委員会を終えた。それぞれ挨拶をしてぱらぱらと教室を出ていく生徒たちを尻目に、今日決まったことをいくつか確認し、思いついたことをレジュメに書き込む。教壇でその作業をしている俺のすぐ後ろで、黒板を掃除し終えた泉が声をかけてくる。

「セイちゃん、他にやることある?」

「いや、ないな。先生の方には俺から報告しておく」

「職員室だよね、ついていこうか?」

「子供じゃあるまいし平気だよ」

 少し嬉しくなって、自分より低い位置にある黒い髪をくしゃくしゃと空いている手で撫でる。泉の顔が小さいからか、俺の手が大きいからなのか、すっぽりと片手で掴める頭を犬にするように撫でると抵抗してきた。

「うわっ、やめてよセイちゃん。せっかくワックスつけたのに」

「そんなの手櫛で直るだろ」

「そうだけどさ、さっき柴田がアレンジ教えてくれたんだよ。こーした方がずみやんには似合うよーって」

「あー、それは悪いな」

「せっかく仁香ちゃんに感想聞こうと思ったのに」

 その言葉は小さな棘となって刺さり、レジュメの上を軽快に走っていたシャーペンが止まってしまった。不自然さを気取られないように、芯が足りなくなったように見せかけるために、一回ノックする。胸元に何かが詰まったように苦しくて、顔が上げられない。

「……もう、用事ないし帰っていいから」

「そう? あ、仁香ちゃんがいない! じゃあセイちゃん、僕帰るから」

 鞄をとって教室を走って出ていく泉を、顔を上げずに見送る。ぱたぱたぱた、と廊下を駆けていく泉の足音が消えるまでそのまま見送って、音が消えたところでようやく動く気になった。

 自分しかいなくなった教室は静まり返っていて、はぁ、と吐き出した息の音が妙に大きく聞こえた。くしゃりと前髪が乱れるのも構わず握りしめ、その手をそのまま額に当て、もう一度ため息をつく。

 空回っているのは俺一人で、胸が勝手に痛くなっているのも息苦しくなっているのも俺一人で、何だかバカみたいだった。道化役、って俺みたいなやつのことを言うんだろうか。それを自覚していることすらも、どこか滑稽に思えた。

 レジュメに俺のと並んで書かれた、副委員長の欄の泉の名前ですらも愛おしい。その愛おしく思っているこの心は、泉本人には届かない。届けるつもりもない。届けてどうする、という理性と常識が邪魔をする。同性が同性を好きになることを、世間はそこまで寛容に許容してはくれない。泉だから好きになったんだ、男が好きなわけじゃない。泉が、女の子の格好をして、女の子のように喋って、あまりに綺麗な笑顔で笑いかけてくれるから。俺だけにしか見せない表情を沢山持っていて、俺といる時は肩肘張らずにいられたみたいだったから。今、その表情を沢山の人間に見せているから、自分が特別というわけではなかったことをひしひしと実感しているけれど。理由も事情も知っていて、それでも拒否をしない俺の隣が気楽だったのだろうということは、簡単に察せられる。

 そう、わかっているんだ。俺が泉の特別というわけじゃないことも、泉が男だということも。この気持ちが無駄だということも。全部、頭では理解してる。心がついていかないだけで、俺はこうしてうじうじと一人悩んでいるということも。

 胸が痛い。引き攣るような幻の痛みが、胸の奥の方からする。本当は肉体に傷なんてひとつもついていなくて、痛くなる要素なんてひとつもないのに。

 前に、泉と言い合いになったことを思い出す。心はどこにあるか、ということだった。俺は考えるのは頭だから、頭に心があるに決まっていると言った。泉は、頭は考えるけど、心は感じるものだから、胸にあるんだと言った。その時の俺にはわからなかったけど、今はわかる。泉の方が正しかったんだって。その証拠にほら、こんなに胸が痛くて苦しい。

 痛む心を無理矢理抑えつけて、のろのろと動き出す。西日の射しこむ教室を施錠して、鍵を職員室に届けるついでに、委員会の担当教員に報告をして。泉と楪の気配から逃れたくて、開け放してあった窓を施錠するために顔を上げる。

「あれ、セイ兄まだいたの?」

「……朱音」

 開いたままだった教室の扉から入ってきたのは、随分前に帰ったと思っていた朱音だった。一瞬泉の姿に見えてしまって、その見間違いを振り払うように目を逸らした。今は直視できない。

「途中でここにお弁当箱忘れたのに気づいて、戻ってきたの。セイ兄いるんだったら、メールしてとってきてもらえばよかった」

「先輩をパシリにするつもりか」

「いいじゃない、空っぽだから軽いし。あ、あったあった」

 朱音が使っていた机の横に、見覚えのある袋がかかっていた。安心したように近づいて手に取るその様子を横目で確認し、窓をすべて施錠する。委員会が終わった時はまだ夕日の一歩手前という色だったのに、空はすっかり夜を迎える準備を整えて赤く燃えている。長い間、考え込んでしまっていたようだ。ぐるぐると、答えが決まりきっているようで納得できないことを考えるのが、どれだけ不毛なことかわかった気がする。小さくため息をついて振り返ると、手を伸ばしたら届く距離に朱音がいた。

「セイ兄……もう、やめなよ」

「……何を?」

 少し思いつめたような表情をした朱音が、夕日でその姿を朱色に染めて立っていた。また、泉の姿と重なって見えて、それを消すために目を閉じる。そうすると瞼の裏に焼きついた泉の姿が浮かび上がってきて、無駄な抵抗だと気づいた。目を閉じても開いても、泉にこれほどまでに執心しているのだと思い知らされた気分になる。

「あたしじゃダメ? あたしじゃ……セイ兄の特別には、なれない?」

「は……」

「あたし、もうセイ兄がつらそうな顔してるの見たくない。あたしじゃ代わりになれないのはわかってるけど、でも、でも……」

 言葉を切って、俯いた朱音。そうして、意を決したように顔を上げたその瞳には、強い意志が宿っていた。泉と同じ色の瞳に、瞬間、囚われる。朱音は飛び込むように俺の体に近づいて、その細い腕を背中に回してきた。小さく華奢な体に抱きすくめられて、俺はどうしていいのかわからず、沈黙する。

「セイ兄がお兄ちゃんのこと好きなの、知ってるよ。ずっと見てたから。お兄ちゃんが女だったら、あたしは身を引いてた。でも、他の子を見てるお兄ちゃんを見て、セイ兄が傷つくの、見てられない。あたしだったら、そんな悲しい顔させない。好きになってなんて図々しいこと言わないから、だから……」

 あたしを、お兄ちゃんの代わりにしていいから。

 泣きだしそうな声が、見上げてくるその潤んだ瞳が。恋い焦がれた泉の姿と重なって、目の前にいる少女が朱音なのか、俺が都合よく頭の中で作り上げた泉なのか、わからなくなった。背に回された手に力がこもり、紙一枚分開いていた距離がゼロになる。それは絡め取るように俺をその場に縛りつける。

 ……ああ、胸が痛い。じくじくと、膿やら血やらを溢れださせて、傷口は塞がるどころかさらに悪化する。長い間流れ続けて、もうあたりはぐちゃぐちゃで見るも無惨な状態だ。それでも俺は、好きだと訴え続ける己の声を無視できない。非生産的な、不毛なものだというのに。どうしてこの恋をさっさと捨てられないのか、もう、理由もわからない。けれど、これだけは言わなければ。

「朱音、……泉の代わりなんて、どこにもいないんだ。だから」

 ごめん。

 俺は、よくできた贋作じゃ満足できない。

 俺が欲してやまないのは、世界でただ一人。尾本泉だけなんだ。



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