第2話「静かな部屋」
五年前。
セレスティア王国とヴァルガード帝国――二つの島国は、大陸移動によって衝突寸前という前代未聞の危機に直面していた。
戦争か、国土消滅か――その瀬戸際で、ただ一人“夢の図書館”で出会った白髪の青年から「世界最強のAI《Air on G》」を託された少女がいた。
彼女の名は澪。
引きこもりの女子高生だった彼女は、仲間や市井の人々との交流、そしてAIとの奇妙な信頼関係を経て、数々の妨害や裏切りを乗り越え、二国の衝突を阻止した。
あの日の潮の匂いも、青年が消える直前に見せた微笑も、今も彼女の胸に焼き付いている。
――そして現在。
22歳となった澪は、セレスティア政府の科学技術省に勤務し、新たな国家AI戦略プロジェクト《Affectis》に関わっている。
それは感情を読み取り、行動を予測する感生AI――防衛にも外交にも使えるが、使い方次第では危険な兵器ともなり得る代物だった。
海底トンネルの完成が近づき、両国の交流が加速する一方で、見えない火種が静かに燻り始める。
そして再び――潮の匂いが、濃くなる時が迫っていた。
本作は、前作『引きこもり女子高生、夢の図書館で手に入れたのは世界最強のAIでした』の五年後を舞台にした、完全続編である。
あの時の“選択”がもたらした未来で、澪は再び運命の渦に巻き込まれていく。
港町の外れにあるホテル風のビル。
海底トンネル開通後にセレスティアとヴァルガードの交流を促進するために結成された文化交流団用の宿舎だ。
白い壁と青い屋根が、海風にわずかに揺れるカーテンの向こうで光っている。
その二階の一室――ユナの部屋。
ユナは16歳の高校生。セレスティア生まれでありながら、幼い頃からヴァルガード語に親しみ、母国語と同じように話せる。
文化交流団の選抜倍率はおよそ100倍――その狭き門を突破し、堂々とこの宿舎に入った。表向きは語学と知識を活かした架け橋役、しかしその胸の奥には、誰にも話していない別の目的が潜んでいる。
荷解きは、ほぼ終わっていた。
ベッドの上には、ノートPC、スマホ、それから黒い小型ドローンのケースと折りたたみ式のワイドモニターがきっちりと並んでいる。
まるで展示品のように、寸分の狂いもない整列。
ユナは無言でPCを起動し、隣のケースを開く。
内部のドローンは、光沢を帯びた羽根を静かに折りたたみ、黒曜石のように光っている。
彼女は手際よくケーブルを繋ぐ……いや、繋がない。
PCからドローンへのデータ転送は無線で行われる。接続アイコンが点滅し、転送バーがゆっくりと進んでいく。
進捗バーの青い線が、部屋の空気まで冷やしていくようだった。
データ転送が終わると、ユナは机の鏡に向かった。
長い髪を耳にかけ、作り笑いをしてみる――柔らかく、親しみを込めた笑み。
だが数秒後、その笑みは跡形もなく消え、無機質な無表情が鏡の中に残った。
机の上には、鮮やかな色合いのパンフレットが一枚。
「海底トンネル開通式」の文字が、陽光を浴びて浮かび上がる。
ユナはそれを手に取り、一瞬だけ視線を落とす。
次の瞬間、ためらいもなく伏せ、そのまま引き出しに押し込んだ。
窓の外から、仲間たちの笑い声が聞こえる。
ユナは顔を向けもしない。
ゆっくりと立ち上がり、カーテンを閉める。
部屋は、闇と静寂に包まれた。
薄暗い光の中で、PCの画面だけが青白く輝いている。
そこには――複雑な線と数字が入り組んだ何かの図面。
誰も知らない、その詳細な構造。
青い光が、ユナの琥珀色の瞳を照らす。
その瞳には、笑いも涙も映っていない。
(……もうすぐ終わりにする)
唇がわずかに動いたが、その続きを口にすることはなかった。
外の喧騒とは別世界のようなその部屋で、ただ時計の秒針だけが、小さく響いていた。