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短編No.61-

No.64 一目惚れとはちょっと違う

作者: 藤夜 要

 ――災厄は、心の隙を突いてやって来る――。




 その日、私は両親の夫婦喧嘩を仲裁する名目で、同居している義母へ夫同伴ならばという条件付で実家に帰る許可を得た。

 どうせいつもの痴話喧嘩だろう、何が原因かまでは知らないが。まずその原因を聞き出してから、父より母をなだめる方が先決だ。姉にはもう伝わっている情報だろうか。なぜか姉からは一切の連絡がない。

 そんなことを思いつくままメモに書き出し、移動中の暇をやり過ごす。したり顔で偉そうに両親の仲裁へ、などとほざいた私こそが、もう長いこと夫とまともに話をしていなかった。きっかけがなんだったのかさえ、もう忘れている。ただ、“性格の不一致”という認識しか残っていない。それは夫も同じだろう。彼は母親のために、私は子どものために、円満家族を演じているだけに過ぎない。


 どうせ長い距離と高い交通費を掛けて帰省するのだから、友達にも会ってから帰りたい、と考えた。

「あ、じゃあ俺も」

 夫に相談をしてみれば、予想通りの答えが返って来た。

「声掛けるなら女だけな。俺の知ってるお前の友人のみ」

「解ってます」

 相変わらずの干渉に内心だけでうんざりとする。

 下心の有無は関係ない、年齢も関係ない、異性との交流は一切禁止。お前の知り合いはすべて紹介しろ。紹介出来ないような相手とは同性でも交流禁止。

 お前は俺の家族だから。

 俺が扶養しているのだから。

 お前の言動全ての責任は俺にある。

 だから口出しするのは当然のことだ。

 それが夫の持論。得意げに、誇らしげに、そんな恥ずかしい幼稚な束縛を堂々と他人にも語る。

「愛されてるねえ」

 聞かされた相手の冷やかす笑みの裏にあるのが、私への同情と夫への嘲笑しかないのだと、どうやら夫には解らないらしい。言葉のままを受け取り、ノロケられたと羨ましがられた――なんて、嬉しそうに伝えられるたび、羞恥に身悶え疲弊する毎日を送っているのが、ここ十数年の私だ。

 私が予定外で衝動的に出掛ければ、義母が夫に連絡をする。

 どこへ誰と何時に出て、何時ごろ帰る予定らしいけど、あなたは聞いている? ――母から“嫁可愛い”な善人息子への親切な伝言を装って、夫に逐一報告するのだ。もちろん私には知らせずに。

 それを知ったのは、義母の不在中に向かいの奥さんに誘われてランチへ出掛けたとき、偶然同じ店でランチを摂っていた義母と友人に出くわしたとき。

 その日、夫が帰って来るなり、遠回しに糾弾した。

『ランチに行ってたんだって? お向かいの奥さんと仲良くなれてよかったじゃん。で、何を食べたんだ』

 背筋がすうっと、凍った。


 ああ、そういうところが“性格の不一致”なところなんだ。

 それを思い出したところで、携帯電話がメールの着信を告げた。


 ――久し振りね。連絡ありがとう。

 こっちは晴れて独身を再ゲットしたわよ。(笑)

 今は自由の身になって、恋愛を謳歌しています。

 親もとうとう普通の家庭を、という押し付けがましいシアワセの形を私へ強要するのに疲れたらしくて何も言わなくなったわ。

 この年で今更他人と生活スタイルを擦り合わせて疲弊するなんてたくさんよね。

 息抜きに、いいお店を紹介してあげる。一緒に行かない?

 もちろん、御主人も同伴でOKよ。それでいて息抜きも保障してあげられるお店なの。

 彼が経営しているところなんだけれど、きっとあなたも気に入るわ。

 そっちの用事が済んだら連絡をくださいね。 イブキ――


 一番に届いたのは、何人かにメールを送った中のひとり、香坂イブキ、学生時代に恋愛談義で気の合っていた仲間だった。




 まずは家を飛び出した母の泊まっているホテルに向かい、説得を試みた。その間に夫が私の実家へ走り、父の懐柔に当たっている。

 原因はどうやら姉夫婦のことらしい。道理で姉から何も連絡がないと思った。

「――だから嫁入りではなくて婿養子にしろと言ったのに。あの子ったら」

 と泣きながら零された父との喧嘩の理由は、姉の夫側の実家が同居を再々迫っていたらしく、ついに姉の夫が姉に無断でそれを受け入れてしまったことで離婚騒ぎになっているのを知ったことに端を発しているらしい。

「それでどうしてお母さんとお父さんが喧嘩になっちゃうのよ。義兄さんと喧嘩したなら解るけど」

「だって、お父さんは嫁に出したからには仕方がない、向こうの言い分が道理だ、なんて他人事みたいに放り出すし。お姉ちゃんのほうは親権を譲りたくないから家で同居させろ、仕事を失くすからしばらく養ってくれ、なんて……どこにそんな余裕があるのよ。うちは年金暮らしでやっとの生活をしてるのに。お陰でお姉ちゃんとも喧嘩になって、そしたらお父さんまでお姉ちゃんの肩を持ち始めて。一体誰がやりくりしてると思ってるのよ」

 なるほど。恐らく夫も父から同じ内容を聞いているだろう。そして当然、父と同意見に違いない。

「家を出る前提で話しているから揉めるのよ。姉さんにそちら方面に強い弁護士さんを紹介しておくわ。勝手に話を進められて、今住んでいるマンションの売買契約まで勝手にされてしまったんでしょう? マンションは夫婦の共有財産なんだから、そんな契約は話の持って行き方次第で無効に出来るはずよ。養育費と慰謝料にあのマンションをもらえば、姉さんは今の仕事も住まいも変えずに離婚出来る可能性が高いわ。それ以前に、姉さんがそこまで言うことで義兄さんの考えを改められるかも知れないわ。まずはその話を持っていきましょう。ね?」

 そして、とにかくうちへ帰ろう。私からお父さんにもそう話して説得するから、お父さんを赦してあげて。お父さんは社会人としての義兄さんの立場をおもんぱかった客観視しか出来なかっただけで、姉さんのその後は親としてみてあげようと考えていたのではないかしら。優しさの表し方がお母さんとは違っただけで、愛情がないわけではないのよ。

 ――と、説得しつつ、ひどい疲れを感じていた。


 両親を引き合わせ、仲直りをさせて。

 姉には連絡がつかなかったのでメールを送り、やっとひと息つけた。

 母からお礼を兼ねて夕飯でも食べに行こうと言われたが、折角帰省したので友達と待ち合わせをしたので、と丁重にお断りした。これ以上の愚痴話は勘弁願いたい。

 夫もこういった面倒な揉め事は苦手な性分だ。私だけならごり押しする親だが、夫も私の友人と会うのは久し振りなので楽しみにしているから、と口を揃えたので、両親(特に母)は渋々ながらも親切の押し売りを諦めてくれた。




 友人、イブキとは繁華街の駅で待ち合わせた。

「久し振り。待った?」

 そう言って颯爽と現れた彼女に、夫が小さな溜息を漏らした。それは私と同時に出た感嘆だった。

 四十路とは思えない若々しい服装。華美ではなく、自分の美しい部分の引き出し方をよく心得た、色香を漂わせつつもエレガントなフレアスカートのスーツ。それはイブキという名にふさわしい若草色で、彼女を五歳以上は若く見せていた。

 髪には白髪のひと筋もない。こまめに美容院でプロのケアを受けているのが一目瞭然だ。所帯じみた中年の典型、という私とは月とスッポン。年齢が出やすいという喉許さえ、三十路前半と言っても充分通用する瑞々しさを保っていた。

「今来たところよ。相変わらず自分磨きがパーフェクトね。羨ましい」

 心から思ったことを答えに添えて漏らすと、イブキは

「あなたも相変わらずね」

 と、どうとでも受け取れる返事が来た。


 メールで話していた彼とやらの店でディナーをとるのだとばかり思ったが、そうではなかった。正確にはすぐその店に赴きはしたのだが、食事をするところというのは私の早合点だったのだ。

 そこは薄暗い地下にあるショットバーで、赤がベースのカラーライトがほんのりと店内を照らし、どこか淫靡な雰囲気を漂わせていた。店内の中央にはビリヤード台があり、熱帯魚の水槽が所狭しと並べられたスチール棚が、カウンター席のある空間との仕切り役を担っている。水槽のライトが放つ蒼と天井から照らされる赤が混じり、淫靡でありながらもどこか落ち着いた雰囲気とも感じられた。

「こんばんは。連れて来たわよ」

 イブキはカウンター席へ私たちを促し、その向こうにいるバーテンダーに声を掛けた。この男がイブキの新しい恋人だろうか。そんな疑いの目を持ってしまうほど、男は若かった。

「いらっしゃい。オーナーを呼んで来ますね」

 バーテンの男は磨いていたグラスをことりと置くと、“爽やか”という形容詞の似合う微笑をイブキに向けた。ということは、この男はイブキの男ではないのか。下世話な推理と好奇心が私の中でシェアを占めていった。

「母さん、こういう雰囲気が昔から好きだったよな」

 と遠回しの賛辞を口にしたのはイブキの次に付き合いの長い我が夫だ。

(母さん、ね。現実に返らされるわ)

 心の中でまたひとつ溜息。やっぱり夫込みでは独身気分を謳歌出来ない。

 そんな私の思惑は口にも顔にも出されることなく、そしてイブキにさえ気取られることはなかったらしい。

「でしょう? 昔から賑やかなのは苦手な子だから、今日は店ごとリザーブにしたの」

 とさりげなくとんでもないことを言ってのけたイブキの言った内容に、私はぎょっとして目を剥いた。この手の店を貸切なんて、どれだけ赤字にさせる気だ。

「ちょ、いくらなんでも、それは甘え過ぎでしょう。私、昔ほどワガママでもないし、そこまで人ごみが苦手ってこともなくなったわよ」

「ガマンしてるだけでしょ?」

 短い言葉で、的確に突いて来る。私はぐぅの音も出せず、黙り込んでしまった。

「御主人にとっても、いい息抜きになると思いまよ。私と彼の奢りですから、ジャンジャンいっちゃってください」

 そして夫の好きそうな満面の笑みを零す。同性の私から見ても悩殺される魅惑の微笑。これで学生時代から何人の男を殺したことか。同じ男に惚れた時分には、彼女のこれに随分と嫉妬した。だが今では、彼女の微笑を受けて頬を赤らめる夫を見ても苦笑しか浮かばない。

(つくづく……涸れたな)

 ふとそんな諦めに近い自分への失望が脳裏をよぎった。


 ほどなく奥から出て来たのは、さきほどのバーテンとオーナーだけでなく、女性スタッフと思しきホステス風の女だった。たった三人の客に対して随分と大人数な、というサービス振りだ。

「タマちゃん、初めまして。イブキからいつも話は伺ってるよ」

 と突然あだ名らしきもので呼んだ男がイブキの恋人らしい。いかにも彼女のタイプといった感じの、賢そうな細い狐目。身体を鍛えているようで、シャツの二の腕のラインは、その生地の下に鍛えられた筋肉の在り様が容易に連想出来るだけの隆起をかたどっている。少なく見積もっても、私やイブキより五歳は年上だろう。下世話な意味でもイブキの好みそうな男だ、なんていう感想が脳裏をよぎった。

 その恋人氏がなぜ私を見て「タマちゃん」と呼んだのかが解らない。

「贅沢なお迎えをありがとう。で、なぜに私は“タマちゃん”と呼ばれているのかしら」

 私がそう問うと、彼は夫に視線を流し、

「玉の輿をゲットした、内面がイブキより綺麗な女性と聴いていたからね」

 と馴れ馴れしい口調で、背筋に寒気の走るような台詞を吐いた。

「そりゃあ、心配になりますよね、御主人」

 と、さりげなく次へとシフトする自然さは、さすがプロ。

「外ばかり磨いたところで、内面は外に滲み出ますから。目の肥えた男の前には出したくないでしょう」

 夫は「目の肥えた男」という遠回しな賞賛が自分を指すと察したことと、オーナーの隣で例の若いバーテンが「レディー・ファーストです。何かおつくりしましょうか」と私にシェイカーを掲げたので、この店のマニュアルとして女性優遇と解釈したらしい。まず自分が注目されなかったことにふてた顔をしていたが、すぐ愛想笑いに切り替わった。

「心配は心配ですけどね、そこまで賞賛されるようなカミさんじゃないですよ」

 むかつく。この自分の一部みたいな扱いが、夫の嫌いなところ。心の中で夫を責めながら、顔だけは作り笑いを保って若いバーテンにオーダーを口にする。

「じゃあ、口当たりのさっぱりとしたもので、私に似合いそうなもの」

 一見の店なのに、久つい昔の癖でバーテンダー任せという私好みのオーダーを若い店員に出してしまった。夫とイブキの恋人との会話に意識が向いていたせいで、若い子への配慮に欠けていた。すぐに「しまった」とオーダーを言い直そうとしたが。

「うーん、じゃあ、クレオパトラのアレンジ版、とかはどうです?」

 なかなか小憎たらしいアピールをする。一見で生意気なオーダーをしたヤツからの挑戦を受けて立とうとでも言うかのような物言いに思わず笑った。

「キミって見た感じ、二十歳そこそこくらいよね? レシピがほとんど頭に入ってるの?」

「親も同じ商売をしていたから、見よう見まねで。基本さえ抑えておけばまず失敗することはないんで、却ってオリジナルを作る方がお客さまに喜んでもらえるから楽しいっすよ」

 突然砕けた口調になってしまうところが、なかなか可愛い。照れくさそうに笑うとまだ少年のあどけなさもうかがえる。芸能人で言えば、小池徹平に似ているか。ふと息子を思い出した。とはいえ、うちの愚息はそんな美形とはほど遠い。ただ、どこか甘えるような色を湛えてまっすぐ見つめて来る瞳が、妙に愛息を思い出させるのだと思う。この若いバーテンダーはそんな意味合いで、もしこの店が近所で行きつけにでもなっていれば、お気に入りに入れてもよさそうな子だった。


 夫には女性バーテンダーがオーダーを取り、イブキにはオーダーさえ取る必要がないらしく、恋人氏がさっそく手を動かしていた。

 白く濁る、でもどこか透明感も表すカクテルが夫の前についと出される。

「お任せにしたけど、これは何?」

 夫がそう尋ねる前に、私にはそれが何かあらかた予測がついた。

「ホワイト・ルシアンよ。口当たりがよくて、でも飲んでる、って感じられるものがいいんでしょう? 甘いのがお好きとも言っていたから、これをオススメしてみたくなったの。どう?」

 そう答えた彼女の目は、完全に狩人のそれになっている。長いストレートの髪は夫の好みだ。誘惑を表す深紅のルージュは、私には似合わないけれどバーテンの彼女にはよく似合う。白い肌の色とのコントラストは、女の私が見ても艶かしい美しさを放っている。どこかイブキと通じる美貌を携えた人だった。

「奥さんの前でナンパしてますけど。いいの?」

 小声でそう言いながら、小池徹平もどきのバーテンが私の前にカクテルを滑らせる。

「ルシアンってモロ酔いつぶし系ですけど」

「知ってるわよ。敢えてホワイトってのがまた、露骨よね。白濁色」

 苦笑は浮かべるものの、夫への嫉妬心もバーテンの女に対する不快感もない。

「寛大」

 そう言って意味ありげにくすりと笑うと、一応成人には見える子だ。そしてごくさりげなく、バーテンの女と同じように、おろしただけにしている無愛想な私の長い髪触れるタイミングの計り方も、不愉快な意味で、大人だ。

「俺にはこっちの方が手折りがたい華に見えるけどな」

 うわ、くっさ、と思ったのは別の何かを感じた一瞬あとだったのが我ながら解せない。

「お互いが相手にうんざりしてるだけよ」

 下手に意識していると勘違いされないよう、私は細心の注意を払ってぶしつけに触れて来たバーテンの手から髪を取り戻すべく少しだけ身を退いた。

「ねえ、それより、これ。生クリームを入れないとこんなに綺麗な赤なのね」

 確かクレオパトラのアレンジだと言っていた、目の前のカクテルに話題を無理やり移す。夫などどうでもいいのだ。私が心身の疲れをとるのに、そして重い肩書きを忘れて自由を満喫するために、アルコールと軽いおしゃべりは必須なのだ。今はこっちの方が重要事項。

「フロートさせると、光を遮ってあんまり赤が鮮やかにみえないものね。それに、あれを入れると舌に残るでしょう。さっぱりしたのがいい、って言っていたから。あと、ラムを多めにしてみたけど、甘みが遠くなったかも。どうかな」

 そんな解説を聞きながら、誘惑する透明の赤を舌でぺろりとすくってみる。

「……うま」

 思わず素になって、汚い言葉で感想が漏れた。これは、やばい。言わずとも解ってくれる人、というヤツには弱い。変な意味ではなくて、つい好意的に見てしまう。つまり、騙されやすい状態に陥る、ということだ。

「よかったー」

 バーテンやれるほどのいい大人が、ガキみたいに語尾を伸ばすな、と心の中で訴える。屈託のない笑みが子どもっぽくて、可愛いと思ってしまう。

「ちょっとお疲れっぽい顔してたから、バレンシアとかモスコとか、甘い系のがいいかな、とも思ったけど、酔っ払っちゃう方があとで深く眠れていいかな、と思って」

 このくらいの優しさが夫にもあればな。なんて、言われたほうが答えに窮するそんな愚痴など、独りになったときどこかで呟いておけばいいだけの話だから、口にはしない。

「酔っ払って正体不明になったところでぼったくるとか?」

 酒にはめっぽう強いとアピールするつもりで、一気に飲み干す。

「オーナーの彼女の友人にそんなことしませんよ。俺がオーナーに殺される」

 そんな小気味よい合いの手を返してくれる徹平もどきとの会話が心地よい。目だけで「次は?」と促されれば、やはりアイ・コンタクトだけで「こんな感じ」と返せばにやりと笑う。こういう阿吽の呼吸みたいなのは、独身時代に足繁く通ったバーで交わして以来のことだ。

「イブキも私とは違う意味で案外アレよ? 目で笑って言葉で殺すタイプだから」

 言葉遊びに興じる間にも、仕事はきっちりこなしている。若いのになかなかの手練だなあ、と、妙な感心を抱きつつ、彼の少し高めの声に酔いしれる。

「知ってる。スキそうだから一度ちょっかい出してみた」

「うわ、チャレンジャー。散々思わせぶりした挙句、ボロ雑巾扱いだったでしょ」

「ってか、手はつけてないよ。話してみれば相手の中身ってだいたい察しがつくじゃん? あの人は鬼門。あの人を相手に出来るのなんて、オーナーくらいだよ」

 あの人、と言われて初めて気づいた。隣にいたはずのイブキがいない。トイレにでもいったかな、と席を立ったときには思ったのだが。

「そう言えばイブキとオーナーは?」

 見ればいつの間にか、広いカウンターの向こう側にいたはずのオーナーも消えていた。ついでに夫と女性バーテンダーの姿も私の視界から消えている。

「実はイブキさんとオーナー、ここ数週間喧嘩してたんですね。あなたが連絡をくれたお陰で仲直り、ってトコなんじゃないかな」

 と苦笑を零した小池徹平もどきは、キッチンの奥にある通路の方を顎でしゃくって指し示した。

「……なるほど、奥は部屋になっている、ってわけか」

 で、私らが引き上げるのを待ち切れずにヨロシクやってるわけだ。イブキらしい。

「イブキさんって小悪魔キャラですよね。あのオーナーが一番長く続いてる相手っすよ」

「イブキはともかく、オーナーの方は店主としてどうよ?」

「どうよ、って?」

「客ほったからかして彼女とイチャコラかよ、っつうこと。盛りのついた野良猫じゃあるまいし」

「言うっすねー」

「イブキもイブキよ。数年ぶりに会ったのに、長年のアタシよりいつでも会える男が優先とか、まったく友達甲斐のない」

 ぶつくさと文句を垂れながら、クレオパトラを一気に呷る。若いバーテンは、今度こそ本気で大笑いした。

「お姉さんって素の方が好きだな、俺」

 スゲー言葉遣い、態度の悪さは二十代の若いヤツも顔負けってレベル。

 どうよく解釈しても褒められているとは思えない賛美らしき言葉に、私は剣のある目を向けた。

「悪かったわね。オバサンのくせに成長がなくて。それよか、ダンナとナンパ女史は?」

 夫にサービスしてくれるのは構わないが、お持ち帰りされるのは勘弁願いたい。我が実家の門限は十二時だ。それは家庭持ちになろうが四十路の中年オバサンに成り下がろうが夫同伴であろうが、親にしてみれば関係ない。この時間を過ぎると、捜索願を出される。実際にそんな大惨事を過去に二度ほど経験している。そんなようなことをバーテンにまくし立て、持ち帰りだけはさせるなと強く訴えた。

「さすがにそれはないよ。こっちの経費が掛かり過ぎちゃう。ま、こゆこと」

 そう言ってバーテンの若者は、私をキッチンの側へ促した。

「なに?」

 思わせぶりな指示に従ってみれば、客席からは見えない位置に、モニタとAV機器が据えられていた。

「何これ」

 二杯目を差し出した彼の手からそれを受け取り、思い切り上目線でひと言の詰問。

「キス・オブ・ファイヤー」

 徹平もどきがそう言いながら、イヤホンを私に片方だけ手渡して来た。もう一方は彼が耳にしているままだ。必然的に短いコードのせいで頭を摺り寄せる格好になった。

「お姉さんはキレイな見た目が好きっぽいから、雪を降らせてみま」

「酒の名前聞いてんじゃないっつうの。あんたんとこの店は、ビリヤード台をこういう使い方してんの?」

 と言いつつ、薦められたカクテルにはちゃっかり口をつける。

 モニタには、ビリヤード台の真上に据えられているのであろう隠しカメラで映している夫とナンパ女が映っていた。多分、撮っているのだろう。

『じゃあ、見るだけでいいから。ねえ、背中、どうなってる? 急に痛みが走ったの、本当よ』

 甘えた声で女が言い、肩のストラップを外してビリヤード台の上にうつぶせ、むき出しの白い背中をカメラの前に晒している。長く艶やかな黒髪は深緑のビリヤード台に溶け、若くて瑞々しい背中の白い肌の色をより美しく見せてくれた。不意にそれが見えなくなる。夫が裸体に見える白い背中とカメラの間に割り込んだからだと理解するのに、少しだけ時間が掛かった。

『だから、なんともなってないって。カウンターに戻ろう』

 仕事を放棄した彼女の服のストラップを戻してやろうとしたのだろうか。夫の手が彼女に伸び、肩先辺りで彼女の手に掴まった。

『イヤ。ねえ、私って、そんなに魅力ない?』

 夫は酔っているのか、自分の意思なのか、女如きの力など簡単に振り払えるだろうに、あっさりと引き寄せられた。

『ちょ、向こうにみんないるだろうが』

『平気よ。だれもこっちに関心なんて払わないから』

 そんなやり取りを聞きながら、私は手にしていたキス・オブ・ファイヤーを掲げる。バックライト代わりに喘ぎ声を上げ始めた女を映すモニタで光を集めてグラスの中に降る雪を見る。

「……ナンパへただね、彼女」

 ぽつりと零して酸味の利いたカクテルを口に含む。うん、この子は腕がいい。若いのにたいしたものだ。金と一流企業の管理職という薄っぺらな肩書きだけが取り得の夫とは、違う。自分の技術で金を稼いでいる徹平もどきのほうが、格上だ。

「しかも男の趣味が悪い、あんな中年のおっさんのどこがいいんだか」

 徹平もどきへの賞賛は、口から出る前に夫への文句に変わってしまった。私の横顔を射抜く強い視線が、そうさせた。

「セックス依存症なんだって。金よりそっちが報酬になってるみたい、彼女の場合は」

 お互いうんざりなのに、ほかの女とヤっちゃうかもと思うと惜しくなるものなの? と聞く辺りが憎らしい。

「惜しくは、ないなあ。たださ、別に結婚願望なんかなかったのよね、アタシ。これが自分のダンナかあ、と思うと、つくづくアタシの中の女を涸らしたのは、こいつの嫁って場所に落ち着いちゃったせいだな、と」

 抜け殻になってしまった自分への失望。なんの向上も生き甲斐も楽しみもない、決まってしまった残りの人生。そう思うと、過去の自分を引っ叩きたくなる。と、とうとう愚痴を零してしまった。

「涸れてんだ」

 くすりと笑ってそう言われれば

「そ。涸れッ涸れ。オバサン通り越してババアだもの。これでも昔はイブキと男を二分してたはずなんだけどなー。落ちぶれた」

 と哂って自虐の言葉を返す。

「あーあ、意思弱いなあ、ダンナ。結局押し切られるのかよ」

 徹平もどきは私の自虐には触れず、おどけた口調でモニタの中継をし始めた。彼の左耳と私の右耳には、コードのついたイヤホンが収まったままだ。顔を向ける角度が変わり、引っ張られる形で私もモニタを覗く格好になる。コツリと徹平もどきの頭に私の頭がぶつかった。

「脱げー、服汚されたらうちの親が何言い出すかわかんないから、汚すな」

「って、ちょ、お姉さん薦めんのかよ」

「ただし中出しすんなよ、ダンナ」

「や、それは彼女が準備してるっしょ」

「うちのダンナ、ゴムつけると萎える」

「あ、そ……」

 およそ不謹慎な台詞ばかりが出るのは、酔って来たせいだからだろうか。カクテル二杯で酔うほど弱くはないはずだが。どこか冷静な自分に違和感を覚える。――これはひょっとして一大事ではないか?

「ねえ、なんでカメラなんかつけてるの?」

 額の右と左、触れ合ったまま、モニタを睨み続けてそう聞いてみた。どうせ答えるはずもなければ、こっちも大体見当のついている話ではあるけれど。

「酒代より、こっちをモザイク処理して売りさばく方が稼げるんだって」

 意外にも、徹平もどきはまともな答えを返してくれた。まずはそれに驚き、意識もなくのけぞる格好になり――そうになって、刹那の差で徹平もどきに頭を押さえつけられて逃げ損ねてしまった。

「でも俺、おねえさんのこと気に入ったから、なんだったらオーナーに一発ブン殴られるの、プラスアルファで、この映像消してあげてもいいよ」

 守りたいんでしょ、というそれは、私の家庭を指しているのだろう。

「うん。息子にとっては、大好きで尊敬するいいお父さんだからね、コイツ」

 鈍った頭で、どこか麻痺している感情のまま、ただ息子にゴメンと繰り返す自分がいた。

 酔っているわけがないのだ、たった二杯で。

 薬を盛られていたことに今ごろ気がついた。多分夫も同じ状態なのだろう。イブキに売られたことを恨むよりも、可愛いツラして一服盛りやがった徹平もどきのバーテンに対する怒りよりも、現実逃避したがった自分の隙を悔いていた。

「じゃあ、俺をこの世界からそっちへ連れてってよ」

 プラスアルファとやらの内訳が、私の唇の上で紡がれた。柔らかで熱い感触が唇を割って入り、執拗に私の中を侵す。

「お姉さん、まだ涸れてなんかいないよ」

 無遠慮なそれに抗おうとすると、逆に絡め取られてしまう。

「少なくても、俺にとっては」

 まるでこちらが応えているような錯覚を覚え、寒気がした。警告のおぞましい感覚は、却って私にほどよい冷気となって正気を呼び戻してくれた。

 ガリ、と鈍い音が小さく響く。次の瞬間息苦しさから解放され、しかしそれに代わってしょっぱい鉄の味が口いっぱいに広がった。コンマ五メートルほどの距離に離れ、口の端から血を滴らせた徹平もどきの若造をねめつける。

「足がない。今すぐ駅まで送れ。そっからは自力で帰る。オバサンだと思って舐めんなよ、クソガキ」

 ふらつく足取りになるも、差し出された手を強く拒んで自分ひとりで立ち上がる。

「どうせイブキからこっちの素性を諸々聞いてんでしょ。ダンナの実家が金持ちだとか、私の出来ちゃった結婚のこととか、全部。でもね、アタシ息子に顔向けできないことだけはするつもりないから。ついでにイブキも知らないこと、オーナーに伝えておけ」

 アタシの実父は、任侠に籍を置いてはいないものの、然る大手暴力団幹部と幼馴染だ。暴排条例のせいですっかり無沙汰になってしまったが、それもこれもあんたらみたいなチンピラがこういう粗相をするから、でかい組織ほどしっぺ返しを喰らう。あんたらが破門された分際で組織名を名乗るからだ。今度アタシらに関わったときは、アタシが直接親父のダチに泣きつくからな。(タマ)とられる覚悟で嵌めに来い!

 徹平もどきの血を拭い掛けた手がとまった。愛らしい(と勘違いしていた)目が次第に大きく見開かれる。

「……道理で」

 どういう意味だ、と聞きたい気もしたが、やめておいた。


 ビリヤード台のある中央へ向かう。徹平もどきのバーテンがついて来て介助の手を差し伸べるたび、思い切りその手を引っ叩いて拒んだ。

「いつまでやってんのよ! あんたあの子の父親でしょう! そのカッコ、見せられるのか!」

 口汚い言葉で夫の尻を思い切り蹴っ飛ばす。言いがたい悲鳴のあと、情けない顔が振り向いた。青ざめた夫の顔は、滑稽を通り越して気の毒になった。

「私、ろくな友達がいなかったみたい。巻き込んで悪かったわ。帰ろう」

 呆然としている夫を見下ろし、そう告げたあと徹平もどきを親指で指し示す。

「こいつに駅まで送らせるから」

 だからとりあえずパンツ履け、と言い残し、夫にしがみついて来たビッチ女の髪を思い切り引っ張って平手打ちを食らわせてやった。


 最終電車に間に合う時刻には、どうにか駅に辿り着けた。

「はい、おねえさん」

 と差し出されたのは私のバッグ。すっかりその存在を忘れていた。

「イブキにも伝えておいて。あんたのアドレス帳から私の名前を消しておけ、今後アタシに関わったら、次こそ殺すぞ、って」

 そう言いながらバッグを引っ手繰る。徹平もどきは一瞬だけ、ひどく寂しそうな顔をした。

「俺もお姉さんにぶった斬られちゃうの?」

 その言葉にピクリと反応したのは、正気を取り戻した夫の方だ。

「てめ、人の」

 と身を乗り出し掛けた夫を私がとめた。

「ったりめーだ、タコ。足洗うのに堅気が必要だっていうなら、アタシみたいなババアじゃなくて、もっとあんたと釣り合う若い女の子を探しな」

 成人済だろうが、恋心と依存を勘違いするなと言い放ち、私はとどめとばかりに夫の腕を絡め取った。

「私らみたいに、不慮の事故でもない限り似た時期に寿命が尽きる相手にしときなさいよ。そのほうが、寂しい独り期間を短く出来るよ。頑張って足洗いなさいよ」

 彼の親も裏の世界しか知らない人間なのだろう。でも、時代はもう変わっている。私の若いころよりは、はるかに足が洗いやすい。本人に強い離脱の意思さえあれば。

 うんともすんとも言わない徹平もどきの返事を待つ必要などない。俯いてしおれた姿を晒したって、もう同情なんてしてあげない。だから私は夫の腕を取ったまま、改札口へ向かって足早に歩を進めた。一度として後ろを振り向くことはしなかった。

「なあ」

 夫が遠慮がちに声を掛けて来る。

「なに」

「おまえも、なんか、あった?」

 あいつと、と呟いた声には嫉妬が混じっていた。徹平もどきの若さに対する嫉妬なのか、愛情のゆがみからのそれなのか、私には解らない。

 まだ唇に熱が燻っているけれど。心の奥の奥底までをも覗くようにまっすぐ見つめて来る瞳を思い出すと胸が痛くなるけれど。それは捨て犬を見て居た堪れなくなって拾いたくなる心境に近い。だけど私は無責任に捨て犬を拾っては世話しをし切れなくなったからとまた放り捨てるなんて残酷なことはしたくない。

「あんたと一緒にすんな。私はチビが最後の恋人だ」

 きっぱりと言い放つ。愛息を思い浮かべれば、燻った熱も痛む胸も、あっという間に義母へ預けて来た息子への思慕に摩り替わる。

「今夜の件は、アタシにも非がある。だからアタシをどう思おうとあんたの自由だけど、チビに対してだけは、父親として本気で反省しろ、以上」

「……おまえ、そゆとこはすげえや。ホントにごめんなさい」

 元はと言えば私がイブキに騙されたことが元凶だったのに、夫は何度も電車の中で謝り続けた。

「少しは私の自由も認めてくれれば、それで相殺にしてあげる」

 口調が戻ったからか、夫は心底ほっとした顔をしたかと思うと、

「それはダメ。だっておまえ、自由にしたらまた鉄砲玉になるし」

 と懲りない態度を見せたので、ゲンコツを食らわせてやった。その程度にしておいた。束縛の根拠を思い返してみれば、こちらにも多少なりとも非があるのだ。確かに鉄砲玉で、甘えられるとつい警戒を緩めてしまう。家族にしてみれば、それは大きな不安要素だろう。そして私の場合、なぜかこうやって一大事を呼び込んでしまう。

「ウザいって自己主張は続けるからね」

 そう夫に付け加えると、文句を言うのは自由、と、これまた彼も彼なりの妥協点を示してくれた。



 帰宅して親におやすみのあいさつをして。

 そして結局今日の支出は、と財布を開けてみて、驚愕した。

「ない!」

「何が?」

 疲れ切って布団の中で寝ぼけ眼になっている夫に、

「クレジットカードが」

 言い掛けて、そんなこと言ってる場合じゃない、と急いで携帯電話を手に取った。

『はい、クレジット○○です』

「すみません、三十分ほど前にクレジットカードを落としました。もしくは盗まれました! すぐにとめてください!」


 チクショウ! あの徹平もどきの若造め!


 クレジットカードを収めていた場所には、カードの代わりにあの店の名刺が入っていた。


 ――マツヤマ カナデさま

 大切なものをお預かりしました。

 返して欲しかったら電話ください――。


 名刺には徹平もどきの携帯電話の番号と、恐らく彼の源氏名だろう、店名の下には『カヲル』と書かれていた。

 もちろん、速攻でその名刺を八つ裂きにする。寂しげな彼の瞳を一瞬思い出したものの、それは本来私に向けるべきものじゃない。


 数ヶ月ほどののち、クレジット会社から妙な連絡を受け取った。

『停止されたカードの件なのですが、拾得したとのことでヤナギハラカイトさまというお名前の方から、当社へ松山さま宛のお手紙とカードが届けられているのですが、転送させていただいてよろしいですか。それともこちらで破棄させていただきましょうか』

 即答で転送をお願いした。カードはもちろん失効しているので、その手紙だけを。お礼をしたいのでと説明する必要もないのに、そんな弁解めいたことまで口走り、自分の動揺に軽く落ち込んだ。


 ――おねえさんへ。

 残念。すぐ電話くれるかな、と思ったんだけど、潔く諦めます。

 この手紙は妹に代筆してもらってます。

 両腕イかされちゃったけど、辛うじて(タマ)は無事なまま、足を洗えました。

 行動早いでしょ、褒めて(笑)

 リハビリ次第で腕も動かせるようになるっていうから心配しないでください。

(って、心配なんかしないか)

 すぐ電話をもらえなくて、それなら自分の力で足を洗ってそれを知ってもらえたら、今度こそお姉さんが連絡くれるかな、と思ってもみたんだけど。

 妹が身元引受人になって来てくれて、初めて俺にも守る家族いるじゃん、って思い出せました。

 そんで、

「本気で惚れたんだったら、相手の家庭ブチ壊すなバカ兄貴」

 って妹に怒られました。

(妹より補足:自分でこれ書くのって恥ずかしいです。兄が御迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。)

 おねえさんを落とせそうな気がしたんだけど、ホントに残念です。

 妹の言うとおりかな、って俺が思っちゃったんだから、しょうがない。

 御主人とお子さんと、末永くお幸せに。

 俺も、お姉さんが俺を振ったこと後悔するくらいいい男になっていい女掴まえますから、そのときは自慢させてください。

 追伸:ガキ扱いしてましたけど、俺、童顔だから。これでも三十だから。射程距離範囲内だから。俺の知らないどこかでせいぜい悔しがりやがってください(笑)――


 今の住所も電話番号も記されていないそれは、気を引くための手紙ではなく、私の心情をおもんぱかってのラストメッセージなのだろう。

 彼が求めた種類のモノではないものの、確かに私は彼を愛おしいと思った。例えるなら母親が掛け値なしで我が子を愛するような種類の、愛情。それに気づいてくれていたあの子の中に根付く本質は、きっと堅気の中でも心地よくしなやかにしたたかに生きていける。私が拾わなくても、あの子自身の力で生き抜いていける。

 涸れ井戸だった私に潤いを与えてくれたことには、少しだけ(本当は大いに)感謝している。夫とは、家の中でしかやり取りがないと気づかされたあの日以来、嫁や母親の肩書きを外して仕事帰りの夫と待ち合わせ、ふたりだけの時間を作るようになった。その案を出せたのは彼のお陰だ。またおしゃれを楽しむ機会を得ることが出来た。家、親、義母の孝行息子であるという肩書きを重く感じていた夫、という部分に気づかされた。恋をすることはもうないけれど、私はそれを通過点とした“愛”という存在をようやく認識することが出来たのだ。

「クソガキ」

 負けん気の強い内容と、添えられた近況写真に毒づいてみる。が、窓ガラスに映った私の顔は無理のない微笑を浮かべていた。

 あの可愛い徹平顔が、笑ってるんだから、これでいいじゃん。

 たとえ与えられた一方で、何ひとつ与えてやれなかったのだとしても。

 私が後悔するくらいステキな恋人を彼が得られたとしても、紹介してもらう機会が訪れないのが確定してしまったとしても。

 一目惚れに近いけれど、腫れた惚れたとは違うこれはきっと、やっぱり捨てられた仔犬に何かしらの運命を感じてしまう、幼いころよく抱いたあの感覚と同じなのだろう。

 頼られるとつい情にほだされる。その悪癖は相変わらず私の中で健在だけれども。

「ま、シアワセに笑ってるなら、それでいいのよ」

 ようやく小池徹平によく似た可愛い童顔の坊やが私の中から消えてくれそうだと思うと、なんの未練もなく、その手紙と写真をゴミ箱に捨てることが出来た。

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