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一方通行  作者: 間宮 榛
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03 ピーチレディに首ったけ



 失恋したわけじゃないけれど、髪を切った。気持ちがいいほどにバッサリと切った。人生で初体験と言っていいほどの短さで、首元がすうすうして少しばかり落ち着かない。

 もったいないもったいない、と呪いのように呟かれながら髪を切ってもらって、短くなってから初めて対面した鏡の中の自分は、自分じゃないみたいだった。長年見慣れた髪の長さじゃないというだけで、こんなにも別人に見えるのかと驚いた。短いのも意外と似合うせいか、切るのを惜しんでいた美容師のお兄さんがどうやってワックスで毛先を遊んだら楽しいかということを延々と教えてくれた。もちろんそんな技術も知識もなかったから、色々なアレンジ方法をご教授していただいて助かったことは言うまでもない。空気を含ませれば無造作ヘア、立たせればちょっと遊んだ感じ、こうして流しておけば自然に見える、などと様々にいじられまくった結果、ワックスがつきすぎてもう一度髪を洗い直す羽目になったのはご愛嬌。二度目の乾燥時に、毛質的に一番似合うのは何も付けてない髪型かもね、なんて言われて、普段は寝ぐせにだけ気をつければいいのかという結論に至った。結局お兄さん一押しのワックスを、プレゼントとして会計を済ませる時に持たされたので、ありがたく受け取っておいた。

 その後は入学式を終えた妹と合流し、服やら何やらを買いに行った。本当は妹のショッピングに付き合うだけのつもりだったのに、髪型を変えて今までの服が似合わなくなったからと主張する妹に負けて一通り服を揃えた。絶対に新しい着せ替え人形か何かと間違えている気がしたけれど、それを言ってもどうにもならないし、妹が楽しそうだからすぐに諦めた。

 たくさんの荷物とともに家に帰って、出迎えた玄関で手に持っていたお玉を落とした母を尻目に仏間に向かった。写真のなかで笑っている祖母に報告するために。いつも用意されているふかふかの座布団に腰を下ろし、チーン、とりんを鳴らす。線香と蝋燭は面倒だったので省略した。手を合わせて、祖母に伝えることはただひとつ。鈴の音がゆっくりとかすれて消えるのに合わせて、手を下ろして足を崩す。普段正座ばかりだったせいか、胡坐は少し慣れない。けれど、どこかすっきりした気持ちだった。

「もう、十分でしょう?」

 だから、今日で終わり。写真の祖母にそう呟いて、明日からはちゃんと自分になろうと思った。

 これが、始業式前日の話。



   * * *



 桜が舞い散るいつもの坂を、慣れない格好で上る。隣にいるのは、見慣れた相手。待ち合わせ場所で顔を合わせた時、普段から冷静なそいつにしては珍しく目を見開いて口をぽっかりと開けた間抜けな顔を晒してくれた。ノンフレームの眼鏡なんかかけて、理知的でクールなんて言われているそいつが、学校では見せない表情。こういう反応は嫌いじゃない。混乱したように問いただされながら来た高校に、笑いがこみあげてくる。

 騒がれるだろうな、なんていたずらめいた考えが頭の隅にあった。この高校での自分の立ち位置は十分理解しているつもりだ。高嶺の花、などと一昔前のような呼び名で陰で呼ばれていることも。それを今日、実にあっさりと覆すのだ。始業式の壇上で任命式という名の紹介があるからと早い時間に登校したおかげで、まだ生徒の誰とも会っていない。全校生徒のいる場所で、堂々とばらす。実に面白いと思う。盛大ないたずらを仕掛けている気分だ。実はこんなやつだと知ったら、皆どう思うのだろうかと考えると、反応が少しだけ怖かった。

「ずいぶん楽しそうだな、おい」

「もちろん。こんなこと、一生に一度できるかできないかってものだから」

「俺は心臓が止まるかと思った」

「心臓マッサージくらいならしてあげるよ?」

「そりゃどうも」

 ああそうだ、口調も改めないといけない。すぐには直らないだろうかもしれないけれど、少しずつ直していこう。色々と変えること、変わること、変えなくてはいけないことがたくさんある。高校生活最後の年は、変化と勝負の年に決まった。

 連れ立ってまっすぐ体育館に向かい、昨日もセレモニーを行った空間に入る。昨日は入学式、今日は始業式。大きな花瓶に活けられた花が、そのまま昨日の使いまわしで壇上に置いてあるのが目に入った。舞台の前にはすでに何人かの委員長と副委員長たちが集まっていて、時間もそれほど悪くなかったと思った。

 さあ、まずはこの目の前の人間の反応を楽しむとしますか。

 悲鳴のような叫び声が体育館に響き渡るまで、あと一分。



   * * *



 始業式が始まって、舞台袖でその様子を見守る。

 相変わらずビフォーアフターの変わり様に天地の差があったせいか、正体を知られた今でも視線を感じる。一緒に登校してきたこいつは平然とした顔で校長が挨拶する様子を見ていて、それにつられて視線を舞台に移した。在校生と新入生合わせて行われるこの始業式が終わったら、全校集会という名の生徒会からのお知らせ。その時に、新しい委員長と副委員長の紹介が行われる。そのために、わざわざ舞台袖に全委員会役員が揃えられている。

「そろそろかな」

「そうだな」

「皆がどんな反応するか楽しみだね」

「……悪趣味すぎる」

「何故? ずっと騙し通すよりいいと思うけど」

「お前は全校生徒の夢をぶち壊すんだぞ。あと告白してきたやつらの純情を弄んでるし、なにより風紀を乱すな。正すべきお前が率先して乱してどうする」

「今まで秘密裏に乱していた風紀を、元に戻ることで乱さなくなることの何が悪いの」

「……これから存分に乱すんだろう、戻ったということは」

 くいっと口端を上げることで答えにする。長い付き合いのこいつは苦々しい顔でこちらを見ると、深々とため息をついた。こいつの後ろからこちらを見ていた女の子が、顔を赤くしたのが見えた。この格好の自分も満更ではないということか、と前向きに捉えておく。そうしないと、緊張で死にそうだった。今までばれなかったのが奇跡的なのだと思うと、全校生徒の前で暴露するということの楽しさと、想像できない反応が緊張をあおって、もう脳内は冷静でいられない。楽しいことに視線を向けていないと、ダメになりそうだ。

 そんな心情を察してか、隣のこいつが頭を撫でてくれた。前の姿では一度としてしなかったことだ。どうしてだろう、今の姿になったら、抵抗がなくなったのだろうか。ふぅ、と軽く息をはくと、校長がこちらが待機している側とは逆の方へ退出していった。次は、生徒会の出番。ついでに、自分たちの。

「ただいまより、全校集会に移行します。まずはじめに、生徒会紹介です」

 副会長がそつのない進行をはじめ、生徒たちの雰囲気が少しゆるむ。順調に、つつがなく進んでいく生徒会紹介。実力重視の生徒会は精鋭揃いで、誰もが自信を持って臨んでいるのがうかがえる。ピンと伸ばされた背筋、生徒たちの期待を背負って働こうとする意志は、好ましい。その凛とした生徒会の面々が、暴露した時の驚きようはすごかったけれど。

「次に、各委員会役員紹介です」

 副会長の言葉を合図に、順に委員会役員が舞台へと姿を現す。図書委員、保健委員……と続いて、最後に自分たちが登場する。微かな囁きが生徒たちの間に充満し、少し落ち着かない様子だった。たくさんの頭と同じ制服の海の中に、きっかけの彼女を見つけて心があたたかくなる。彼女がどこにいても見つけられる自信があったから、壇上からすぐに見つけられた自分を褒めたい。この姿に戻ることを選択したのは、彼女の存在が大きいから。

 登場した順にマイクが回され、粛々と紹介がされていく。一人紹介が終わるごとに拍手が起こり、関係ある生徒もそうでない生徒も一応歓迎の意を示した。

「風紀委員長になりました、水主清一みずしせいいちです。昨年風紀として頑張った面々には、また今年度も風紀委員として再会できることを期待しています。精一杯頑張りますので、宜しくお願いします」

 流れるような挨拶で、隣に立ったこいつ――セイちゃんは生徒たちに一礼をした。隣から苦笑交じりでマイクを渡され、さてなんと言って始めようかときっかけを探す。生徒たちは風紀委員長の隣にいる自分が誰か、疑念半分ながらも気づき始めている。ざわめきは大きくなり、自分に全校生徒の視線が雨あられのように降ってくる。軽く深呼吸してから、マイクのスイッチを入れた。今まで作っていた声は、もう必要ない。

「風紀副委員長になりました、……尾本泉おもといずみです」

 水を打ったように静かになる生徒たち。それぞれが驚きの表情を見せる中、彼女に目を向ければ、硬直していた。嗚呼、彼女らしい、などと思って、口元に自然と笑みが浮かぶ。

 セイちゃんが言うところの風紀の乱れの嵐が起こるまで、あと数秒。



   * * *



 新しい教室に行くまでの間、好奇の視線の数はすごかった。あれだけの視線があったら、きっと人ひとりぐらいどうにかできるのではないだろうかと思う。普段から見られることには随分慣れていたと思っていたけれど、それでも、いつもとは違う種類の視線に少し落ち着かない。

 廊下を風を切って歩いても、肩や背で揺れる髪はもうない。足を動かすたびに翻るプリーツスカートとは縁を切り、同じ生地で作られたスラックスが忙しなく動く足を覆う。首元を飾るリボンは今は妹がつけていて、代わりに締めつけるような感覚を与えてくれるネクタイがそこにいる。たったそれだけの変化なのに、周囲の反応は面白いほど困惑と好奇が多かった。

 教室に入って、自分の席を確認して、鞄を机に置く。椅子を引いて、腰をおろして、ゆっくりと教室を見回す。それだけの動作を、見張られるように息を詰めて皆が見ているのがわかった。突如姿を変え、女だと思っていたのに実は男でした、と言われたら、戸惑うのは仕方ないと思う。仮に自分が逆の立場だったら、周囲と違う反応をするだろうかと考えて、別に害がなければ特に気にとめないだろう、と結論付けた。結構冷めているのだ、自分が興味ある相手ではない限り。優しい、などと言われているけれど、優しいのはその分相手に執着も興味もさして持っていないからだ。気持ちを持っている相手には、こちらから必死に食いつく。少しでも相手の世界に自分という存在を確立させたくて、必死になる。小学生の男子が好きな子に意地悪してしまうのと同じレベルの、幼稚な行為だ。理解も自覚もしているが、たぶんこれはこういう性格だからどうにもならない。

 誰かと話そう、という気にもなれなくて、頬杖をついてぼんやりとする。ひどく退屈で、そういう時は彼女のことを考えるに限る。

「おーもーとーっ」

「……」

「おっもとー?」

「……」

「ずっみやーん、聞ーこえーてるー?」

「…………何?」

 せっかく彼女のことを考えて幸せな気分に浸ろうとしたのに、邪魔が入った。眼前に立つ男を目だけで仰ぐと、口元に両手をメガホンのように当てて、にこにことそれはそれはいい笑顔でこちらを見ていた。

 茶色に染めた上に、少し暗い色でうまい具合にグラデーションを施した髪を、今日も相変わらず綺麗にセットしてある。耳には少しごついピアスがついていて、風紀のチェックで何度か注意しているにもかかわらず外したためしは一度もない。垂れた目の近くに泣きぼくろがあって、前に女の子たちがセクシーだと言っていた。どこが、と思ったけど言わなかったが。チャラチャラとシルバーアクセサリーを身に纏い、いつもゆるゆるとした空気で構ってくる。誰も拒まず、去るもの追わず、けれどひとりでいるのは寂しい構ってちゃん、という評価を自分は心中で勝手に下している。前年度も同じクラスで、なぜだか隙を見てはふらふらと近寄って絡んでくるこの男の名は、柴田だ。

「んー、いやぁ、びっくりしちったよぉ」

「……格好が?」

「それもあるけどさぁ。前からずみやんってオットコマエな性格してるなぁーって思ってたから」

 ずみやんが男で、逆に納得しちった。

 なんて、いとも簡単にこの男は爆弾を投げてきた。クラス中が、自分と柴田の会話に耳をそばだてているのはすぐにわかった。わかってはいたけれど、あまりに予想外の言葉に、体と思考が止まる。もしかして、前々から男だとばれていたのだろうか。いやそんなはずはない、だって水泳も体育も事情を学校側に伝えて見学していたし、ここの名簿は男女混合の五十音順だから区別はつかないとすぐにその考えを打ち消す。そもそもこのゆるふわ系チャラ男に見破られていたのなら、今までの努力がすべて泡になる。

 柴田はそんな周囲とこちらの様子が特に気にならないようで、マイペースにゆるい口調で続きを喋る。それにつられてか、飾りも愛想もない言葉遣いが口からこぼれ出る。もう女の子の格好でもないし、あの乙女喋りもこの際封印してしまおう。もう必要ない。

「でもさぁ、女の子のときも美人さんだったけどー、こんなにイケメンになるなんて、おれ、ちょーびっくり」

「……そう。そりゃどーも」

「ずみやん、こんなにきれーなのにまじで男なのー? ねぇねぇ、ちょっといーい?」

「は?」

 ぐいっと思っていたより強い力で腕を引っ張られ、強制的に立たせられる。何がしたいのかと訝しみながら柴田を見る。身長が自分より少々高いせいか、微妙に上目遣いで見るような位置に顔があった。ちょうどセイちゃんや後輩の津由と同じくらいかな、などと思った。

 柴田はにこにことゆるい雰囲気の笑顔を崩さないまま、こちらの首元に手を伸ばしてきた。疑問に思いながらも抵抗せずにいると、ネクタイに指をひっかけて、簡単にほどいてしまった。首元の締め付けがなくなって楽になった、と思うもすぐに、状況がよく飲み込めない。何がしたいんだこいつ。そのまま流れるような手つきでワイシャツのボタンを次々外し、あっという間に前が全開になった。ワイシャツの下にはティーシャツを着ていたから、柴田は遠慮も躊躇もなにひとつなく、ぐいっと首元まで大胆にめくり上げた。ブラジャーなどという女の子用の下着をつけるソッチ系の趣味はないので、普通に自分のものである、ありがちな男の上半身が晒された。ちなみに腹筋が割れていないのはそこまで鍛えていないからだし、肌が白いのは今まで露出できなかったからだ。そして柴田の行動に周囲が沈黙に加えて停止した。

 ……一体全体、何なんだこの状況。

「おー、ホントーにおっぱいないねぇ。平野へーやみたい、関東平野かんとーへーや

「……何がしたいんだ、柴田」

「んー? だってさぁ、ずみやんホントーに男なのかと思ってー、確認、みたいな? マンガみたいに女の子でおっぱいあってぇ、サラシ巻いて隠してたらちょー楽しーじゃん。貧乳少女ひんにゅーしょーじょっていう可能性かのーせーもあったけどさぁ、そーじゃないみたいだし」

「だからっていきなり剥くなよ。ここには女の子もいるんだから、わた……僕の肌かなんか見せられていい迷惑だろう。男だから胸がないのは当然だ」

「ずみやんって実は僕っ子なんだねー、ちょー似合う。ぴったりんこ。でもこのかっこーで“わたし”はちょーっとキモいよぉ?」

 ケラケラと笑いながら、柴田がぺちぺちと晒されたままになっている胸を叩いてくる。平手だしほとんどじゃれあいみたいなものだから痛くはないが、若干この光景は変なのではないだろうか。クラスメイト、フリーズしたままだし。突拍子のなさに呆れてため息がつい口を突いて出て、柴田の手からティーシャツを奪還して体を隠す。見苦しいものを見せてしまった周囲には、心の中で謝っておく。とりあえずこの目の前の男をどうにかせねば。

「満足したか?」

 ボタンをはめ、ネクタイを結び直そうと手をかける。ネクタイ、結び慣れないからまだ苦手なのに。鏡を見ずにちゃんと結べるかが心配だ。

「まぁねー。そぉだずみやん、おれ、ずみやんの男友達第一号になりまぁーす☆」

「は?」

「だってさぁ、ずみやん、オトモダチ少ないじゃん? 男とかそれこそ風紀委員長ふーきいいんちょーのみずしんだけでしょー? だから、ずみやんのオトモダチ一番のりー」

 いぇい、などと言って、にこにこと相変わらず掴みどころのない笑顔で、こちらにピースを向けてくる。ネクタイを結びかけていた手が止まっていたのに気づき、柴田はしゅるしゅると実に手際よく結び直してくれた。いやありがたいが、ありがたいのだが、ちょっと待て。なんだこの状況。

「柴田が、僕の、友達?」

「そっ、オトモダチ。親友しんゆーでもおっけーだしぃ。おれ、ずみやんにちょー絡みたいもん」

「柴田が親友はない。あと絡むな」

「じゃあねー、ずみやんと一緒に遊びたいなぁーって。……だめ?」

 そこでようやく、柴田の意図に気づく。確かに、男友達はいないけれど。でもそれ以上にこの男は、僕が急に姿形を変えたせいで、生徒たちに避けられないか心配しているのだろう。前年度のクラスでもさりげなくクラスから弾かれる生徒がいないように立ちまわっていたし、クラス内の軋轢やすれ違いにそのゆるさを保ったまま介入しては自然と解決していた。寂しがり屋の構ってちゃん、だからなのかもしれないが、みんなで仲良くしたいのだろう。実際にこの男には、そうさせる力がある。前年度のクラスで、さりげなく声をかけられては絡まれて、それがきっかけでクラスの男子が話しかけやすくなったようだったし。

 きっと今も、この男は僕が弾かれないようにしているのか。そんな器用なようで不器用なこの男を、拒めるわけがない。

「……全然。むしろ大歓迎だ、オトモダチ」

 挑発するようににやりと笑って返すと、柴田のゆるい笑顔の中に一瞬、鋭い笑みが混ざる。それは瞬きのうちに消え去ってしまって、すぐにいつもの柴田に戻ってしまった。

「やったぁ、オトモダチいっちばぁーん! あ、今ならずみやん、オトモダチ大募集だいぼしゅーしてるからー、なりたいヤツはおいでよぉ?」

 机越しにソフトに抱きつかれたがすぐに離され、柴田は僕の手を使って固まったままのクラスメイト達に手招きをしている。相変わらず柴田の笑顔は崩れないから、もうこれはお面か鎧のようなものなのだと勝手に思っておくことにした。ふぅ、と肺の息を吐き出して、柴田を真似て笑顔を作る。作り笑顔は前々から得意だったから造作もないが、柴田のような人好きのするゆるい笑顔はあまりしたことがない。うまくできているだろうか、と思いつつ、クラスメイトにくるりと一通り視線を走らせる。

「見た目変わったけど、出来れば仲良くしてほしいんだ。……だから、オトモダチ、募集してる」

 自分らしくない、と、勝手に口角が更に上がった。この年にもなって大々的に友達を募集するなどというのは恥ずかしかったが、この場は柴田に乗った方がいいと感じた。前の姿の時に無意識に作っていた壁は、今ならいらないから。できればこの先一年、できるならばなるべく心安らかに過ごしたかった。

 ほらー、よっとでぇー、なんて柴田が笑うと、近くにいたクラスメイトが一人近づいてきた。名前はよく覚えていないがバスケ部のイケメンとして結構有名な男子で、爽やかさが売りのスポーツマンだったはずだ。一度も同じクラスになったことはないけれど、風紀委員として何度か遅刻寸前の彼と校門で顔を合わせたことがある。スポーツやってる男は汗臭い、なんてイメージがあったけれど、少しだけ迷いの入った、けれどしっかりした足取りで近づいてくるクラスメイトは歩くだけで爽やかな風が起こりそうな風体をしている。なんとなく、イメージとしてはシトラス系とか、オーシャン系の香りの汗が出そう。

「オレ、尾本の友達に立候補していい? いきなりで困るかもしんないけど」

 よろしく、なんてテレビ番組でやってる公開告白のように手を差し出して、握手を求めてくる。柴田よりもさらに高い位置にある顔には緊張がありありと浮かんでいて、それでも、自分に対する好意が垣間見える。相変わらず遠巻きに様子を窺っているクラスメイトからの視線は止まない。息をひそめるようにして、行方を見守っているのが肌で感じられる。

 そのバスケ部のイケメンが差し出す手に応え、ぎゅっと握る。自分の手より硬くて、大きく、そして少しだけ緊張のせいか湿っていた。

「嬉しい……よろしく。悪いんだけど、名前教えてくれるかな? あと、バスケも。僕、今年から体育参加するからさ」

 きょとん、と虚を突かれたような顔をした後、バスケ部のイケメンはなにかが堪えきれなかったのか破顔した。笑うと余計イケメンで爽やかだ。近づいて気付いたが、本当になにか男っぽいけど清々しくいい匂いがする。香水か何かだろうか、あとから聞いてみたい。握った手をぶんぶん上下に振りまわして、何が面白いのか僕の髪をグシャグシャとかき回してきた。少し乱暴かもしれないけれど、その近い距離が嬉しい。今まで、セイちゃん以外にはなかった距離だ。

「あーそっか、同じクラスじゃなかったしな。佐藤亮太、亮太って呼んで。バスケはオレがしっかり教えてやるよ。ルールは大丈夫か?」

「見学してたからそれなりに」

「よーし、オッケー。ホームルーム終わったらみんなでやろうぜ、今までできなかった分もな」

「うん、やりたい。よろしく、亮太。僕のことも好きに呼んでくれていいよ」

 亮太の反応がくすぐったくて、笑顔がこぼれる。作らなくても簡単に笑顔が生まれ、勝手に心が弾みだす。今までできなかったことを存分にしたい。体育も、友達も、なんでも。後ろめたさがあったからかどことなく他人との間に線を引いて距離を置いていたけれど、もう我慢なんてしないことにした。したいことを、やりたいことをしたい。同性の友達と年相応の馬鹿騒ぎをして、くだらない話をして、アホなことをして怒られてみたい。普通の生活がしたかった。

「あっ、あのさ! 俺、尾本にサッカー教えれるから!」

 少し離れたところから声が割りこんできて、びっくりしてそちらに顔を向けると、少し頬を紅潮させたクラスメイトが一人。確か……サッカー部の。去年の体育祭で、リレーのアンカーをしていたはず。俺も、俺も、と他のクラスメイト達が言いながら寄ってきて、あっという間に人の輪に囲まれた。今までの格好でいたなら遠巻きにしか近づいてこなかった面々。前から後ろから横から、自己紹介する声や今度遊ぼうぜという声や手が伸びてきて頭を撫でられたりする。

 一度壁を壊すと、あとは簡単だった。心地いい騒がしさに包まれて、僕は自然と破顔した。



   * * *



 クラスの男子は知り合いの柴田がきっかけで、結構すんなりと僕を受け入れてくれた。最初は少し戸惑っていたところもあったけど、体育の時間に平気な顔をして男子更衣室で着替えていたら、なんだか皆ふっきれたみたいだった。確かに今まで女の子の格好だったから、急に実は男です、同じ場所で着替えます、なんて言われたら対応に困るだろうとは思っていた。だから、何のためらいもなく制服を脱いで肌を晒しているのを見て、本当に男なのだと納得してくれたらしい。それもそうだ、あの柔らかい胸もなければ、丸みを帯びた体つきでもないし、女の子にはあってはいけない男の象徴だって下半身についている。これでも女に見えたら、ちょっと病院受診を勧めるところだ。

 クラスの女の子とたちは最初、男子みたいに簡単に割り切れなかったようだけど、僕の対応が前と変わらないのを何となく感じて、態度が軟化した。前みたいに近しい距離で雑談したりガールズトークにはもう参加できないけれど、普通のクラスメイトとして扱ってくれる。つい前の癖で頭を撫でちゃったりすると、顔を赤らめながら微妙な態度をされるのが地味に傷つくけど。

 クラスの外では相変わらず微妙な反応が多いが、クラスメイト達の態度を見たりしてか、段々前と変わらない反応になってきた。ただ、女の子たちの赤面率が高くなって、男子の気さくな対応が多くなった。抵抗ある人は近寄ってこないから、受け入れてもらえないと思っていただけあって今の状況は想像していたよりも上々だ。

「しかし、泉があんなに運動神経いいなんて思わなかった」

「確かにー。ずみやんいっつも見学してたしねぇ、運動音痴うんどーおんちかと思うよねぇー」

「女の子と同じフィールドでしたら危ないからだよ。あと着替え困るし」

 体育を終えた昼休み、柴田がきっかけで仲良くなった亮太が、不本意そうにわしゃわしゃと頭をかきまわしながら廊下を歩いている。バスケ部のレギュラーとして活躍する爽やかスポーツマンは、体育万年見学者だった僕が予想以上にバスケで活躍したのが不服らしい。今まではただ女の子たちに混ざってはやれない、という理由だけで見学していただけなのだ。もともとスポーツが好きな僕は存分に楽しんで満足したが、亮太は苦虫を一匹くらい噛み潰したような表情で人の多い廊下を進む。

 笑いながらぽんぽんと慰めるように亮太の肩を叩いている柴田を見て、仲いいなぁと思った。柴田と亮太にあまり接点はないと思っていたけれど、どうやら馬が合うようで、クラスだと大体僕と柴田と亮太の三人でつるんでいることが多い。柴田はいつもふにゃふにゃとした掴みどころのない喋り方と笑顔でいる、チャラチャラした格好のわりに気配り上手な、構ってちゃん系寂しがり屋。亮太は黒髪とシトラスの香りなんかがぴったり似合う、爽やかが主成分としか思えないイケメンバスケ部員。あの変身を遂げてからクラスで最初に喋ったのがこの二人で、妙な遠慮がない分こちらも気さくに接することができて、今ではクラスで大体一緒にいるメンバーだ。ほとんどというかほぼセイちゃんしかいなかった同性の友達ができて、僕は嬉しかった。セイちゃんに報告したら、少しだけ寂しさの滲んだ空気で、でも表情だけは満面の笑みで喜んでくれた。

「今まで体育やらなかったのか?」

「んー、小学校まではやってたよ。男女の差、あんまりないし。中学からは男女別になったから、休まざるを得なかったけど」

 本当は、小学校高学年の修学旅行前、女の子だけを集めて行った性教育の時点で、もう限界だなと思っていた。女の子たちに紛れて、月経時に使うナプキンの使い方を教えられたのはあまり思い出したくない記憶だ。女の子の格好をしているのに一人だけ男子に混ざって話を聞かなかったら、それはそれで不審がられたと思うから、仕方ないといえばそれまでだけど。ちなみに中学の修学旅行前に行われた性教育は欠席した。あとから避妊具の使い方を習い、最後に一人一つずつ護身用避妊具なるものが配られたと聞いて眩暈がした。避妊具の護身用とはどういうことかと問いただしたかったが、藪蛇になるのでやめた。

「あぁー、中学くらいから差が出ちゃうしねぇ。着替えとか目のやり場に困っちゃーう、みたいなぁ?」

「うん、そんなかんじ。でもやりたかったんだけどね、本当は」

「そりゃそうだろ、中学生なんて体力有り余ってる時期だし」

「おれはずみやんのちっさい頃、見たかったなぁー。かぁーわいいんだろぉなー、ミニずみやん」

「見なくていいし、見たって面白くないから」

「おれが楽しいからいいのー」

「絶対柴田に見せたくない」

「フられたなー、柴田」

「うー、ずみやんのいけずぅ! りょーちゃん慰めてぇー」

 しくしくとわざとらしく泣き真似をして、亮太に柴田が抱きつく。苦笑しながら頭を撫でる亮太の向こう、人でごった返す廊下に目を引くものを見つける。そこだけ色鮮やかに見えて、亮太の横から顔を出して見てみれば、新学期になってから一度も会うことのできなかった彼女の姿が、僅かに覗いて消えた。

 彼女に近づきたくて、体が勝手に動いた。亮太の不思議がる声、それに遅れて柴田のとぼけた声が後ろから届いたけれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。人に押されて何度も姿が消える彼女に触れたくて、人を避け、隙間を縫うようにして距離を縮める。

 会いたい。会って、彼女不足を補いたい。それだけだった。

 僕に気づいた人は自然と避けてくれて、ありがとうと言うだけの心の余裕がなかった僕は頭を軽く下げてすり抜けていく。彼女の隣にいるのは友達なのだろうか、委員会では見たことのない顔だった。笑顔を友人に向ける彼女に追いついて、手を伸ばす。後ろから腕で囲いこんで、引き寄せてしまえば、彼女の小さな体は簡単に僕の手の中に収まった。

「会いたかった……」

 いつものように硬直したのに構わず、彼女の首元に顔をうずめる。高鳴る鼓動を抑えるために、ゆっくりと息を吸えば、普段と変わらない桃に似た彼女の甘いにおいが肺を一杯にする。香水はつけていないと言っていたから、たぶん保湿につけてるボディークリームの香りと、ほとんど感じられない程度にしかない体臭の混ざったそれ。顔に当たる柔らかい髪も、緊張でこわばったなで肩も、めいっぱい力を出したら折れてしまいそうな体も、すべてが愛おしかった。

 足りなかった。彼女に会いたくて、でも、会うのが怖くて。偶然に会えないことを理由に、手をこまねいていた。本当は始業式があったあの日、すぐに会いに行って、僕という存在を意識させたかった。昔のわたしを消して、僕に上書きして、君に恋している存在を認識してほしかった。

 ぎゅう、と少しだけ力を強めると、我に返った彼女が、かすれた声を出した。

「あ……の、……尾本先輩、ですよね……?」

「うん、そう。尾本泉だよ、……仁香ちゃん」

 仁香ちゃんは、僕の腕の中でどうしたらいいのか困っているようだった。首筋に息が当たるとくすぐったいのか、肩がピクリと跳ねる。このなんでもない仕草ひとつとっても、僕にとってはかわいかった。かわいくてかわいくて、もう、食べてしまいたい。

「仁香ちゃんに言いたかったことがあるんだ」

「なん、ですか」

「騙しててごめんね。女の子だと思ってたでしょ?」

「はい……。先輩、とっても綺麗でしたから」

 こくり、と気まずげに頷く仁香ちゃんの態度すらもかわいく思える。本当に女に見られていたことは仁香ちゃんの態度からわかっていた。そうでなければあんなに激しいスキンシップ、出来るはずがない。仁香ちゃんは無自覚なのかどことなく男を苦手としている節があって、男子とは少しだけ距離をとって交流している姿をよく見た。ただ、風紀委員の相棒の津由は除いて。一年間一緒に仕事をしたせいか、津由には結構心を開いていると感じた。そして、仁香ちゃんが熱のこもった瞳で見つめているのがセイちゃんだということもわかっていた。それが悔しく、同時に、自分は女の姿だからこれほど受け入れられているということもわかっていて。報われない近い距離が歯がゆくて、辛くて、何度言いだしてしまいたいという衝動に駆られたかわからない。そんなこともあって、形骸化した祖母との約束を終わらせるきっかけになったのは、仁香ちゃんだった。一人の男として認識してほしかった、同じ土俵に立って彼女に選んでもらう権利を得たかった、自分の人生を生きたかった。理由を挙げればきりがないが、きっかけは確かに彼女に対する恋心だった。

 それほど、好きでたまらない存在を、初めて得た。

「綺麗? ふふ、ありがとう。あとね、もうひとつ」

「え?」

 仁香ちゃんの耳に唇が触れるほど、近づける。周囲から視線は感じるけれど、そんなこと気にならない。気持ちがあふれて仕方ないんだ。

「好きだよ、仁香ちゃん。一人の男として、仁香ちゃんのことが好きなんだ」

 だから、“僕”を見て。

 祈るように、彼女を抱く腕に力を籠めた。



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