サンプルⅣ
霧山第三小学校のグラウンドに僕らは立っていた。みんなおそろいの体育着、左胸に校章がプリントされた白いシャツを着て、青いハーフパンツをはいている。ホームベースのまえにバックネットのほうをむいて九人ずつ四列に並んでいた。空には青を背景に白い雲がきれぎれになって浮かんでいる。これから水曜日の五時間目、体育の授業が始まろうとしていた。
水色のポロシャツに白いジャージズボンをはいた担任のカリタ先生がホームベースの上に立ち、生徒の名前を次々に呼んで出席をとっていく。名簿に視線を落とし、いままで何千回とくりかえしてきたであろう作業をけだるそうな声でこなしていった。カリタ先生は五十二歳で、髪に白髪がまじったベテラン教師である。小学校四年生の生徒たちの反応はまちまちで、大きな声でこたえる生徒もいれば、恥ずかしがって小さい声しかだせない生徒もいた。
「サザナミマサヒトくん」
とつぜん名前をよばれた僕はおどろいて声が出せなかった。
「マサヒトくん?」先生は名簿から視線をあげて人差し指でめがねを持ち上げ、もういちど僕をよんだ。
「はい」僕はすこし間をおき、いくらか落ちついてからこたえた。
先生は僕のほうをちらりと見ると、名簿に視線をもどし、印を書きこんだようだった。そして次の生徒の名前を呼ぶ。
カリタ先生は点呼がおわると、今日の体育は野球です、と宣言した。いちぶの生徒から歓声があがる。先生はそれを無視して、僕らをひだりから順にABCDの四チームにわけた。僕はCチームのいちばんまえにならんでいた。
その日はAチームと対戦することになり、両チームのあいだでささやき声がもれる。僕らは正規の野球場ではなく、外野に簡易ベースを置いてつくられた場所で試合をすることになった。先生の合図とともに野球好きの男子たちが全速力で走り、移動をはじめる。
じゃんけんで先攻はAチームにきまり、僕はレフトの守備についた。レフトにはほとんどボールが飛んでこなかった。僕はじっとキャッチャーのいるあたりをながめていたが、それにあきるとトンボを追いかけだした。
いまトンボは僕のまえ五十センチくらいのところに、僕の身長くらいのたかさで羽をはばたかせ空中で静止している。僕は左手にはめたグローブをトンボめがけてふり下ろした。しかしトンボは半円をえがき、僕の背中のほうに一瞬で移動した。振り返るとトンボは僕から一メートルくらいはなれて地面の上にとまっている。僕は慎重に土の上に履きふるしたスニーカーを下ろして、ゆっくりとトンボに近づいていった。あと三十センチのところまで近づいたときにトンボは地面から飛びたち、もう一組が試合をしているほうへ飛んでいってしまった。トンボを捕まえるのはすごくむずかしい。カタツムリとはわけが違う。
僕はまた野球に注意をもどした。
二回裏、僕は九番バッターとして打席に立った。左側のバッターボックスに入り、子供用の金属バットをかまえる。ピッチャーのカトウくんの投げるボールはすごく速かった。カトウ君はクラスで二番目に身長が低く、痩せていて体格がいいほうではない。僕のチームメイトは簡単そうにバットでボールをはじき返していたのだが。カトウ君の肩の上にあらわれたボールは次の瞬間にはキャッチャーミットにおさまっている。
僕の打席は三球でおわった。僕はすべてのストライクボールを見のがした。三人のランナーがベンチにかえってくる。僕は満塁のチャンスを棒にふり、二回裏は終了したのだ。チームメイトは相当がっかりして何人か不満を言うものがあった。
「風に吹かれて髪の毛が目に入ったんだ」僕は苦しまぎれの言い訳をした。
「うそつけ、風なんか吹いてなかったじゃないか」チームのリーダー的存在のカズヒコが文句を言う。
「バッターボックスのところで一瞬吹いたんだよ」僕は強情にうそをつきとおした。
三回表、僕のところにはじめてボールが飛んできた。打ったのは僕の家の隣に住んでいる幼なじみのトシヤだ。彼は背が高く同学年と思えないくらい体格がいい。三塁と二塁にはランナーがいる。秋の昼下がりに金属バットが気持ちいい音をひびかせ、ボールが高く上がった。
僕はボールを見ていた。頭を反らしてじっと見ていた。やがてボールは視界から消えた。
うしろをふり向くと、ボールが地面の上を土ぼこりをあげてころがっているのが見える。僕は追いかけてボールをとり内野へ放った。
バッターは二塁をまわり、三塁へみるみる近づいていく。結局スリーベースヒットになり二点とられた。
これが決勝点となり、三対一で僕たちのチームは負けてしまった。
「太陽がまぶしくて」僕は試合がおわったあと、また嘘の言い訳を言った。だが誰も信じてはくれなかった。
僕は体育が苦手で、とくに球技がだめだった。僕には致命的な弱点がある。動いているボールが次の瞬間にどこにあるかがわからないのだ。だからバスケットボールではパスをいつも体で受けとめていた。まるでサッカーのトラップだ。ドッジボールでは気づいたときにはすでにボールにあたっている。
球技に限らず僕は先のことを予測するということができなかった。僕が認識できるのは一瞬の現在と過去のできごとに限られる。たとえば遠くから廊下を友達が走ってくるとする。僕はその子がいったいどれくらいで自分の前に来るのかがわからない。だからよく廊下で人とぶつかる。給食当番になるとスープを盛りすぎてクラスの半分くらいの人にいきわたらないことがたびたびあった。
それでも小学校低学年のころはみんな僕と似たようなものだった。だが学年があがっても僕はこれらの失敗をくりかえしつづけている。そしてまわりのみんなは気づきはじめた。僕がすこしおかしいということに。
やがてそれは教師たちや両親にも知られるようになった。心配になった両親はおじいちゃんに連絡をとった。おじいちゃんは大学の教授で、脳の専門家なのだ。
ある日僕は病院につれていかれた。病院は郊外にある八階建ての真新しいしい建物で、茶色の外壁をしている。僕はおかあさんのあとについて正面玄関の回転ドアをぬけ、なかに入った。冷房から出された冷たい空気がここちよく体をつつむ。お母さんは僕を待合室のピンク色のベンチに座らせたあと、総合受付に麻のロングスカートをゆらしながら歩いていった。カウンターに両手を置き、案内係のおねえさんとなにやら話をしている。
二分後戻ってきたお母さんと僕はエレベーターに乗り四階へとあがった。
エレベーターをおりて両側に扉のならんだ廊下を西にすすむ。クリーム色のリノリウムの床にはワックスがぬられ、天井につけられた照明からの光が反射している。
廊下の途中にはテレビの置かれた待合スペースがあり、僕たちはそこで背もたれのない黒いベンチに座った。テレビではボクシング中継が放送されている。僕らが座ったときちょうど第二ラウンドの開始のゴングがうちならされたところだった。日本人とマレーシア人のボクサーが対戦している。
第三ラウンドの終了のゴングと同時に、おじいちゃんが待合スペースに現れた。おじいちゃんは白い髪全体をうしろになでつけて、鼻の下にきれいに整えられた口ひげをはやしている。
「こちらは今回マサヒトをみてくれることになったクドウ先生だ」おじいちゃんはとなりに立っていた小柄な男性をさして言った。
クドウ先生は銀ぶちの丸めがねをかけていてひざうえまでの白衣をまとっている。歳は四十歳くらいだろう。
僕たちはクドウ先生を先頭に廊下をさらに西へすすみ、一番奥の部屋に入った。部屋は二十畳くらいの広さで、真っ白な壁に囲まれ窓はひとつもない。部屋の真ん中には細長いベッドが置かれている。ベッドといっても布団はしかれおらず、。表面は白いプラスチックに覆われていて、どこか機械的だ。ベッドの奥にはドラム式乾燥機を巨大化したような機械が置いてある。
僕はクドウ先生にベットに仰向けになるように言われた。
「しばらくここでおねんねしてなさい。動いちゃだめだよ」おじいちゃんは僕の肩に手を置いて言った。
やがてベッドは動き出し、機械の中に入っていった。中ではしきりに機械の作動音が鳴っている。機械の中でじっとしているとポーンというチャイムの音が聞こえた。そしてベッドが何回か小さく動く。五分くらいして僕の体は機械から出された。
そのあと僕は診察室へ連れて行かれた。一方の壁際にはデスクと患者用のスツール、もう一方にはベッドが置かれている。僕は黒いスツールに座り、クドウ先生は背もたれ付のイスに座った。おじいちゃんとお母さんは話があるらしく診察室の外にいる。
僕はそれまで何度か病院にいったことはあったが、それはすべて風邪をひいたためだった。だから体温も測らず、胸に聴診器を当てられることもないのはとても不思議だった。その日診察室で僕がやったことといえば将棋をさしたことだけだ。クドウ先生は一番下のひきだしから将棋盤と駒をとりだして机の上に置いた。そして僕らは将棋をさしはじめた。
クドウ先生は将棋がすごくうまかった。棋聖と言ってもいいくらいだ。どんどん僕の駒をとっていく。
「先を読まなくちゃ」白衣の棋聖は桂馬で僕の飛車をとった。「自分が駒を動かしたあと、相手がどう駒を動かすかを考えるんだ」
だがそれは無理な話だった。先生がどう駒を動かすかなんて先生以外の人間にはわからないのだ。
そのあとも白衣の棋聖はどんどん僕の駒を取り続け、対局は五分で終わってしまった。
なぜか先生は対局の結果をカルテに書きとめている。棋聖の考えていることはまったくわからないな、と僕は思った。それから僕は診察室を出て、お母さんの運転する車で家に帰った。
そのあと僕は頻繁に病院に通うことになった。病院にいくのはいつも夕方、学校が終わったあとだ。注射をうたれたり、レントゲンをとったり、たくさんの検査をした。
「どうして毎日病院にいくの?」病院から帰る車の中で僕はお母さんにたずねた。
「頭の手術をするからよ」とお母さんは言う。
「僕は頭が悪いの?」
「そうよ」お母さんは間髪いれずに答えた。
「でも手術をすればすぐによくなるわよ」
「手術って痛い?」
「ぜんぜん。眠ってる間に終わっちゃうわ」
そのとき道路の上に黒い塊が見えた。お母さんは急ハンドルをきり車が対向車線にはみだす。横を通りすぎるとき僕は助手席の窓からその黒い塊をのぞきこんだ。それは車にひかれた猫の死体だった。きっと猫は車がどれくらいの時間で自分のもとに来るのかわからないのだろう。僕にもその気持ちはよくわかった。
ある日ベッドからおきだして顔を洗い食卓につくといつもと様子がちがっていた。テーブルの上におかずが何ものっていないのだ。
いつもなら僕が起きるころにはおかずがテーブルの上にならべられている。イスに座るとお母さんがすぐにごはんとみそ汁をよそって朝食をとりはじめていたのだが。
「マサヒト、今日の朝ごはんは無しよ」お母さんはリビングの南側の窓をあけて物干し場から室内に入ってきた。
いつも僕が朝ごはんはいらないと言ってもきいてくれないお母さんの口からでた言葉だとは思えない。僕は普段から朝には食欲がなくて無理やり朝ごはんを食べさせられていたから、これはありがたかった。
その日は夏休みの初日で朝から病院へ向かう。到着すると僕はつるつるとした生地の水色の服を着せられた。服にはボタンやジッパーはなく、甚平のように紐で前をとじるタイプだった。ズボンにもゴムはなく紐をむすんで腰に固定する。
それから僕は病室のベッドに横になり点滴をうたれた。お母さんはずっとベッドの横に座っている。いつもはよくしゃべるのにその日はずいぶんおとなしい。
一時間後、点滴をはずしに真っ赤な口紅をつけた三十歳くらいの女性看護師さんが病室に入ってきた。看護師さんは管につけられたつまみをしぼり、僕の腕にガーゼをあてて針をぬく。そして正方形の白い絆創膏をはり、僕にくすりを二錠と水が入ったコップをわたした。そのあと点滴の管をしばってまとめ、点滴液が入っていた容器をもって出て行った。 僕はくすりを一つずつのみくだす。どちらもカプセル型のくすりだった。いつものことだが、なんだか喉につっかかっているような気がする。
薬を飲み終わると、すぐにクドウ先生が病室に入ってきた。うしろにはおじいちゃんの姿もある。いつものようにオールバックの髪をしているが、口ひげはさっぱりとそられていた。こころなしか若がえったように見える。 さらにうしろには男の看護師が二人いた。一人は短い髪をジェルで無造作に立たせていて、もう一人は分け目をぼかしたさりげない七三だ。
「じゃあ行きましょうか」クドウ先生はお母さんにむかって言った。
お母さんはうなずいてイスからたちあがる。看護師の二人はベッドの車輪のロックをはずし、前後に分かれてベッドを動かした。
先生を先頭に病室を出て廊下をすすむ。その後ろにはおじいちゃん、つんつんヘアの看護師、ベッドに寝かされた僕、ぼかし七三、暗い顔のお母さんの順でならんだ。五人分の足音とベッドの車輪のきゅるきゅるという音が静かな廊下にひびいている。僕の視界には上から天井に取りつけられた蛍光灯が現れて下へ流れていくのが見える。途中エレベーターで六階から二階へ移動した。そのあとさらに廊下を進み僕は手術室へ入った。
僕は体を持ち上げられ別のベッドにうつされた。今度のは黒い革張りのベッドだ。目の前にはUFOのような丸い形の照明がアームにつながれて浮かんでいる。今はまだ明かりはついていない。部屋の中には白い手術着を着たお医者さんが四人いて、僕と目が合うとにっこりと笑いかけてきた。僕ははじめて体験する状況にとまどっていて笑顔をかえす気にはなれなかった。
「それじゃあ、注射をしますからね」医師の一人が僕の顔をのぞきこみながら優しげな表情で言う。四十歳くらいの口のまわりが青くなった小太りの男性だ。
注射がうたれると僕の意識は映画館の照明が落ちるときのようにすっと薄れていった。
目が覚めると、目の前に大きな顔が浮かんでいた。
「坊や、よくがんばったね」四十代の医師が言った。白い帽子とマスクをつけて給食当番のような格好をしたお母さんもおなじ意味の言葉をかける。でも僕は寝ていただけで何もがんばってやしない。僕はなぜそんなことを言われるのか不思議だった。
二人の男がまた僕の体を持ち上げ、移動用のベッドにのせる。持ち上げたのは手術前と同じ人だ。ベッドがエレベーターに入ったところで僕はまたうとうとしてきて眠りにおちた。
次に目が覚めたとき僕は口に管のついたマスクをはめていた。プシュー、プシューと酸素を送り出すポンプの音が絶え間なくなっている。視線を体のほうにむけると、服がクリーム色のパジャマに変わっていた。それに腰のあたりまで黄色いタオルケットがかけられている。胸には心電図用の電極がつけられ、両腕に一本ずつ点滴の針が刺されてもいた。ほかには右腕に血圧測定器がついている。
僕は気になって左手で頭をさわってみる。頭にには包帯がぐるぐる巻きにされ、ネットがかけられているのが手のひらの感触でわかった。
僕はそのまま入院した。小学校五年生の夏休みはこうして始まったのだ。病室にはベッドが一台きりで、南側には出窓がついている。母は僕と一緒に病室で寝起きした。
手術の翌日の朝、眠りから覚めると母とおじいちゃんが話をしていた。ぼくはまだ眠かったのでそのまままぶたを閉じて二人の話を聞いていた。
「ほんとに大丈夫なの、脳の中に機械なんか入れて」
「大丈夫だ、チップは完璧な生態適合性を持ってるんだから」
「なんなの、生態適合性って?」
「要するに体がなんか変なやつが入ってきたぞと思わずに、すんなり受けいれてくれる性質をもってるんだ」
うらやましいな、と僕は思った。僕も変なやつだとは思われたくない。
「障害があったのはいったい脳のどの部分だったかしら?」
「大脳前頭葉だ。それは両側の側頭部にある。人はものを想像するときに大脳前頭葉から大脳領野へ信号を送るんだが、マサヒトの場合はその信号がとても微弱だったんだ。チップはその微弱な信号を増幅して大脳領野へ送る働きをしているんだ」
「そうなの。でもこれでこの子も普通の子と同じようになるのね」
「いや普通以上だ。マサヒトのために最高性能のチップをつかった。私が開発したシップのなかで最新のものは普通の人間以上の推測能力があるんだ」
「あら、そうなの。すごいのね。でもちょっと心配だわ」
そこで女性看護師さんが病室に来て肩をたたき、僕を起こした。僕は目をこすり、あくびをして、そのとき初めて起きたふりをする。そのあと看護婦さんは僕の左腕に注射針を刺し血をとっていった。
お昼になるとおかゆと味噌汁と野菜の煮物が出された。食事はお母さんがスプーンですくって食べさせてくれる。僕は手術前日の晩から何も食べてなかったので、とてもおなかがすいていた。でもあまり食べられなかった。
胃が小さくなっていたこともあるだろうし、慣れない環境で食欲がわいてこなかったのかもしれない。
午後になると僕はまたベッドのまま移動して、巨大乾燥機のような機械の中へ入れられた。
そのあと病室にもどって晩ごはんを食べる。看護師さんに無理してでもたくさん食べなさいと言われていたので、僕はがんばって料理を全部平らげた。その晩、僕はぐっすり眠った。
一ヵ月後、僕は退院した。夏休みは終わっていて、僕はまた学校に通いはじめる。
その日の五時間目、夏休み明けの最初の体育の時間、僕は自分が変化したことを実感した。その日はサッカーをすることになり、僕はキーパーをやらされた。それまで僕がキーパーをやってシュートをとめたことは一度もない。打つシュート打つシュート全部が決まるものだから相手チームは面白がって僕を笑った。次第に味方も勝負をあきらめて笑うようになる。しまいには試合に出ている二十一人全員が僕に向かってシュートを打つ。みんなゴールが決まった爽快感に酔いしれ、とても楽しそうだった。
でもその日はちがった。僕はすべてのシュートがどこに飛んでくるのかがわかった。予感したのだ。どんなに近くからのシュートも、どんなに速いシュートも、僕はすべてを受け止めた。みんなが僕の変化におどろいている。僕自身もおどろいた。僕は何の苦労もせずにへんなやつではなくなったのだ。
僕の変わりっぷりは、あっという間に学校中に知れわたった。このときは生徒と先生の間に情報伝達のタイムラグはなかった。僕は学校で一番スポーツのできる生徒になっていた。六年生の中でも僕にかなう人はいない。
スポーツ以外にも多方面で変化が現れた。いまでは空を見れば一時間後の天候を予測することができる。くもの形やその配置、流れるスピードなど空をつぶさに観察すれば過去の経験からわかるのだ。
美術の時間ではどんな線を引いていけばうまく絵が書けるか予測できたし、理想の色を得るためにどの絵の具を混ぜればいいかが簡単にわかる。僕の描く絵は近くに寄って見ないと写真と区別できないほどになっていた。どの教科の成績も手術前より格段によくなった。
僕はすっかり体育が大好きになり、すべての教科が大好きになり、学校が大好きになった。
僕はホームランをたくさん打ち、シュートをたくさん止め、すばらしい絵を描きまくった。
でもそれは六年生になる前までのことだ。僕のまわりにはかつての僕のようにスポーツの苦手な子、絵の苦手な子がほかにもいる。
その子たちはスポーツをするたびに、絵を描くたびに悔しい思いをしている。僕はそんな境遇をたいした苦労もなしに飛び越えてしまった。それがひどくずるいような気がした。
だから僕は六年生になると、わざと三振をしたり、下手な絵を描いたりした。そうやって普通の人間になろうとしたのだ。そうすれば自分を卑怯なやつだと思わなくてすむから。
その後、僕はだんだんふさぎ込むようになる。僕とふつうの人間とのあいだに大きな能力のちがいがあることが僕はたまらなくいやだった。僕はあるとき気づいた。自分が半人造人間であることに。それは僕の頭から片時も離れることはなくなった。
「マサヒト、今日はおじいちゃんに会いに行きましょう」手術から二年たったある日曜日の朝、ダイニングに座り、朝食をとっているとき母が言った。キッチンの前に立ち、ふきんで手を拭きながら僕のほうを見ている。
僕はあと一口で朝食を終えるところだった。
「行きたくないよ」と僕はご飯を口につめたままなげやりに言った。きっとまた頭に変なことをさせられるにちがいない。
「どうして?」母はむかい側の木製のイスに座り、僕の顔をのぞきこんだ。
「とにかく行きたくないんだ」僕は噛んでいたご飯をのみこむ。
「おじいちゃんがどうしても会いたがってるのよ。お昼前にむかえに来てくれるって言ってるわ」
「いやだ。行かない」僕は乱暴にイスから立ち上がり、自分の部屋に入って、ドアを強く閉める。そしてベッドに腰かけて今日これから起こるだろうことを考えてみた。
きっとこのまま家にいては、やがておじいちゃんがむかえに来て、どんなに嫌がったとしてもまた病院に連れて行かれるだろう。早く家を出なければならない。僕はゆっくりと部屋のドアを開け、母親に気づかれないようにこっそり廊下を歩き、玄関から外に出た。
バスにのって霧山駅にむかう。霧山駅は人口三十万人ほどの霧山市の中心駅である。僕は駅前のコンビニでコーラを買い、こげ茶色に塗られたガードレールのパイプに腰掛けて飲みはじめた。すでに通勤時間はすぎていて繁華街の人通りは少ない。
そのときとつぜん頭に痛みを感じた。なんだか脳の奥で爆竹がはぜているように痛む。
僕は頭をおさえてその場にしゃがみこんだ。
目は無意識のうちにきつく閉じられ、口からうめき声がもれる。
背後で車が停車する音が聞こえた。ドアが開き、一人分の靴音がこちらにかけよってくる。僕の体は持ちあげられ何かやわらかいものの上に置かれた。二度ドアが閉まる音がして車が走りだす。エンジン音の高まりと体が後ろに引っぱられたことでそれがわかる。
僕はうめき声を上げ続けた。かなり大きい声だったから車の中は僕のうめき声で充満している。
「うるさいなあ」
僕の声に負けないくらい大きい声が聞こえた。
「ちょっと強すぎたのかもしれない。これでどうかな」
ポンポンポンという電子音が聞こえ、それにともなって頭の痛みが少しずつ和らいでいく。うめき声も小さくなった。
「よしよし、これでよし」
僕は薄目を開けることができた。目の前には車のライトブルーのシートの表面が見える。
僕の体は車のシートの右側に頭、左側におしりをのせて横になっていた。足は床についている。
運転席に目をむけるとアロハシャツを着た運転手の体がシートからはみ出しているのが見えた。プロテクターをつけたアメフト選手のように大きい体だ。ルームミラーには黒いサングラスをかけた男の目元が写っている。車に乗っているのは僕と運転手だけだった。この運転手が僕を誘拐した犯人に違いない。
「どこに行くんだ?」僕は声を絞り出した。
「研究所」運転手はぶっきらぼうに言う。
「どうして?」僕は大きな背中に向かって言った。
「サザナミ教授が君に会いたがってるんだ」
やっぱりおじいちゃんのところだ。サザナミ教授とは僕のおじいちゃんである。
「僕は会いたくない」
「それは教授もご存知だ。だから俺にこいつを渡した」大男は運転席と助手席のシートの間からハンドマイクのようなものを掲げて見せた。「こいつのスイッチを入れるとお前の頭が痛みだして動けなくなる。そのあいだにお前を車にほうりこめ、と教授はおっしゃった。でも俺の頭はなんともないのにどうしてお前の頭だけそんなに痛むんだ?」
「知らない」と僕は答えておいた。でもなぜ僕の頭だけ痛むのかを僕は知っている。あのおじいちゃんの開発したチップのせいにちがいない。
運転手の体格に似合わず、車は繊細にとまった。フロントガラス越しに信号が赤くともっているのが見える。
カチッという音がして大男の大きな坊主頭のかげから煙が立ちのぼりだした。どうやらタバコを吸いはじめたようだ。大男が二回煙を吐いたとき信号が青にかわり車は発進した。タバコの煙が徐々に室内にこもりはじめているが、大男はいっこうに窓を開けようとしない。
「窓を開けてくれませんか」と僕は言った。
大男は僕の言葉を無視して三度目の煙を吐く。
僕は頭の痛みに耐えながら助手席のうしろの席へ体を起こす。そして左側のドアに体をあずけ、パワーウィンドウのスイッチを押した。
窓から吹きこむ涼しい風を顔全体に浴びて頭の痛みが少しやわらいだ気がする。しかし窓はすぐに閉じられた。運転席を見るとハンドルの上には大男の左手しか置かれていない。おそらく右手で左後部座席のウィンドウのスイッチを操作しているのだろう。僕はもう一度スイッチを押して窓を開ける。すぐにまた窓は閉められた。僕は窓を開けた。閉められた。開けた。閉められた。開けた。閉められた。やがて窓はいくらスイッチを押してもまったく開かなくなってしまった。大男がずっとスイッチを持ちあげて窓を閉める命令を発し続けているのだろう。僕がスイッチを押しつづけても運転席側からの命令が優先されるらしい。ためしにドアを開けようとしてみたが、ちゃんと内側から開かないようにロックされている。
僕はあきらめて窓の外を眺めることにした。
車は見おぼえのあるバイパス道路を走っていたが、途中で海沿いのほそい道に入った。道路のすぐわきには大小の岩がころがった磯があり、その向こうには灰色の雲におおわれた空と鉛色の海がひろがっている。反対側は崩落防止用のコンクリート壁で固められた崖の側面が道路際にせまっていた。
僕はまた目を閉じて痛みに耐えることにした。目を閉じていたほうがなんだか楽な気がする。車はずいぶん曲がりくねった道を走っていて、僕の体は遠心力で右に左にひっぱられた。
三十回くらい体を左右に揺らしたところで車は停止した。ドアが開き僕の体は再び大男に抱え上げられる。目を開けてみると、そり残しのある男のあごの下とその向こうに空が見えた。
灰色の空からは雨が降っている。僕を抱えているせいで傘がさせない大男は小走りで移動した。体が小刻みに上下することでそれがわかる。体が揺さぶられ、頭の痛みが増したような気がする。僕は体を丸めて痛みに耐えていた。
やがて大男はガラス扉を背中で押しあけて建物のに入った。おそらくここが研究所なのだろう。天井には十五センチ四方くらいの正方形タイルが張られている。色は白だが、だいぶくすんでいるようだ。隅のほうにはくもが巣をはっていて、そこにはほこりがかかっている。たてられてから十年以上たっているような建物だった。
大男は階段をのぼりだした。走る速さはさっきまでと変わらない。軽々と階段をのぼっていく。実は僕の体重は小学六年生ながら七十キロある。そう、僕は肥満児なのだ。
そんな僕を抱えてこんなに速く階段をのぼれるとは。僕はあらためて大男の力に感心した。
階段をのぼりきると大男は廊下を走り、唐突にたちどまった。そして僕をひじを曲げて抱えたまま手首だけでノックをする。
「入れ」部屋の中からこもった声が聞こえた。
部屋に入ると僕は黒い革張りのソファの上におろされた。僕はうずくまりながらも目を開けて前を見る。ソファの前にはガラス天板のローテーブルがある。奥に僕が横になっているものと同じソファが見えた。部屋の中はエアコンがきいている。
「ごくろう」と言うおじいちゃんの声が聞こえた。「もうそのスイッチは切ってよろしい。君は扉の外でこいつが逃げにないように見はっていてくれ」
「かしこまりました」と大男の声がして、頭の痛みは消えた。僕は大きく息を吐いてこわばった体から力を抜く。体を起こしてまわりを見てみるとすでに大男の姿はなく、部屋にいるのは僕とおじいちゃんの二人だけだった。
窓の前には紺色のスーツを着たおじいちゃんの後姿が見える。その手前には木製の大型のデスクと背もたれの高い革張りのチェアがある。デスクの上はきちんと片付けられ、電話機とペン刺し、少量の書類がのっていた。部屋の隅には観葉植物の木が植えられた鉢が置いてある。
「会ってほしい相手がいるんだ」おじいちゃんは僕に背中を向けたまま言った。「こっちに来てくれ」
僕は黙ってソファに座っていた。おじいちゃんは僕を一瞥したあと、はき出し窓を開けベランダに出ていく。
「おーい」おじいちゃんは両手で口をかこんで、目の前にひろがる太平洋にむかって呼びかけた。
だが何の反応もない。太平洋はただ静かに雨を飲みこんでいる。おじいちゃんはもういちど叫んだが結果はおなじだった。
僕はおじいちゃんが誰に呼びかけているのか気になってソファから立ちあがり、デスクの前に行って窓の外をながめてみた。奥のほうは何の変哲もない海だったが、研究所の手前側は海がラグビー場四つ分くらいの広さにコンクリートの壁でしきられている。コンクリート壁の高さは二メートルくらいありそうだ。
そのときデスクの上にある電話が鳴った。
おじいちゃんは部屋にもどり受話器を耳にあてる。そして「ばかもん!」といって受話器を電話にたたきつけた。おじいちゃんはドアを開け大男を中に入れる。するとまた僕の頭が痛みだした。僕は窓の前にしゃがみこむ。すると僕の体は床を離れ、また上下にゆれながら運ばれた。
今回僕がおろされた先は船の上だった。痛みがおさまって顔をあげると僕は船の後部デッキにころがっていた。とものほうに目をやると船はすでに岸壁を離れ、引き波をたてながら遠ざかっていく。岸壁の上には研究所をバックにおじいちゃんと大男が並んで立っている。まもなくおじいちゃんは大男を引きつれて研究所のほうへ歩いていった。
まえのほうへ目をむけると女がひとりキャビンの中にいる。髪の毛は肩甲骨の下あたりまで伸びていて、色は赤だ。黒いジャンパーを着て紺色のジャージズボンをはいている。
僕の乗せられた船は小型のクルージングボートだった。キャビンの内側には左に大人三人がゆったり座れるほどのそなえつけのベンチシートがあり、右奥に操縦席がある。
船はものすごいスピードで走った。船が波をこえるたびに上下にはずむ。
「サンプルⅣはどうしてこんなに急いでいるのかしら」女は大きい声で言った。ふりむくことなくしゃべったので、それは僕に話しかけたようでもあり独り言のようでもあった。
「サンプルⅣっていったい何なの?」僕はキャビンの中に入ってたずねてみた。
「くじらよ」と女は言って、初めて僕のほうを見た。日に焼けた顔をしていて、歳は二十代後半くらいだと思う。
「しかもただのくじらじゃないわ。言葉をしゃべることができるのよ。なんでも頭の中にチップが入っていて、くじらの感情を言葉に変換しているらしいわ」女は興奮した口調でしゃべった。
「そのチップはサザナミ教授が考えたんでしょ?」僕は赤毛の女とは対照的に平坦な声音で言った。
「まあ、よく知ってるわね」
「教授は僕のおじいちゃんだから」
「あら、そうなの。確かにそのチップはサザナミ教授の研究成果が基礎になって開発されたのよ。教授はいろんな生物の脳を研究しているの」
「どうしておじいちゃんは船に乗らなかったの?」
「忙しいのよ、教授は。毎日いろんな会議があるし、面会に来る人もいっぱいいるのよ」
「どうしておじいちゃんは僕とサンプルⅣをあわせたかったんだろう?」
「それは知らないわ」と女は言った。
「それにしてもサンプルⅣは速いわね。ほとんどこの船とおなじくらいの速さだわ。この船はいま二十ノットで走ってるのよ。鯨なんてどんなに急いでもせいぜい五ノットくらいでしか泳げないはずなのに。あのプールの壁を飛びこえたことといい、信じられないくらいの運動能力ね。これじゃあいつまでたっても追いつけないわ」女は操舵室に取りつけられたモニターを見ながら言った。
そのモニターは黄色い線で将棋盤のように区切られ、真ん中に黄色い点がある。黄色い点からは扇形の光が出ていて、画面上を回っている。モニターの右上には赤い点が点滅していた。おそらく黄色い点がこの船で、赤い点がサンプルⅣなのだろう。
「でもこんなちっちゃい船じゃ追いついたところでくじらを捕まえられないんじゃないの?」
「あなたさっきから質問してばっかりね。もううんざり」女はうつむき、首を振って赤い毛をばさばさとゆらした。
「でもこんなちっちゃい船でくじらを捕まえられるわけないじゃないか」僕はむきになって言った。
「研究所にはこの船しかないのよ。でも普段はあのプールの中を移動するだけだからこれで充分なの。それに今は捕まえに行くわけじゃないわ。まずサンプルⅣにあなたを会わせて、それから研究所に帰ってきてくれるように説得するのよ。別に大きな船じゃなくてもいいの」
説得に応じなかったらサンプルⅣはどうなるのかきいてみたかったが、やめておいた。とにかく僕にはどうすることもできないのでベンチシートの中央に座り、前方の窓から海を見ていた。太陽は沈みかけていて東の空はすっかり暗くなっている。
船は一日じゅうはしりつづけたが、サンプルⅣとの差は縮まらなかった。次の日の朝早く、船は急にスピードを落とした。そして赤毛の女は船を半転させはじめる。
「もうこれ以上は無理ね」と女は言った。
「どうして?」僕はベンチシートにからおきあがってたずねる。
「サンプルⅣはもう陸から百海里以上はなれてしまったわ。そこまで行くのにはそれなりの資格をもった機関士を乗せてないとだめなのよ。それに帰りの燃料がなくなっちゃうし」
船が引き返していく。僕は最初は気乗りしなかったが、ここまで来たらくじらと話をしてみたいと思っていたのでちょっと残念だった。
僕はデッキに出て空を見あげた。東側には青空が広がっているが、西側は空の低い位置に灰色の雲の塊が何十個と浮かんでいる。どうも嵐がきそうな予感がした。
二時間後、案のじょう嵐になった。空は黒い雲におおわれて、素肌にあたると痛みを感じるほどの激しい雨が降っている。強い風がふき、高い波が船にぶちあたって、甲板の上まで海水が入りこんでくる。船があらゆる方向に激しくゆさぶられる。女はエンジンをきって船をとめ、ビーコンで救難信号を送った。
そのあと僕らはキャビンの中でなすすべなく、ただ嵐がおさまるのを待つしかなかった。
僕はしゃがんで床に固定されたテーブルの支柱につかまっていた。女も同じようにしゃがみこんで操縦席のイスにつかまっている。嵐は一向におさまる気配がなく高い波が船を襲いつづけた。
船の左舷にそれまでで一番激しい波がぶつかった。船が右に六十度くらい傾く。僕は体勢をくずされて、床に寝そべりテーブルの支柱にぶら下がるような格好になった。そのすぐあとに今度は船首が大きく持ちあげられ、手が支柱からはなれる。僕はキャビンからデッキにころげ落ち、段差を乗りこえてそのまま船外に投げだされた。女は左の手ひらを僕のほうへ突きだし、口を大きく開けて何か叫んだようだった。
僕は背中に大きな衝撃を受け、空中から海中へと落ちる。今まで聞こえていた雨が船体をたたく音や波が砕ける音が消えて、あたりは急にしずかになった。僕は手足を思いっきり動かしたが、服が水を吸って重くなり、いっこうに浮きあがらない。僕の体はどんどん海の底へと沈んでいく。
がまんできず僕は口を開けて空気を吸おうとする。だがそこに空気などあるはずがない。大量の海水がのどの奥へと入っていく。息を止めていたときより、さらに苦しい。苦しみが頂点に達したとき、僕は意識をなくした。そのあとのことはよく覚えていない。
そこは何の音もしない真っ暗な空間だった。
僕の体だけが頭上からスポットライトで照らされたように明るく浮かびあがっている。そこには床というものがなく僕の体は空中に浮かんでいた。腕を動かしてみると海の中と違ってまったく抵抗なく動かせる。
「だいじょうぶかい?」背後できついエコーがかかったような声がした。
僕は振り返ったがそこには誰の姿も見えない。
「君は誰だい?」僕は何もない空間に呼びかけてみた。僕の声もエコーがかかって聞こえる。
「くじらだよ。名前はサンプルⅣ」そのときくじらの体が僕とおなじようにライトで照らされ、その姿が僕にも見えるようになった。十メートルほど離れてくじらが浮かんでいる。とにかく大きいくじらだ。体長は三十メートルちかくある。淡灰色と白のまだらもようで、のどから胸にかけては白いひげがある。僕はむかし見た「海のいきものずかん」を思いだし、このくじらが何くじらなのか考える。そうだ、シロナガスクジラだ。
「あなたのお名前は?」サンプルⅣが僕に問いかけた。
「サザナミマサヒト」僕はこんな巨大な生き物に話しかけられてびびっていたし、僕の話す言葉がくじらに理解できるのか半信半疑だったのですごく小さい声しか出せなかった。だがサンプルⅣにはちゃんと聞こえ、理解したようだ。
「きみがマサヒトくんか。マサヒトくんのことは教授からいろいろ聞いてるよ。きみはとても遠慮深い子なんだね」くじらはしゃべるときに口をまったく動かしていないようだった。だが声はサンプルⅣの体のほうから聞こえる。どこかにスピーカーでも取りつけられているのかもしれない。
「遠慮深くなんかないさ」
「そうかな? じゃあ君はどうして自分の能力を発揮しようとしないんだい? それは遠慮しているわけじゃないのかな?」サンプルⅣは小首をかしげる。
「僕には特別な能力なんてないよ。あれは高性能チップの能力だから。僕はそれを何の苦労も努力もなしに手に入れた。でも僕はそれを使って世の中をわたっていこうとは思わない。みんな苦労して生きてる。僕だけずるをするわけにはいかない」
「うんうん」サンプルⅣは二度うなずいた。「僕にもその気持ちなんとなくわかるなあ」
「きみの体にもチップが入っているものね」
「いいや、そのことじゃないんだ。たしかに僕の頭にもチップが入っていて人間と会話できるけど、それは他のくじらにとって全然うらやましいことじゃないからね。それに仲間と話すときはいつも超音波をつかってるしね。だから僕は人間の言葉をしゃべることにまったく気がねはしてないよ」サンプルⅣは声にあわせてむなびれを左右にふる。「でもきみとは少し事情がちがうけど、僕らはすごく体が大きいだろ。それこそほかの動物がどんなに苦労したってなれないくらい大きな体をもってる。その体を維持するために僕らはたくさんの小魚やプランクトンを食べなきゃならないんだ。だけど僕らを食べようとする生き物はほとんどいない。最近はとくに減ってきてる。これでいいのかなって思うよ。僕らは食べるばっかりで、だれにも食べられないっていうのは不公平なんじゃないかってね」サンプルⅣは器用にむなびれをまげて頬づえをついた。口が真一文字にむすばれている。しぐさがいちいち型にはまっているから、僕はキャラクターショーを見ている気分になってきた。
「それで君は食べることを辞めたりはしないのかい? あるいは量を減らしたり?」
「しないよ。食べなきゃ生きていけないし」サンプルⅣはぶんぶんと首を振る。
「きみはそれで平気なの?」ずいぶん傲慢なくじらだなと僕は思って、たずねてみた。
「でも僕だって償いっていうわけじゃないけど、彼らの役に立つようなことをしているよ」
「なにをしてるんだい?」僕は腕を組んでサンプルⅣにするどい視線をおくる。
「うんちして死ぬんだ」サンプルⅣは胸を張って言う。
「おいおい、それのどこが償いなんだい?」
くじらはふてきに微笑んだあと言った。「あのね、僕らのえさになる生き物は僕らのウンチを食べて生きてるんだ。だから彼らは僕が彼らを食べてウンチしないと生きていけないんだよ。それに僕らが死ぬと死体は海の底まで沈んでたくさんの生き物がそれを食べる。そしてそこにコロニーができるんだ。こうやって僕らはウンチをして死ぬことでほかの生き物に埋め合わせをしているんだよ」どんなもんだと言わんばかりに、くじらはさらに胸を張る。
「でもうんちして死ぬだけなんてすごく簡単じゃないか」僕はきびしい口調で言う。
「そうだね。でも僕らが作りせるものなんてそれくらいしかないんだ。でも君たち人間はちがう。僕たちよりずっとたくさんのものを作りだせる。だから僕たちよりずっとたくさんの方法で償いができると思うよ。君だって自分の能力をフルに発揮して何か作り出してみたらどうかな? それがマサヒト君の埋めあわせの仕方だと僕は思うよ。僕の言ってることがわかるかい?」
「うん、まあ、わかるよ」確かにサンプルⅣの言うとおりかもしれない。
「うまく埋め合わせができそうかな?」
「うん、できると思う」僕にはそんな予感がした。
目が覚めると僕は病院のベッドの上にいた。
そこは僕が脳の手術をしたのと同じ病院だった。部屋も手術のあと僕がつかった部屋と一緒だ。あの手術のあとと同じように僕の体にはたくさんの管がつながれている。口には酸素マスク、腕には点滴と血圧計、胸には心電図の電極。
枕元にはおじいちゃんが立っている。大変だ。僕はまたおじいちゃんの指示によって改造されたのだ。僕はあわてて左手を頭にあてて傷跡をふさぐ何かがないか確認する。だがそこにはなにもなかった。若干脂でべっとりした髪の毛があるだけだ。
「マサヒト、大丈夫か」おじいちゃんは心配そうな表情で声をかけた。
手術されたのでなければ僕はなぜこんなところで横になっているのだろう。
「どうして僕はここに?」
「おまえ、船から海に落ちたこと覚えてないのか?」おじいちゃんは僕の左手を両手で握り締めた。おじいちゃんの顔はより心配さを帯び、声は泣き出しそうだった。
だが僕はちゃんと思い出せた。くじらを追うのをあきらめて帰ろうとしていたとき嵐にあい、僕は船から転げ落ちた。僕が記憶喪失になったと思ったであろうおじいちゃんの心配は杞憂に終わったのだ。
「くじらはどうなったの?」消え入りそうな声で僕はたずねた。
「おお」おじいちゃんは感動の声を上げ、握っていた僕の手を上下にふりまわした。
「おまえ覚えとるのか、本当に覚えとるのか。サンプルⅣは戻ってきたぞ。サンプルⅣはおまえを背中に乗せて研究所の船着場まで戻ってきたんだ。そのあとはプールの中に戻って元気に泳ぎまわっとる」
「そう、よかった。あの赤い髪の女の人は?」
「彼女も元気にしとるよ。彼女は嵐がおさまるまでずっと操縦席のイスにしがみついていたらしい。それから救難信号を受信した近くにいた船が助けに来て、その船にのって帰ってきたんだ」
僕はまだ眠り足りなくておじいちゃんがしゃべっている途中からまぶたを閉じていた。そしてそのまま僕は眠った。