第18話 不意打ちのキス
第18話 不意打ちのキス
雨は、いつの間にか止んでいた。
窓の外には、洗われたように澄んだ空。
しっとりと濡れた庭の緑が、淡く光を反射している。
「……静かになりましたわね」
「はい。自然も落ち着いたようです」
そう答えるレオンの声も、どこか柔らかい。
先ほどから、部屋の空気が少しだけ違っていた。
重くもなく、軽すぎもせず――ただ、妙に近い。
(距離が……)
視線を上げると、
いつの間にかレオンが少しだけ前に出ている。
「クラリス様」
「はい」
「……先ほどのお言葉、覚えておりますか」
「どの言葉ですの」
「“隣にいる許可”のことです」
「ええ」
私は小さく頷いた。
「許可は出しましたわね」
「では、その範囲内で……少しだけ、近づいてもよろしいですか」
(確認を取るのは偉いですが、なぜこうも真剣なのでしょう)
「……構いませんわ」
その瞬間、彼の足が一歩、静かに近づいた。
距離は、ほんのわずか。
手を伸ばせば触れてしまうほど。
(……心臓が、うるさい)
「レオン様」
「はい」
「なぜそんなに緊張されているのですか」
「今から、人生の分岐点に立つ気がしているからです」
「大げさですわ」
「いいえ、正確です」
そう言って、彼は深呼吸をひとつ。
そして。
「……クラリス様」
「はい」
「先日は告白だけで終わってしまいましたが」
視線は、真っ直ぐ私を捉えている。
「今日は、衝動を制御しきれない可能性があります」
(事前報告は不要です)
「どういう意味ですか」
「このままお話を続けると……」
彼の声が、少しだけ低くなる。
「触れたくなるかもしれません」
沈黙。
(ああ、この人は)
逃げ道を作らず、
でも強引でもなく。
ただ、正直に。
「……それは困りますわね」
私はわざと、少しだけ意地悪く言った。
「はい。困ります」
「ですが」
レオンは続けた。
「どうしても我慢ならなくなった場合、
逃げていただいて構いません」
「逃げたらどうなさいますか」
「静かに反省します」
(その方向でいいのですか)
私は、苦笑をこぼした。
「では……逃げられなかった場合は?」
「……」
ほんの一瞬、彼の目が揺れる。
「……それは、受け入れていただけたと解釈します」
空気が、止まった。
(なぜこんなにも、素直なのでしょう)
心臓の音が聞こえるほど、静かだった。
そして私は、
逃げなかった。
ただ、視線を逸らさずに、そこに立っていた。
その数秒の沈黙のあと。
「……失礼します」
小さく、そう囁いて。
彼は、そっと顔を近づけた。
ほんの一瞬。
額でも、頬でもなく――
唇に、やわらかく、触れるだけ。
短く、静かな、
それでいて確かな感触。
「……」
時間が止まったようだった。
次の瞬間、レオンが勢いよく後退した。
「す、すみません!!
衝動です!! ですが不可抗力です!!
地球の引力も関与しております!!」
「異世界です」
「そうでした!!」
(そこではありません)
彼は顔を真っ赤にしながら、必死に説明を続ける。
「ですが決して軽率な意味ではなく!!
感情の高まりと信頼の結果であり!!
倫理的にもぎりぎり安全圏と判断し――」
「レオン様」
「はいっ!!」
「……静かになさい」
「……はい」
ようやく沈黙が戻る。
私は自分の唇に、そっと指を当てた。
(……驚きましたが)
嫌ではなかった。
むしろ。
(……少し、温かい)
「……あの」
恐る恐る、彼が声を出す。
「怒っておられますか」
「いいえ」
「では……」
「混乱しているだけですわ」
正直な気持ちだった。
「……すみません」
「謝らなくて結構です」
少し間を置いてから、続ける。
「許可は出しませんでしたが……
拒否もしておりません」
「……!」
「それが、答えですわ」
彼は言葉を失い、
ただ静かに頷いた。
「……理解いたしました」
その声は、いつになく落ち着いていた。
「この距離を、大切にいたします」
「ええ」
私たちは再び、少しだけ距離を取った。
けれど。
先ほどよりも、
その距離は“近い”と感じてしまう。
「クラリス様」
「何ですの」
「今のは……」
「はい」
「夢ではございませんよね」
「ええ」
「では私は、今から数日は浮遊可能です」
「地に足をつけてください」
「努力します!!」
(結局そこなのですね)
私は、思わず小さく笑ってしまった。
それにつられるように、レオンも照れ笑いを浮かべる。
雨上がりの光が、部屋をやさしく照らす。
そして私は思う。
あの一瞬が、
きっとこの物語の節目なのだと。
不意打ちで、
不器用で、
それでも――
確かに、心が動いた瞬間。




