第9話 馬車事故と偶然の抱き寄せ
第9話 馬車事故と偶然の抱き寄せ
その日は、近郊村への視察が予定されていた。
形式上は「伯爵領の現状確認」
実態は「問題点の洗い出しと改善のための現地確認」。
そして、その同行者は当然のように――
「クラリス様、本日はよろしくお願いいたします!」
「ええ、よろしくお願いいたしますわ」
レオン・バルディエ。
最近では当たり前の光景になってきた、二人での外出。
けれど私の心は、以前のような冷静さを保てずにいた。
(第八話以降、自覚症状が悪化しています)
胸の奥で、何かが静かにざわめいている。
馬車へと乗り込む際、彼が自然に手を差し出した。
「どうぞ」
一瞬、ためらう。
だが視線を向けると、そこにあるのは困ったような、でも誠実な笑顔。
(……これくらいで動揺していては身がもちませんわ)
私はその手に、そっと指を乗せた。
「ありがとうございます」
「い、いえ……!」
その一瞬だけで、心臓の鼓動が速くなる。
(落ち着きなさい、クラリス。これは視察です)
馬車が動き出すと、いつものように報告書類の確認が始まった。
「こちらが村の水路使用状況です」
「先月より、少し悪化していますわね」
「はい……昨日現地の長とも話してきました」
会話は真面目で、至って公的。
だが馬車の揺れだけは、どうにもならない。
「……っ」
ごとり、と大きく揺れた瞬間、体が傾く。
「あっ……!」
「クラリス様!」
反射的に、腕が動いた。
支えられる感触。
肩に当たる温もり。
抱き寄せるような体勢。
「大丈夫ですか!?」
「え、ええ……驚いただけですわ」
だが問題はそこではなかった。
近すぎる。
あまりにも、近い。
馬車という密閉空間の中で、
互いの呼吸すら感じられるほどの距離。
「……」
「……」
一瞬、言葉が消える。
そして沈黙だけが、重く落ちる。
(これは……不可抗力、不可抗力です)
レオンは慌てたように距離を取ろうとするが、馬車の揺れでそれもままならない。
「す、すみません、こういうつもりでは……!」
「わかっていますわ」
(わかっています、けれど……)
手が、まだ腰に触れていることに気づいた。
「……レオン様」
「は、はい!」
「あの……もう、大丈夫です」
「い、いえ、でも……!」
「大丈夫です、と申しました」
そう言うと、ようやく彼は離れてくれた。
だが今度は、妙な名残だけが残った。
(……不意打ちすぎます)
馬車は悪路へ差しかかる。
また別の揺れ。
「うっ」
今度は私の方が反射的に、彼の袖を掴んでしまった。
「レオン様……!」
「だ、大丈夫です! 掴んでください!」
その言葉が、妙に安心感を伴っていた。
(頼ってしまえる相手……というのは、こういう感覚でしょうか)
それからしばらくの間、
私たちは静かに揺れに身を任せていた。
窓から差し込む陽光。
遠くに見える畑の緑。
そして、すぐ隣の男の気配。
「……クラリス様」
「なんですの?」
「その……もし、不愉快でしたら……言ってください」
「何がですか?」
「……さきほどのことです」
少しだけ視線を逸らした横顔。
「いえ、仕方のないことですわ」
そう答えながらも、胸の奥がわずかに熱を帯びている。
「でも……ご迷惑ではないかと……」
「迷惑なら、はっきりそう申しますわ」
そう言うと、彼はほっとしたように息を吐いた。
「よかった……」
その安堵の声が、なんだか妙にくすぐったい。
やがて村へ到着。
視察自体は滞りなく進み、
水路の不具合も原因を把握することができた。
だが、その日の記憶で最も強く残ったのは――
「……クラリス様」
帰路の馬車の中で、彼がふと呟いた言葉。
「最近……その、僕は……」
「はい?」
少し言い淀みながら、続ける。
「一緒にいると、落ち着くのですが……緊張もしています」
「それは……矛盾していますわね」
「はい。でも本当です」
どこか苦笑するような笑顔。
「距離が近づくほど……大切にしなければと、思うようになって……」
私は思わず言葉を失った。
(……それは、ずるいですわ)
「クラリス様も……そうでしょうか」
一瞬、言葉に詰まる。
けれど誤魔化すのは、きっと正しくない。
「……わかりません」
正直な答えだった。
「ですが、少なくとも……以前より、意識はしております」
彼の目が少しだけ見開かれる。
「それだけで……十分です」
馬車の揺れが、やけにゆるやかに感じられた。
(距離というのは、こうして縮まるのですね)
すでに「友人」では曖昧で、
「恋人」と呼ぶには早すぎる。
けれど確実に、
二人の間には特別な何かが芽生え始めていた。
私はふと窓の外に目を向けた。
柔らかな夕焼けが、空を染めている。
「……静かですね」
「はい」
「このまま、もう少しだけ……揺られていたいですわね」
ぽつりとこぼした本音に、レオンは少し驚いたようだった。
「……はい。僕もです」
その声に、少しだけ笑みが浮かぶ。
こうして、私たちの距離はまたひとつ縮まった。
偶然の抱き寄せ。
避けられなかった接触。
消えなかった熱。
それはもう「事故」ではなく、
きっと、運命に近い何かだったのだと思う。
(……困った方ですわ、本当に)
けれどその困りごとが、
どこか心地よく感じられるようになっている自分を、
私はもう否定しなかった。
――こうして
“ただの同乗者”だった関係は、
確実に「特別」へと形を変えていった。
この作品とは別に、もうひとつ「悪役令嬢」系のラブコメも書いています。
タイトルは
『悪役令嬢になりたいのに、全部善行扱いされてしまうんですが!?』
「悪役をやりたい令嬢」が、頑張れば頑張るほど周囲から褒められてしまう、
誤解まみれの転生コメディです。
クラリス達の“格差婚ラブコメ”とはまた違った方向で
「こじらせた想い」が暴走していきますので、
気になった方はそちらも覗いていただけると嬉しいです。




