第13話 レオン、空気を読む努力をする
第13話 レオン、空気を読む努力をする
その日は、朝から嫌な予感がしていた。
正確に言えば――
“静かすぎるレオン”ほど信用ならないものはない。
「……」
現在、私は伯爵邸の応接室にいた。
いつもなら椅子に座るや否や「クラリス様は本日も麗しく――」と始まる男が、
今日は。
「……」
黙っている。
背筋が伸びすぎている。
姿勢が完璧すぎる。
呼吸すら規則的すぎる。
(これは何かを決意した顔ですわね)
「レオン様」
「はい」
「お具合でも?」
「いいえ。極めて正常です」
「ではなぜそんなに静かなのですか」
「今日は“空気を読む日”と決めました」
嫌な方向の宣言であった。
「昨日、クラリス様から“自然体で”とのお言葉を頂きましたので」
「覚えていたのですね」
「脳に刻印されております」
それは怖い。
「ですので本日は、
・過度な護衛
・過剰な称賛
・不用意な発言
これらを自主規制いたします」
(それはそれで極端ですね)
「普通で結構ですわ」
「普通に、ですね」
レオンは真剣な顔で頷き、三秒考えた。
「……クラリス様」
「はい」
「今日は……お日柄も良く……」
「天気予報を始める必要はありません」
「失礼しました」
一度咳払い。
「では改めまして……
“静かに、そっと、控えめに”護衛いたします」
「その宣言自体がうるさいのですが」
それでも彼は言った通り、本当に静かになった。
歩くときも一定距離を保ち、
視線も控えめ、声も小さめ。
だが問題が――
「……」
やけに、なんとも言えない圧を感じる。
(視線が痛い)
そっと横を見れば、
レオンが“読んだ空気”の結果、
完璧な半眼で私を警戒監視していた。
「何を見張っているのですか」
「空気です」
「空気は敵ではありません」
「空気の流れは感情の流れでもあります」
「無理に哲学にしないでください」
そこへ訪問客の伯爵夫人がやってくる。
「クラリス様、本日はご機嫌よう」
「ご機嫌よう」
ごく普通の挨拶。
だが、近づいてきた瞬間――
すっ。
レオンが、音もなく立ち位置を変更した。
「……?」
伯爵夫人も首を傾げる。
「ええと……」
「安全確保のため、少し距離を調整いたしました」
「私は殺気を放っていないと思うのだけど?」
「柔らかい殺気も存在します」
「ありません」
私は額を押さえた。
「レオン様、今日は“空気を読む日”では?」
「はい」
「その空気はどこで吸収しているのですか」
「クラリス様周辺一メートル圏です」
(読めていません)
結果、空気の読めなさはむしろ悪化していた。
庭を歩いていても。
「……」
距離三歩。
だが、タイミングが完璧すぎる。
私が止まると止まり、
振り向くと即直立。
(気配を消したつもりで気配が倍増しています)
「……あなたは、影にでもなりたいのですか」
「可能であれば喜んで」
「重さのある影ですね」
「努力します」
(だから何の努力をしているのですか)
極めつけは、紅茶の時間だった。
私がカップに手を伸ばすと――
スッ……
レオンが同時にカップの取っ手に手を添えた。
「なぜ同時に?」
「自然な流れを読んだ結果です」
「結果がかぶっています」
私と彼の指が触れる。
沈黙。
(……ち、近い)
慌てて手を引くと、レオンも勢いよく後退し――
「失礼しました!!
今のは完全に空気の読みすぎです!!」
「読みすぎて失敗しています」
顔を赤くしながら深々と頭を下げる。
「しかし……その、お手元が触れてしまったにも関わらず、
クラリス様が嫌そうでなかったことは非常に安心できました」
「なぜそこを分析しているのですか」
「確認が大事です」
(どこ方向に安心しているのでしょう)
私は小さくため息をついた。
「レオン様」
「はい」
「結論を申し上げます」
「はい!」
「あなたは“空気を読む努力”をしないほうが自然です」
「……!」
衝撃を受けた顔。
「で、では……」
「いつも通りで結構です」
少しだけ、笑って言った。
「あなたの失敗は、もう慣れました」
「それは……喜んでいいのでしょうか」
「多分、はい」
そう答えると、彼は少しだけ安心したように微笑んだ。
「ではこれからも、通常運転で参ります!!」
「通常運転も十分にうるさいです」
「最適化に努めます!!」
(結局改善しようとするのですね)
それでも。
改めて思う。
この方は――
空気よりも、心で動いているのだと。
だからたまに失敗して。
だから過剰で。
だから真っ直ぐで。
そして。
その姿が、
少しずつ愛おしくなっている自分がいる。
(これは完全に、巻き込まれていますわね)
私は密かにため息をつき、
それでもどこか柔らかく微笑んでしまった。




