第8話「港の夜影」
五年前。
セレスティア王国とヴァルガード帝国――二つの島国は、大陸移動によって衝突寸前という前代未聞の危機に直面していた。
戦争か、国土消滅か――その瀬戸際で、ただ一人“夢の図書館”で出会った白髪の青年から「世界最強のAI《Air on G》」を託された少女がいた。
彼女の名は澪。
引きこもりの女子高生だった彼女は、仲間や市井の人々との交流、そしてAIとの奇妙な信頼関係を経て、数々の妨害や裏切りを乗り越え、二国の衝突を阻止した。
あの日の潮の匂いも、青年が消える直前に見せた微笑も、今も彼女の胸に焼き付いている。
――そして現在。
22歳となった澪は、セレスティア政府の科学技術省に勤務し、新たな国家AI戦略プロジェクト《Affectis》に関わっている。
それは感情を読み取り、行動を予測する感生AI――防衛にも外交にも使えるが、使い方次第では危険な兵器ともなり得る代物だった。
海底トンネルの完成が近づき、両国の交流が加速する一方で、見えない火種が静かに燻り始める。
そして再び――潮の匂いが、濃くなる時が迫っていた。
本作は、前作『引きこもり女子高生、夢の図書館で手に入れたのは世界最強のAIでした』の五年後を舞台にした、完全続編である。
あの時の“選択”がもたらした未来で、澪は再び運命の渦に巻き込まれていく。
港町の夜は、昼間の喧騒が嘘みたいに息をひそめていた。
潮の匂いが濃く、遠くでブイの鎖がカランと鳴る。
街灯の光が水面に揺れて、まるで暗い海の底から、白い指先がゆらゆらと手招きしているみたいにきらめいていた。
澪は、斜めがけのショルダーバッグに忍ばせたAffectisモバイル版の電源を入れる。
バッグの前面ポケットに収めた本体から、レンズだけをジッパーの隙間から外に覗かせ、小型タブレットの画面は胸元の位置で私だけが見下ろせる角度。
外から見れば、ただスマホをチェックしている人間にしか見えない。
夜間の港は本来、関係者以外立ち入り禁止――けれど今夜は、どうしても確かめたいことがあった。
――昼間の海底トンネル視察で引っかかった、あの視線の動き。
ユナは監視カメラや非常口、配線ダクトばかりを追っていた。
偶然か? それとも……。
まだ答えは分からない。だがもしそれが“現場を詳しく知る理由”から来るのなら、その手がかりは夜の港にも現れるはずだと感じていた。
――小さなプロペラ音。
耳に入った瞬間、足が止まる。
港の奥、岸壁の上。夜空に浮かぶ黒い影――プロペラの回転灯が赤く瞬いた。ドローン。
そして、その操縦者は――ビンゴ。
「……ユナ?」
呼びかけに、彼女は小さく肩を揺らし、振り返る。
港の灯りが琥珀色の瞳を照らし、ほんの一瞬だけ素の驚きがのぞく。
でも次の瞬間には、あの“完璧な笑顔”が形を整えていた。
「あ、澪さん。こんばんは」
「こんな時間に、何してるの?」
「夜景の撮影です。港の灯りが海に映るの、すごく綺麗なんですよ」
柔らかな声。言葉も自然。……けれど、それはあくまで表面。
Affectisの数値がじわりと赤へ傾く。
【虚偽確率:上昇】
【心拍数:上昇】
(……嘘、だね)
ユナは、ここで撮影をやめたら逆に怪しまれると踏んだのか、親指を軽く動かし、ドローンを再び旋回させる。
その横顔は落ち着いて見える――けれど、Affectisは浅い呼吸の乱れと、一瞬だけ皮膚温度が下がる反応を逃さない。
静かな動揺が、データの隙間で脈打っていた。
足元には、ゲーム機のコントローラーほどの送信機と、折りたたみ式のワイドモニター。
モニターは自立スタンドで地面に置かれ、少し上向きに傾けられているため、後ろからでも覗き込める。
私は一歩だけ距離を詰め、視界の端で映像を捉えた。
一瞬――港外れの暗がりに立つコンクリート製の塔が映った。
窓も看板もない、無骨な箱型。港の人間なら誰でも知っている、海底トンネルに新鮮な空気を送り込む送気施設だ。
長いトンネルは二酸化炭素がこもりやすく、送気・排気設備がなければ、排ガスや湿気で数分も持たない。
つまり、この施設はトンネルの“呼吸器官”――命綱。
だがユナのドローンは、その施設の根元や壁面を何度も角度を変えながら撮影していた。
まるで夜景の飾りではなく、その細部を確かめるためのように。
(……どうして、あんな地味な施設を?)
灯台や船の光じゃなく、港の端の暗がり。
しかもズームが同じ壁面を何度も捉える。
理由の見えない執着が、私の胸の奥で警鐘を打ち鳴らす。
「ふうん……綺麗だね」
追及を飲み込み、軽く笑ってみせる。
(まだ……早い)
ユナは笑顔のままドローンを着陸させ、バッテリーを抜いた。
港には、波が寄せては返す音だけが残る。
その背中を見つめながら、私はAffectisのログを保存した。
脳裏に浮かぶのは、これまで集めた断片たち。
——兄の命を奪った海底トンネル崩落事故。
——まるで構造の弱点を探すかのような送風施設の執拗な撮影。
——一切の隙を見せない、完璧すぎる社交性。
——そして、今も画面に残るAffectisの警告。
点と点が、静かに一本の線を描き始めていた。
もしその先に彼女の真意があるとしたら……偶然や趣味で片付けられる話じゃない。
私は無意識に、呼吸をひとつ深くしていた。
――積み重なった違和感が、もうほとんど確信の形を取りつつあった。