第5話「接近」
五年前。
セレスティア王国とヴァルガード帝国――二つの島国は、大陸移動によって衝突寸前という前代未聞の危機に直面していた。
戦争か、国土消滅か――その瀬戸際で、ただ一人“夢の図書館”で出会った白髪の青年から「世界最強のAI《Air on G》」を託された少女がいた。
彼女の名は澪。
引きこもりの女子高生だった彼女は、仲間や市井の人々との交流、そしてAIとの奇妙な信頼関係を経て、数々の妨害や裏切りを乗り越え、二国の衝突を阻止した。
あの日の潮の匂いも、青年が消える直前に見せた微笑も、今も彼女の胸に焼き付いている。
――そして現在。
22歳となった澪は、セレスティア政府の科学技術省に勤務し、新たな国家AI戦略プロジェクト《Affectis》に関わっている。
それは感情を読み取り、行動を予測する感生AI――防衛にも外交にも使えるが、使い方次第では危険な兵器ともなり得る代物だった。
海底トンネルの完成が近づき、両国の交流が加速する一方で、見えない火種が静かに燻り始める。
そして再び――潮の匂いが、濃くなる時が迫っていた。
本作は、前作『引きこもり女子高生、夢の図書館で手に入れたのは世界最強のAIでした』の五年後を舞台にした、完全続編である。
あの時の“選択”がもたらした未来で、澪は再び運命の渦に巻き込まれていく。
開会式まで、あと三日。
午後の港町多目的ホールでは、セレスティアとヴァルガードの初の文化交流イベントのリハが行われていて、もう人と熱気でむんむんしていた。
壇上では交流団代表が真顔でスピーチ練習、袖では通訳スタッフが原稿を片手に走り回り、運営委員がケーブルを抱えて右往左往。
報道陣のカメラはカシャカシャ鳴りっぱなしで、空気はすでに“ほぼ本番”だった。
――その中で、ひときわ目を引く人影がある。
黒のジャケットに淡い青のスカーフ。
軽く笑ってヴァルガード語からセレスティア語に切り替える、その流れるような会話術。
ユナ。
まだ十代なのに、堂々とした立ち居振る舞いは大人顔負けだ。
控室から出てくる人たちが次々に彼女に声をかけ、笑い、肩を叩く。
彼女がそこにいるだけで、場の空気が一段明るくなる――そういう「中心」を持っている。
(……あれ、これ、めっちゃ人気者じゃん)
私は人混みの外側から、その光景をタブレット越しに眺める。
Affectisの画面には、今回から追加した新しい指標が光っていた。
【表情‐感情乖離】――見た目の笑顔と、心の動きの差を数値化するやつだ。
画面の数字は、ユナが談笑するたびにじわじわ上昇。
笑顔は満点、声色も完璧。なのに、感情波形は……ほぼ無音。
(はい確定。やっぱり心はピクリとも動いてない)
けど、Affectisで分かるのはここまでだ。
感情が乖離してるのは見抜けても、それが怒りなのか悲しみなのかまでは判別できない。
結局、直接話すしかない。
(……でも、私、情報部の人間じゃないし、そんな事やっていいのかな...)
自分にそう言い聞かせたけど、視線はまたユナを追ってしまう。
本当は踏み込むべきじゃない――でも、気になる。
その夜。
夢の中の図書館に、私は立っていた。
高い天井、深呼吸したくなる静かな空気。ランプの柔らかな光が本棚の影を長く伸ばしている。
棚の間を抜けると――そこに、彼がいた。
奥の机に座る白髪の青年。
一瞬息が止まる。
(うわっ...相変わらず綺麗な顔...)
指先で本のページをめくり、その仕草ひとつで時間がゆっくりになるような気がする。
白い髪がランプの光を受けてわずかに輝き、淡い灰色の瞳が私を捉えた瞬間、心臓が跳ねた。
「ユナのことだね」
開口一番。
……ほらやっぱり、この人、心を読んでる。いや、もう全部お見通しなんだろうな。
けど、そういうの、ずるい。
「……どうすればいいのか分からない。私、研究員であって、諜報員じゃないんだけど」
私の声は、少しだけ震えていたかもしれない。だって、こんな距離で見つめられるなんて――近い。目を逸らしたら負けだって分かってるのに、視線を外したくなるくらい...綺麗...顔が熱い。
「プレート移動を止めた時のことを思い出せ」
その声音は穏やかなのに、不思議と胸の奥を直にノックしてくる。
「――あれは任務じゃなかった。君が君の国を守りたいと、心から思ったから動いたんだ。今回も、自分の心の声に従えばいい」
瞳をまっすぐに向けられる。
(そんな目で言わないでよ……)
視線をそらせば楽になれるのに、逃げたくなかった。いや、逃げられなかった。
あの時は……。
――ただあなたに褒められたくて、なんて。
喉元まで出かかった言葉を、私はぐっと飲み込んだ。
言ったら、きっとこの距離感が壊れてしまう。彼が私を見る目が、変わってしまう気がして。
夢が淡く溶けかけた時、私は小さくつぶやく。
「……直接、会ってみる」
最後に見えたのは、彼の唇がわずかにほころぶ瞬間だった。
その笑みを胸に焼き付けたまま、私は目を覚ます。
翌朝。
カーテンを開けると、空はすっきりとした青。
私はベッドの上で作戦を練る。
いきなり宿舎で声をかけるのは怪しすぎる。
イベント会場は人目が多すぎ。
――じゃあ、自然に二人になれる場所は……。
浮かんできたのは、港町の片隅にある静かなカフェ。
タカコさんの店。
あの深煎りコーヒーの香りに包まれる空間なら、少しは警戒心も緩むかもしれない。
「……タカコさんの店、ありだな」
そう呟いたら、胸がほんの少しだけ高鳴った。
作戦のせい、なのか……それとも。