第17話 雨の日の密室
第17話 雨の日の密室
朝から、空はどんよりとしていた。
庭に面した窓の向こうで、ぽつり、ぽつりと雫が葉を叩く音がする。
やがてその音は一定のリズムに変わり、静かな雨へと姿を変えていった。
「……今日は外出は控えましょうか」
私は紅茶を見つめながら呟いた。
「はい。滑って転倒するリスクが増大します」
向かいの椅子で、レオンが真剣にうなずく。
「では本日は“室内安全運用日”としましょう」
「勝手に名称を決めないでください」
とは言いつつも、この空気は嫌いではなかった。
ほ
静かな午後。
雨の音。
そして、ふたりきり。
(……不思議ですわね)
かつては、誰かと二人で過ごす時間など「義務」に近かった。
けれど今は、なぜか落ち着く。
「クラリス様」
「何ですの」
「お身体の方は、もう大丈夫ですか」
「ええ、すっかり」
「本当によかったです……」
ほっとしたように、彼は息を吐いた。
(この人は心配役が板についていますわね)
沈黙が流れる。
だが、居心地の悪い沈黙ではない。
ただ、雨の音に溶け込むような静けさ。
「……こうして静かな時間も、悪くありませんね」
「そうですわね」
「いつもは騒がしくしてしまうので……」
「自覚はあるのですね」
「少しだけ」
「ほんの少しではありません」
「努力します」
(結局そこに戻るのですね)
私はふっと息を吐き、窓の外へ目を向けた。
「雨の日は嫌いではありませんの」
「どうしてですか」
「世界が少しだけ、優しくなる気がして」
「……素敵なお考えです」
「大げさですわ」
そう言いつつ、
なぜだか頬が少しだけ熱い。
「レオン様」
「はい」
「あなたは、雨の日はお好きですか」
「……はい」
「理由は?」
少しだけ間。
「こうして、あなたと静かに話せるからです」
(……またさらっと)
胸の奥が、小さく揺れた。
「……恥ずかしくありませんの」
「正直者でいたいだけです」
「それが一番危険です」
「承知の上です」
(承知して言うのはずるいですわね)
ふと、雷が遠くで鳴った。
「……っ」
音は小さい。だが、私の肩が反射的に少しだけすくむ。
それにすぐ気づいたらしい。
「……驚かれましたか」
「少しだけですわ」
「大丈夫です」
そう言って、レオンが立ち上がる。
「え……?」
「窓、閉めて参ります」
「感謝いたしますわ」
彼はカーテンを少し引き、窓を閉めた。
部屋の中の音が、さらに静かになる。
そして――自然と距離も近くなっていた。
「……」
気づけば、さきほどより近い位置に彼がいた。
(あれ……)
いつの間に。
「クラリス様」
「はい」
「寒くありませんか」
「大丈夫ですが……」
「無理はなさらないでください」
そう言って差し出されたのは、柔らかな膝掛け。
「……ありがとう」
肩にそっとかけられたその布と一緒に、
ほんのりと彼の温もりが残る。
(……近い)
意識してしまう。
だが、逃げたいとは思わなかった。
「……今日は、少しだけ違いますね」
「何がですの」
「いつもより……落ち着いてお話しできています」
「それは雨のおかげかもしれません」
「それとも……」
言葉を止めた彼が、少しだけ視線を落とした。
「……僕の、気持ちの変化でしょうか」
静かに放たれた言葉。
空気が、少しだけ甘くなる。
「僕は、あなたとこうしている時間が……とても好きです」
「……」
「ですが、今はそれ以上踏み込まずにいたいのです」
「どういう意味ですか」
「この距離を、大切にしたいからです」
笑顔は、いつもより柔らかくて、優しい。
(この人は……本当に)
静かな時間が、沸騰しないまま、温かいままで続いていく。
「クラリス様」
「はい」
「もし、不安になる日があれば……」
「……」
「隣にいる許可だけ、いただけますか」
私は少しだけ考え――
小さく頷いた。
「それくらいなら、許可いたします」
「光栄です」
ことさら大げさではなく、
穏やかな声だった。
雨の音はなおも続く。
そしてその音は、
私たちの沈黙をやさしく包み込む。
「……今日は、このまま過ごしましょうか」
「はい」
「読書でもいたしましょう」
「では、静かにお供いたします」
(静かに……? 確かに今日は静かですわね)
そう思った瞬間、彼が小さく付け加えた。
「たまに称賛はしてよろしいでしょうか」
「控えめにお願いいたします」
「努力します」
(やはりそこは努力なのですね)
私は思わず、くすりと笑った。
この静かで、穏やかな時間。
胸の奥に、そっと染み込んでいく。
雨の日の密室。
距離が縮む音は、雨よりも静かだった。
けれど。
確実に、心に届いていた。




