第11話「潮の匂い」
[式典4日前 午後10:00/夢の中・図書館]
ページをめくる音が、静まり返った空間にぽつりと落ちた。
同時に、ふっと潮の香りが鼻先をかすめる。――ここは夢の中のはずなのに。
「……来た……!」
澪は息をのむ。
高い天井までそびえる本棚の間から、白髪の青年が影を引き連れるように静かに歩み出た。
「ユナのことで、相談があるの」
声がわずかに震える。青年は何も言わず、ただ澪を見つめて続きを促す。
澪は、文化交流団に紛れた少女――ユナの行動をできる限り正確に語った。
Affectisで計測した感情乖離スコアの異常値。笑顔の裏に、一瞬だけ覗く冷たい影。
そして――あのドローン。
「でも、これ以上は……証拠も確証もない」
絞り出すように言うと、青年はしばし目を伏せ、本棚の木目にそっと手を当てた。
「君は彼女を危険だと感じている。でも、人は一面だけで判断すべきじゃない」
「……どういうこと?」
青年は、少し間を置いてから口を開く。
「ユナの家庭環境を調べてみるんだ。家族構成、過去の出来事、育った土地……」
その声は深海から響くように低く、澪の鼓膜に静かに浸透していく。
「それは彼女を裁くためじゃない。謎だらけの人物像を少しでも浮かび上がらせれば、今後のアプローチの糸口になる」
澪は眉をひそめる。
「……どうして家庭のことがヒントに?」
青年は歩み寄り、目を細めた。
「もし君が、たった今知り合った人間が――君とほぼ同じ境遇で育ったと知ったら、どう思う?」
「……同じ境遇……? そうだな……たぶん、親近感を覚える……かも」
「なぜだ?」
「えっと……自分を分かってくれる気がするから」
青年は小さくうなずく。
「では逆に、まったく異なる環境で育ったと知ったら?」
「……距離を感じる、と思う」
「そうだ。人は無意識のうちに“近い”と思う相手には警戒を解き、“遠い”と思う相手には壁を作る。家庭環境は、その“近さ”を測る重要な手がかりだ」
青年はさらに畳みかけるように言葉を続けた。
「過去に、ある外交交渉で対立が続いた国同士があった。だが、交渉役の一人が相手国の担当者と同じ村出身だったと知った途端、二人の会話は氷解した。幼い頃の風景や祭りの記憶――それらが、国境を越えるきっかけになった」
澪は目を瞬かせる。
青年は頷き、さらに言葉を落とす。
「もし、その相手が君と同じ“喪失”を経験していたとしたら?」
「……うん……その気持ちを、少しは分かってあげられるかも」
「そうだ。それは人を動かす鍵になる。謎だらけの人物像でも、背景を知れば違う輪郭が見えてくる。
君がユナにどんな言葉を投げかけ、どんな道を示すか――それは、彼女の歩く先を変えるかもしれない」
澪はゆっくりと息を吐く。
「……つまりプロファイリング……」
「そうだ。人の感情の揺らぎは、過去の影と繋がっていることが多い。理由を知れば、君の選ぶ言葉も変わる。なぜなら――同じ相手の気持ちを先回り出来るからだ、それに…」
「それに…何?」
「ユナはまだ16歳だ。心の扉はまだ錆びついてはいない。君に共感できる何かを見つけたら、きっと心を開くはずだ。それが突破口になる」
(――はあ? まだ16歳?)
澪の眉がぴくりと動く。
(えーえー、分かってますよ。どうせ私はもう22歳で、初々しさなんて残ってませんよ! はいはい、若さってやつは万能だもんね!)
胸の奥に、じわりとした熱が広がる。悔しさとも苛立ちともつかない感情が、舌の先までこみ上げた。
(くそっ、いいじゃない……二十代の女だって、磨けば光るのよ! 見てなさい、絶対にあの子より私のほうが――)
青年の真剣な瞳に、反論の言葉は喉の奥で溶けて消えた。
青年は一歩近づき、瞳に澪の顔を映した。
「だが、時間がない。式典まで、あと三日だ。ユナの真意を突き止めるんだ」
「……分かってる」
「それだけじゃない」
青年の口元がわずかに引き締まる。
「式典は満潮の時間帯に行われる。水位が最も高く、海流が変わる瞬間だ。潮の匂いが強くなる時は、何かが動き出す時――この国では古くから“不吉の兆し”とされてきた」
澪は思わず辺りを見回す。夢の中なのに、確かに海風の塩気が濃くなっている。
「……“潮の匂いが強くなる時が近い”って……それは?」
「それは、君の行動が間に合うかどうかの分かれ目ということだ」
そう言い残し、青年は踵を返し、薄暗い通路の奥へと姿を消す。
「覚えておけ――君が守れるのは、一度きりだ」
[目覚め]
澪はベッドの上で跳ね起きた。
カーテンの隙間から夜風が吹き込み、今度は本物の潮の匂いが鼻をかすめる。
時計は午前0時を少し回っていた。
「……家庭環境……」
小さく呟きながら、澪はノートPCを引き寄せる。
検索ウィンドウを開く指が、一瞬止まった。
(そうだ……国民データベース)
以前、一度だけ個人情報を照会したことがある。
今回はそれを、プロファイリングの観点からもう一度――。
今の自分にできることは限られている。
それでも――やるしかない。




