第5話 噂が社交界を制圧しています
第5話 噂が社交界を制圧しています
エーデルシュタイン伯爵邸の朝は、いつも静かで整然としている。
……はずだったのだが。
「お嬢様、大変でございます」
メイドのミレイが、珍しく慌ただしい足取りでやってきた。
「どうしましたの?」
「社交界の噂が……とんでもない方向へ……」
(嫌な予感しかしません)
私は紅茶を一口飲んでから尋ねる。
「具体的には?」
「“婚約破棄された伯爵令嬢を救った勇敢なる男爵家三男”として、
レオン・バルディエ様が大変な人気を……」
「もう一度どうぞ」
「“格差愛の象徴”として女性方の話題の中心に……」
(やめてください本当に)
ミレイは真顔のまま続ける。
「さらに、お嬢様との関係については
“悲劇の令嬢を救う純愛物語”
“下克上ラブロマンス”
“身分を越えた運命の恋”
として盛り上がっております」
(えええええぇ……)
私は静かにカップを置いた。
「私、まだ何も決めてませんわよね」
「皆様、すでに“準婚約者”扱いを……」
(既成事実怖すぎませんか)
その日の午後、久しぶりに訪れた学園でも、状況は同じだった。
廊下に入った瞬間――視線が集まる。
「……あの伯爵令嬢なら、仕方ありませんわね」
「でも相手が男爵三男だなんて……」
「噂では、かなり一途らしいですよ」
(耳が痛い)
しかも、その中心人物本人はというと――
「ク、クラリス様!!」
ものすごく緊張した声と共に、レオンが走ってきた。
「おはようございます!」
「え、ええ……おはようございます」
(なぜそんな焦っているのですか)
彼の後ろには、数人の令嬢たちがひそひそ話をしながら視線を送っている。
「昨日はありがとうございました! 焼き菓子、とても美味しかったです!!」
「それは何よりですわ」
「また御礼を申し上げたく――」
「落ち着いてください、周囲の視線が……」
「はっ……!」
レオンが周囲を見渡し、固まる。
「う、噂、広がっているようで……」
「ええ、とても」
(あなたの人気が急上昇中ですもの)
社交サロンでは、さらに露骨だった。
「クラリス様、あのバルディエ様とはどこまで……?」
「“どこまで”とは何の話でしょうか」
「もう一緒にお出かけされたと聞いておりますが」
「視察ですわ」
「つまり“視察デート”ですね」
(言い方)
私は淡々と答える。
「友人としての交流です」
「まあ、誠実でございますこと!」
(勝手に評価を固めないでください)
その頃――
別棟の貴賓室では。
「……本当に、クラリスはあの男爵の三男と?」
王太子アルフォンスが、苛立ちを隠しきれない様子で側近に問うていた。
「はい。すでに街でも話題になっております」
「冗談だろう……」
彼は拳を握りしめる。
「俺があれほど支えてやったというのに……」
(支えていた記憶はございませんわ)
学園の中庭。
私は静かな場所を求めて歩いていた。
すると、少し離れたところでレオンが数人の令嬢に囲まれているのが見えた。
「バルディエ様、昨日の勇姿、とても素敵でしたわ」
「い、いえ……」
「クラリス様を守られたそうですね?」
「ま、守ったというほどでは……」
(守った、ですか……)
心の奥が、ほんの少しだけざわつく。
(私は、自分で立てますのに)
それなのに、レオンは助けを求めるようにこちらを見た。
「ク、クラリス様……」
「……どうなさいましたの」
「えっと……その……」
「レオン様、人気者ですわね」
「と、とんでもないです!!」
焦る姿に、思わず微笑んでしまう。
「少し、お話しできますか?」
「は、はい!」
令嬢たちの視線を背中に浴びつつ、少し距離を置いた場所へ移動する。
「……お疲れ様ですわ」
「昨日からずっとこんな感じで……」
(それは噂のせいでしょうね)
「迷惑ではありませんか?」
「い、いえ……ただ……」
「ただ?」
「クラリス様に誤解されるのが一番怖いです……」
(……誤解?)
その言葉に、私の胸の奥が少しだけ温かくなる。
「私は、誤解しておりませんわ」
「……本当ですか」
「ええ」
静かに頷くと、レオンは心底安心したような表情をした。
(そんなにも不安だったのですね)
「ですが」
私は一度だけ視線を逸らし。
「この噂が独り歩きしているのは、少々困りものですわ」
「申し訳ありません……!」
「謝る必要はありません」
(むしろ原因は半分私です)
空に流れる雲を見つめながら、私はぽつりと呟いた。
「……少し、落ち着く時間が必要ですわね」
「はい……」
「正真正銘、“友人として”の距離を、しっかり築きましょう」
「……はい」
尊そうに頷く。
(なぜそこで感動しているのですか)
それでも。
誰よりも不器用で、でも誰よりも誠実なその姿に、
私はほんの少しだけ安堵していた。
(この人なら、騒がしい噂よりも信じられます)
そしてその日の夜。
王城では、王太子が静かに呟いていた。
「……クラリス」
その名前を、悔しそうに。
――こうして噂は社交界を席巻し、
静かだったはずの恋の始まりに、大きく波を立て始めたのだった。
この作品とは別に、もうひとつ「悪役令嬢」系のラブコメも書いています。
タイトルは
『悪役令嬢になりたいのに、全部善行扱いされてしまうんですが!?』
「悪役をやりたい令嬢」が、頑張れば頑張るほど周囲から褒められてしまう、
誤解まみれの転生コメディです。
クラリス達の“格差婚ラブコメ”とはまた違った方向で
「こじらせた想い」が暴走していきますので、
気になった方はそちらも覗いていただけると嬉しいです。




