第6話「視察と観察の日」
五年前。
セレスティア王国とヴァルガード帝国――二つの島国は、大陸移動によって衝突寸前という前代未聞の危機に直面していた。
戦争か、国土消滅か――その瀬戸際で、ただ一人“夢の図書館”で出会った白髪の青年から「世界最強のAI《Air on G》」を託された少女がいた。
彼女の名は澪。
引きこもりの女子高生だった彼女は、仲間や市井の人々との交流、そしてAIとの奇妙な信頼関係を経て、数々の妨害や裏切りを乗り越え、二国の衝突を阻止した。
あの日の潮の匂いも、青年が消える直前に見せた微笑も、今も彼女の胸に焼き付いている。
――そして現在。
22歳となった澪は、セレスティア政府の科学技術省に勤務し、新たな国家AI戦略プロジェクト《Affectis》に関わっている。
それは感情を読み取り、行動を予測する感生AI――防衛にも外交にも使えるが、使い方次第では危険な兵器ともなり得る代物だった。
海底トンネルの完成が近づき、両国の交流が加速する一方で、見えない火種が静かに燻り始める。
そして再び――潮の匂いが、濃くなる時が迫っていた。
本作は、前作『引きこもり女子高生、夢の図書館で手に入れたのは世界最強のAIでした』の五年後を舞台にした、完全続編である。
あの時の“選択”がもたらした未来で、澪は再び運命の渦に巻き込まれていく。
セレスティアとヴァルガードを結ぶ海底トンネル――。
港の先端から海中へと延びる白いアーチが、朝の光を反射してきらめいていた。
今日、私は初めてその内部に足を踏み入れる。
金属製のゲートを抜けると、ひんやりとした潮の匂いが肺に広がった。
足元の床は微かに振動し、遠くから低い機械音が響いてくる。
壁面は新しい塗装の匂いがして、手すりは磨き上げられたばかりのように光っている。
透明なアクリル窓の向こうには、青黒い海が広がり、時おり小さな魚影が横切った。
等間隔に並ぶ照明が、延々と続く直線の先へと視線を誘う――吸い込まれそうなほど長い、人工の海底道。
(……すごい。あの時止めたプレートの先に、こんなものが通ってるんだ)
案内スタッフに混じって、私はAffectisの携行版を抱えて列の後方を歩く。
「ここが連絡用通路になります」
先頭の案内役が、マイク越しに説明する声が響く。
私はAffectisのレンズを軽く動かしながら視界をスキャンした。
画面の端に、薄く赤いリングが一人分――ユナだ。
彼女は周囲の展示案内や景色にはほとんど興味を示さず、監視カメラの死角、非常口の位置、配線ダクトの蓋ばかりをチラリと見ている。
(あからさまに観光モードじゃないな)
私はその一つ一つの視線と歩幅を、行動ログとして記録する。
だが、それだけではまだ「怪しい」で終わる。
決定的な証拠にはならない。
視察が終わる頃、私は列の横に回り、ユナの隣に歩調を合わせた。
「ねえ、この街、案内してあげようか?」
「……え?」
「だってあなたこの街の子じゃないでしょう?」
(うーん、やっぱ強引だったかも)
振り返った琥珀色の瞳が、一瞬だけ揺れる。
「素敵なカフェがあるんだ。おいしいコーヒー、飲みに行かない?」
その瞬間、彼女の中に小さな警戒が走ったのを感じた。
(そうだよね、他にも交流団メンバーはいるのに、いきなりあなただけ誘うんだもん)
でも――ユナは笑顔を崩さなかった。
「いいですね。ぜひ」
声のトーンも完璧。だけど、瞳の奥にだけ、小さな影が落ちているのを私は見逃さなかった。
港町の路地を抜け、木の扉を押すと、深煎りコーヒーの香りがふわっと広がる。
タカコさんのカフェだ。
「いらっしゃい」
カウンターから顔を出したタカコさんに、私は軽くウインクを送る。
タカコさんは目を細めて、こっそりと頷いた。
彼女は元スパイ――人の仕草や息遣いの変化から、嘘や隠し事を嗅ぎ取るのは、呼吸をするように自然なことだ。
「こっちはユナ。交流団の参加者でね、案内中なんだ」
「まあ、いらっしゃい。ゆっくりしていってね」
二人で窓際のテーブルに腰を下ろす。
私はメニューを開きながら、自然な会話をユナに振る。
「ここのケーキ、チョーおすすめ。チョコも美味しいし、クリームが絶妙で……あ、コーヒーはどんなのが好き?」
「私は……そうですね、甘すぎないものがいいです」
「なるほど。じゃあ、このブレンド、試してみない?」
表面上はただの世間話。でも実際は、ユナをできるだけ喋らせて、タカコさんに材料を渡している。
カウンターの向こうで、タカコさんはカップを磨きながら、その視線を一度も外さない。
その動きは柔らかく、しかし一分の隙もない――長年の任務で培った、獲物を逃さない観察眼だ。
そのやり取りの中で、タカコさんの目がほんの少し鋭くなった。
店を出たあと、ポケットの中の端末が震えた。
タカコさんからのメールだ。
> 澪ちゃん。
あの子、話す前に必ず視線を斜め上に泳がせて、それから瞬きを数回、そして笑顔――この順番を守ってる。
普通の人間なら、笑顔のタイミングと瞬きはもっと自然にずれるはず。
視線を泳がせるのは、言葉を作っている証拠。瞬きの連発は、脳が緊張を抑えようとする反応。
つまり、あれは「用意された答え」を出す前の儀式みたいなもの。
任務時代、尋問の場で何度も見た、虚言癖や作り話が多い人の典型的な癖よ。
危険の匂いがする。気をつけて。
画面を閉じると、港の風が頬を冷やした。
ユナはすぐ先を歩いている。
その背中は、観光を楽しむ女子高生のものに見える――けれど今や、私には別の輪郭が重なって見えていた