第10話 それはもう友人ではありません
第10話 それはもう友人ではありません
馬車事故から数日。
私は自室の窓辺で紅茶を手にしながら、無意味に同じ景色を眺め続けていた。
(……落ち着きなさい、クラリス)
そう言い聞かせても、思考の中心にいる人物は一人しかいない。
レオン・バルディエ。
男爵家三男。
全力で誠実で、全力で空回りして、全力で距離感がおかしい男。
(どうしてこの方を思い浮かべると、ため息と一緒に微笑みが出るのかしら)
悩みながらも、頬が少し緩んでしまうことに気づき、私は小さく首を振った。
「クラリスお嬢様、レオン様がお見えです」
「……お通しください」
胸が、わずかに跳ねる。
扉の向こうから現れたレオンは、相変わらず真面目すぎるほど真面目な様子で深々と頭を下げた。
「ご機嫌よう、クラリス様」
「ご機嫌よう。今日もお元気そうですわね」
「はい! 心身ともに健康です!!」
(報告するようなことかしら)
書類を差し出しながら、少しだけ視線を泳がせた。
「本日は……先日の視察の続報を……」
「ありがとうございます」
受け取りながらも、つい彼の様子を観察してしまう。
(やはり少し緊張されていますわね)
「……何か、気になることでも?」
私の視線に気づいたのか、彼が戸惑ったように尋ねてきた。
「いえ。ただ、少しお疲れではありませんとの確認です」
「だ、大丈夫です!!
むしろ最近は極めて好調であります!!」
「なぜ軍人調なのですか」
「無意識です!」
(無意識でこれは危険ですわね)
私は小さく息を吐き、真面目な顔に戻った。
「レオン様」
「はい!」
「少し、真面目なお話をいたしましょう」
「し、承知いたしました!」
姿勢がさらに正される。
(そこまで構えなくてもよろしいのですが……)
「あなたと過ごす時間についてです」
「……っ」
露骨に緊張しているのがわかる。
「ここ最近、私はあなたを以前とは違う目で見るようになりました」
「え……?」
「落ち着きますのに、なぜか鼓動が速くなる。
安心しているはずなのに、構えてしまう」
視線を伏せながらも、言葉を続けた。
「これはもう……“友人”という呼び方では足りない気がしています」
沈黙。
それを破ったのは、かすかに震える声だった。
「……僕は、最初から特別でした」
顔を上げた彼の目は、驚くほど真剣で。
「軽い気持ちで近づいたことはありません」
「……」
「クラリス様を女性として、ずっとお慕いしています」
室内の空気が一瞬止まったようだった。
(なんて、まっすぐな)
私は小さく息を吐き、微笑んだ。
「では……その想いは無駄ではなかったと言って差し上げますわ」
「……っ!」
「私はまだ答えを出せません」
そう前置きして、続ける。
「けれど、あなたを失う未来を想像するのは……とても嫌です」
「クラリス様……」
「だから」
私は少しだけ視線を上げた。
「この曖昧な関係、続けていただけますか?」
「喜んで!!」
即答。反射。爆音。
「全力でこの距離を守り、誠実に、慎重に、慎重に、さらに慎重に……」
「レオン様」
「はい!」
「落ち着いてください」
「はい!!!」
(落ち着いていません)
「そのように構えられると、私が緊張いたします」
「で、では、自然体で……?」
「ええ、その方が助かりますわ」
レオンは深く頷き、
「わかりました。自然体でいきます」
一呼吸置いて、
「クラリス様、今日も輝いておられます!!」
「自然体どこへ行きました」
「失敗しました!!」
(早すぎますわ)
私は思わず吹き出してしまった。
「……ふふ」
彼が固まる。
「今……笑われましたね……?」
「ええ」
「……尊いです」
「冷静になってください」
「努力します!!」
(また努力方向が違います)
視線を逸らしつつも、口元に残る笑みは消えなかった。
(……やはり私は、この方といると調子が狂います)
けれど、その狂い方が、どこか心地いい。
「レオン様」
「はい」
「それはもう、友人ではありません」
「……!」
「ですが、まだ恋人とも言えませんので」
「で、では……」
少し考えてから、私は淡々と告げた。
「“距離感に悩む特別枠”ということで」
「特別枠!!」
「そこは感動するところではありません」
「一生大切にします!!」
「軽くで結構です」
「軽く全力で!!」
(結局全力)
私は思わずため息をつき――
けれど、どこか楽しそうに笑ってしまった。
婚約破棄という絶望の先に、
こんなにも騒がしくて、温かくて、落ち着かない日常が待っているなんて。
(……人生とは、不思議ですわね)
静かに手元のカップを持ち上げながら、私は小さく呟いた。
「ではこれからも、よろしくお願いいたしますわ」
「はい!! 僕の人生をかけて――」
「誇張しすぎです」
「では現実的に全力で!!」
(それでも全力)
こうして私の日常は、
少し賑やかで、少し甘くて、
確実に“特別なもの”へと変わりつつあった。
――それはもう友人ではありません。
けれど、確かに心が惹かれ始めている。
そんな予感を、私はもう否定しなかった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
『婚約破棄された伯爵令嬢は、男爵家三男の全力愛に困っています』
――第1部「バグった求婚と距離感迷子編」、これにて完結です。
婚約破棄という人生のどん底から始まったクラリスの物語は、
気づけば“距離感がおかしい男爵家三男”という想定外すぎる存在に振り回されながらも、
少しずつ笑顔を取り戻していく物語になりました。
そして何より、
真面目すぎて空回りし、全力すぎて方向を見失い、
それでもひたすら誠実なレオンという男が、
どこまで皆さまの心を騒がせることができたでしょうか。
「友人ではない、でもまだ恋人でもない」
そんなもどかしくて、甘くて、ちょっと騒がしい関係のスタートラインに
二人はようやく並び立ちました。
ここから先は――
溺愛、誤解、嫉妬、過剰護衛、社交界の大混乱。
そして、クラリスの心がどこへ向かうのか。
第2部では
さらにラブコメ度を加速させつつ、
“本当の恋”へと向かうふたりの物語をお届けします。
「もう距離感迷子でいい」
そう思ってしまうほど愛おしい、
この不器用な二人の行く末を、ぜひ最後まで見守っていただけましたら幸いです。
引き続き
クラリスとレオンの物語を、
どうぞよろしくお願いいたします。
――そして次回。
夜会で彼は、さらにやらかします。
第2部「恋と誤解と溺愛警報編」
まもなく開幕です。
またお会いしましょう。




