【夜勤マニュアル】午前三時、フロントの扉が四回ノックされたら――耳を塞いで朝を待て
今でも思い出すと手が震えるし、思い出すこと自体が怖い。
でも、どうしても誰かに聞いてほしくて、ここに書き込みました。
信じるか信じないかは、読んでくれた皆さんに任せます。
これは、俺が先月までやっていたホテルの夜勤バイトで体験した話です。
◇
そのホテルは、県境の国道沿いにひっそりと佇む、お世辞にも綺麗とは言えないビジネスホテルだった。
急な出費が重なって金に困っていた俺は、時給の良さだけに釣られて夜勤の求人に飛びついた。
まともな研修はなかった。
前任者のベテランバイトが「一身上の都合」とかで急に飛んだらしく、初日から俺一人のワンオペ夜勤。社員は「何かあったら内線して」と言い残し、夕方には奥の仮眠室へ引っ込んでしまった。
外は、バケツをひっくり返したような激しい豪雨だった。
フロントのガラス扉を激しく叩く雨音と、ロビーの古いLED照明が発する、かすかな「ジー……」という低音。
深夜のホテルという閉鎖空間は、思った以上に孤独で、不気味だった。
深夜2時半。
やることがなくなり、フロントの裏手にあるバックオフィス(事務室)のデスクで暇を潰していた俺は、ふと、デスクの隅に置かれた一冊のノートに目を留めた。
薄くなった赤色が表紙の大学ノート。
表紙には、油性ペンで大きく『夜勤引き継ぎノート』と書かれている。
前任者たちが残した業務連絡の数々。
大半は「〇号室の電球交換」「自販機の釣り銭切れ」といった退屈な内容だったが、最後のページを開いたとき、俺の指が止まった。
そこだけ、明らかに異質だった。
ページ全体を埋め尽くすように、筆圧の強い、殴り書きのような文字が並んでいた。
タイトルにはこうあった。
『午前三時以降のノックに関する注意』
悪質なイタズラか、あるいは前任者の頭がおかしくなったのかと思った。
そこには、以下のような「マニュアル」が書き連ねられていたのだ。
> 【緊急夜勤マニュアル】
> 午前三時を過ぎたら、正面ロビーのガラス扉の自動電源を切ること。
> 以降、扉を叩く「ノックの音」が聞こえた場合、必ずその【回数】を数えること。
> ・3回(トントン、トン)
> 通常の客です。鍵を開けてチェックインの手続きを行ってください。
> ・4回
> この世の者ではありません。
> カウンターの下など、外から見えない位置に隠れ、絶対に居ないフリ(無視)を突き通してください。
> ・5回以上(連打)
> 手遅れです。
> すぐにバックオフィスへ逃げ込み、内鍵をかけ、耳を塞いで朝を待ってください。
> ※数を数え間違えるな。奴らは試してくる。
ページの下部には、油性ペンが何度も往復したせいで裏まで滲んだ、太い文字の追記があった。
『間違えるな。絶対に数を数えろ』
「はは、なんだこれ。オカルトスレの見すぎだろ、前任者」
俺は鼻で笑った。
急にバイトを辞めたというベテランの顔を思い浮かべる。きっとワンオペのストレスで精神をやられてしまったのだろう。そう思い込もうとした。
だが、チクタクと響く壁掛け時計の音が、やけに大きく耳に障り始めていた。
午前3時。
マニュアルに従ったわけではない。ただ、雨風が強くなってきたので、俺はなんとなく正面自動ドアの電源をオフにした。ガラス扉は完全にロックされ、手動でしか開かなくなる。
それから、数分が経った頃だった。
激しい雨音の隙間を縫って、その「音」は聞こえてきた。
――トントン、トン。
心臓がドクンと跳ねた。
正確に、3回。
俺はゴクリと唾を飲み込み、バックオフィスからフロントのカウンターへ進み出た。
ガラス扉の向こう、豪雨の中に、ずぶ濡れのスーツを着た男が立っていた。頭を下げ、申し訳なさそうにこちらを見ている。
人間だ。普通の客だ。
マニュアル通り、3回は人間。
安堵が全身を駆け巡り、俺は鍵を開けて男を中に入れた。
「いやあ、申し訳ない。近くで車が故障しちまって、スマホも圏外だし、参りましたよ」
男はガタガタと震えながら財布を出した。俺は手慣れた手つきでチェックインを済ませ、3階の部屋の鍵を渡した。
「ごゆっくりどうぞ」
エレベーターに乗り込む男の後ろ姿を見送り、俺は深くため息をついた。
「なんだ、やっぱりただの取り越し苦労か」
自分の臆病さが急に恥ずかしくなった。引き継ぎノートの狂ったマニュアルなんて、ただの悪質な嫌がらせに決まっている。
そう確信し、バックオフィスに戻ろうと踵を返した、その瞬間だった。
背後のガラス扉から、再び雨音を切り裂くような、硬い音が響いた。
――トントントントン。
足が、床に張り付いたように動かなくなった。
今のは、何回だ?
頭の中で、自動的にリプレイされる。
ト、ト、ト、ト。
4回。
ゆっくりと、首だけを後ろへ振り返る。
自動ドアのガラスの向こう。
街灯の逆光の中に、影が張り付いていた。
人間にしては、あまりにも首が細長い。
その長い首が、あり得ない直角の角度に折れ曲がり、融解した顔のような部位をガラスに擦り付けながら、じっと中を覗き込んでいた。
呼吸の仕方を忘れたかと思った。
トントントントン。
頭の中で、その4回という数字が凶器のようにリフレインする。
マニュアルの指示が、パニックを起こしかけた脳裏に強制的に割り込んできた。
『4回:この世の者ではない。カウンターの下など、外から見えない位置に隠れ、絶対に居ないフリ(無視)を突き通してください』
俺は音を立てないように、這いつくばるようにしてフロントカウンターの下へ滑り込んだ。
冷たい床に顔を押し付け、両手で口を塞ぐ。
自分の荒い息の音さえ、外の「それ」に聞こえてしまうのではないかと恐怖した。
外からは激しい雨の音。
そして――。
――トントントントン。
また4回。ガラスが微かに震える音がする。
すぐそこだ。カウンターを挟んで、わずか数メートルの場所に、あの直角に首の折れたナニカがいる。
――トントントントン。
さらに4回。
頼む、行ってくれ。どっかに行ってくれ。
心臓が肋骨を突き破らんばかりにドクドクと暴れ狂う。
……静寂。
いや、雨の音はしている。だが、ノックの音が止んだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。数分、あるいは数十分かもしれない。
俺は恐る恐る、カウンターの端からロビーの様子を覗き見た。
街灯の逆光が差し込むガラス扉。
そこには、もう誰もいなかった。あの不自然に細長い影は、どこにも見当たらない。
「やり過ごした……?」
全身からどっと嫌な汗が噴き出した。
生き延びたという強烈な安堵感で、膝がガタガタと震える。
俺は這うようにしてフロントを離れ、バックオフィス(事務室)へと駆け込んだ。
厚みのある木製のドアを勢いよく閉め、すぐさま内鍵をガチャリとロックする。
ここは壁に囲まれた完全な密室だ。外からの視線も通らない。
事務イスに深く腰掛け、両手で顔を覆って何度も深く息を吐き出した。
終わった。なんとか生き残ったんだ。
そう思った、まさにその瞬間だった。
――トントントントントン――ッ!!!
鼓膜が破れんばかりの、猛烈な連打。
悲鳴すら出なかった。
その音は、遠いロビーから聞こえたのではなかった。
今さっき俺が内鍵をかけた、目の前の「バックオフィスのドア」から響いていた。
俺の、わずか数十センチ真後ろから。
「ひっ……あ、ああ……!」
脳が理解を拒絶する。
なぜだ。自動ドアの鍵は閉まっていたはずだ。4回のノックを無視して、奴は諦めて立ち去ったはずだ。
その時、引き継ぎノートの最後の一行がフラッシュバックした。
『※数を数え間違えるな。奴らは試してくる』
理解してしまった。
奴らは最初から、鍵や壁なんて関係なく、建物の中に侵入していたのだ。
ロビーのガラスを叩いた4回のノックは、ただのフェイント。
俺がどこに隠れ、どこへ逃げ込むか、音に対する人間の「反応」を試して、居場所を特定するための罠だったんだ。
ガタガタと、バックオフィスのドアが激しく震える。
5回どころではない、何十回もの爪で引っ掻くような、肉塊がぶつかるような湿ったノック音が響き渡る。
木製のドアが内側にミシミシと歪んでいく。
『5回以上(連打):手遅れです。すぐにバックオフィスへ逃げ込み、内鍵をかけ、耳を塞いで朝を待ってください』
手遅れ。マニュアルにはそう書いてあった。
でも、やるしかない。耳を塞ぐしか生き残る道はない。
俺は震える手でポケットからスマホを取り出し、ワイヤレスイヤホンを両耳へ狂ったようにねじ込んだ。
ノイズキャンセリング機能をオンにし、音量を最大まで上げて、激しいロック音楽を再生する。
世界から、一瞬で音が消えた。
激しいドラムとギターの音が鼓膜を支配し、ドアを叩くあの悍ましい音は一切聞こえなくなった。
俺はデスクの上の引き継ぎノートを抱え込み、床にうずくまって目を固く閉じた。
ドアの微かな振動が背中に伝わってくるが、絶対に振り返らない。見ない。聞かない。
朝になれば消える。朝になれば、光が差せば助かるはずだ。
ひたすら神に祈りながら、俺はただ朝を待った。
◇
スマホのアラームが激しくバイブレーションした。
画面を見ると、午前6時。
恐る恐る目を開けると、ブラインドの隙間から、眩しいほどの朝の光が差し込んでいた。
外の豪雨は完全に止んでいた。
ドアの振動もない。
イヤホンを耳から外す。静まり返った事務室には、エアコンの微かな風の音だけが響いていた。
「助かっ……た?」
俺は一歩一歩、慎重にドアを開けてロビーへ出た。誰もいない。
あの首の折れた影も、どこにもいなかった。
俺はそのまま、出勤してきた社員に「体調不良」とだけ告げて、荷物をまとめてホテルを飛び出した。
バイトは翌日、電話で辞めると伝えた。給料なんてどうでもよかった。二度とあの場所に関わりたくなかった。
だから、俺は今、こうして安全な場所で生きてネットに書き込めています。
あの恐怖の夜から、もう一ヶ月が経ちました。
無職にはなりましたが、五体満足で生きている。
普通の怪談なら、ここで「あー怖かった」で終わるはずなんです。
でも、違うんです。
助かったわけじゃなかった。
昨日、荷物を整理していたら、あの夜、パニックの中で無意識にバッグに放り込んで持ち帰ってしまっていた『夜勤引き継ぎノート』が出てきたんです。
パラパラとめくっているうちに、俺は気づきました。
最後のマニュアルのページ。その次のページが、不自然に破り取られていたことに。
ページの根元に残った僅かな紙切れに、数行だけ、前任者のものと思われる文字が残っていました。
俺はそれを読んで、凍りつきました。
そこには、俺が読まなかったマニュアルの「本当の続き」が書かれていたんです。
切り取られた断片に残されていたのは、こんな内容でした。
> 5回以上の連打が聞こえた時点で、怪異の『マーク』は完了している。
> 耳を塞いでも無駄だ。その日のうちは助かっても、数日、あるいは数ヶ月以内に必ず『中』に入られる。
> 助かる唯一の方法は、この体験の顛末――引き継ぎノートのルール、ノックの回数、その時に味わった恐怖の全てを、できるだけ詳細な文章にして、誰か『他の人』に読ませること。
> 読んだ人間がその怪異の存在を正しく認識した瞬間、マークはリセットされ、ノックの権利は次の読者へと移る。
> だから、俺は――
そこで記述は途切れていました。
前任者のベテランバイトが、なぜ急に辞めたのか。その理由が、すべて繋がってしまった。
あいつも、誰かに読ませたんだ。俺みたいに、何も知らない次の人間に。
奴らが次に現れるのは、決まって深夜の、雨の降る日だそうです。




