ヒトの優しさが身に染みる
近々の問題として、トイレに行きたい。
空腹もさることながら、猛烈な尿意に脳内を支配された。なんて呑気な身体。
ファンタジーで、マジカルなパワーで何とかならんのか! と、腹立ち紛れに此処で済ませてしまおうかともよぎったが、人目のない路地裏とは言えさすがに石畳の上でパンツを脱ぐほど理性がなくなっているわけではないらしい。
この世界、コンビニとかあんの?
下っ腹に気合を入れて路地から出ると、掲げられている看板が目に入る。
不思議な文字だがやはり読める。
[熊の胆亭]
何のお店かはわからないが「いらっしゃいませ。お泊まりですか? お食事ですか?」と、店先を掃除していた年嵩の店員らしき女性に声をかけられれば、こんな朝っぱらから開いている事に安堵しつつ、昨日手をつけなかったお弁当や晩酌用に買った惣菜があったのを思い出したが「食事を」と所望し店内に入った。
「あの、お手洗いをお借りできますか?」
案内されたテーブルにつく前に、バーカウンターでカップを布で拭っていた男性に声をかけると、怪訝な顔を向けられながらも、顎で扉を示される。
ぺこりと頭を下げて扉を開けるが、そこはトイレでは無かった。
掃除用具や木箱が積まれた倉庫のような部屋を見回すと、さらに奥の壁に扉があった。
良いのかな。と思いつつも、膀胱の出す警告はすでに悲鳴をあげている。
違っていたら謝ろうと、えいっと扉を開けると、木板の床に穴が空いただけの小部屋。
「グハッ!!!」
底の見えない真っ黒な穴を覗き込み覚悟を決める。
さっき路地裏でやろうとしていたことを思えばなんてことない。なんて事はない!!
意を決してスカートをたくし上げ、穴にまたがりパンツを脱いでしゃがんだ。
膀胱はさっきまであんなに切羽詰まっていたのに、意外に抵抗を示してから、とうとうようやく事はすんだ。
当然ウオシュレットもトイレットペーパーも無い。
リュックからポケットティッシュを出して拭き取ると、どうせ水洗じゃ無いんだからと、躊躇なく穴に投げ入れる。
泣きたい気持ちで穴の上で立ち上がるも、知ってた。手洗い場は見当たらない。
チクショウ! こっちはパンデミック後の世界から来た文明人ぞ。と、リュックから取り出した除菌シートで手を拭った。
それなりのダメージを受けてよろよろと倉庫から出ると、先ほど声をかけてくれた女性店員が、不思議そうな顔で手元を見ている。
「あ、あの、お手洗いお借りしました。その、手を、洗う場所など、ありますでしょうか?」
「えっ? あぁ、裏に井戸がありますが、もしかしてお客さんその見た目で[魔力なし]なのかい?」
「[魔力なし]?」
ナギサの疑問に、女性店員はくるりと指を回し〈水の帯〉を作ってみせた。
「わぁ魔法だぁ」
女性店員は、そのまま手招きしてナギサを誘導すると、裏の扉を開けて中庭の井戸に連れて行き、手元の水を地面に流し捨てた。
ナギサはそれを真似て地面に手のひらを向け「水出ろ」と念じてみた。
ダバーッと勢いよく流れ出る水。出た! 水出た! できた魔法!
「アワワッ!!」
慌てて流れ出る水を水の塊に変え、その中に手を突っ込んでザブザブと洗う。
その様子に、女性店員は「なんだ。できるじゃないか」と、前掛けで自分の手を拭った。
なるほど、コチラのトイレ事情は魔法でセルフウオシュレットなのか。おおかた温風乾燥代わりの魔法もあるのだろう。と納得したところで、先程『文明人だぞ』とイキった己を恥じた。
「もしかしてお手洗い借りたいだけだった?」
「あ、いえ、ぜひ食事も・・・あ、お金持ってない」
「何だって!?」
「あ、いえ、無銭飲食するつもりはなかったのですが、外国の、ここの国のお金持ってなくて! あの、これ、このお金使えませんよね!?」
ナギサは慌ててリュックを漁り、財布から五百円玉と一万円札を出してみせた。
「なんだいこれは?」
「あの、私の国の、外国のお金なのですが、使えますか?」
女性店員は迷いなく五百円を手に取って、マジマジと硬貨を見つめた。
「こんなのみたことがないよ。困ったね」
「あぁ、ごめんなさい。これしか持ってなくて、注文をキャンセルできますか?」
「そりゃまだ皿にも盛ってないから良いけど、アンタ、大丈夫かい? 顔色が悪いよ」
ここに来て、初めて優しい言葉をかけられて目の奥がジンと熱くなる。
「それにその格好、もしかして何処かのお屋敷から逃げてきたのかい?」
どこかおかしかっただろうか? ナギサは目元を拭って慌てて居住まいを整える。
「随分上等なお仕着せじゃないか。おおかた無理やり無体な事をされそうになって夜のうちに逃げ出してきたんだろう? ほら、ちょっとこっちへおいで」
女性店員は、壁際にあった木箱の上にナギサを座らせると、手櫛で髪を撫でポケットから出した布紐を編み込み、キレイに髪をまとめて束ねてくれた。
「フグっ・・・」
ナギサは、途端に決壊した涙を止めることができなくなった。
「あぁ、怖かったね。大丈夫。もう大丈夫だよ」
年嵩の女性店員が、両手を背中に回してナギサの肩から背を大きく撫でた。
あ、こりゃもうダメだ。
涙は止めどなく流れ出し「ウエェェン!」と幼児のように声を出して泣いた。
大人になってからこんな風に泣いたことなど一度も無い。
きっと自分より体格の良い女性店員が、しっかりとハグをして子供にするように背を撫でているせいだ。自分が脆弱なせいでは無い。誰だって、たとえ28歳の大人の女だって、こんな日にこんな扱いを受けたら、きっとこんな風になるのだ。
ナギサは、もはや開き直って泣けるだけ泣いた。
十分に泣いたおかげか、とても気持ちが落ち着いてきた。
ふうふうと、呼吸を整えていると、女性店員がエプロンで顔を拭いながら髪を整えてくれる。
う、ヤバい。何だこれは。この人、そうゆう何か精神攻撃でもしてきてるんじゃなかろうか。
と、ナギサが自分の情緒を疑い出すと、女性店員は「やれやれ」と声に出しながら、顔を覗き込んで言葉を続けた。
「アンタ移民だろ? このまま逃げ出したら、金を受け取った家族が罪に問われるかもしれないよ?」
心配そうな顔を向ける女性店員に、ナギサは首を横に振って「この世界に家族はいない」と告げた。
「無理やり、攫われ連れてこられて、契約も何もしていないのでその辺は大丈夫です」
「なんてこった! 最近多いんだよ。アンタ、逃げ出せて本当によかったねぇ。とは言えどうせどっかの偉いさんだろ? 衛兵に訴える事もできないだろうし。随分遠くから連れてこられたのかい?」
「はい。おそらくもう帰ることはできません・・・」
「それほど器量良しだと・・・探されているかねぇ」
「えっ!?」
「その髪、相当な魔力持ちだろう? お偉いさん方々には垂涎の別嬪さんだろうよ。苦労しただろうねぇ」
「この、髪は、珍しいのですか?」
「おや、知らないのかい? この国では髪の色が濃いほど魔力が高いって言われているんだよ」
「え、でも、この国の偉い人は金髪ですよね?」
「そりゃ黄金色は特別さ。そんなのここじゃ王族だけだろうよ」
「あ、そうなんですね・・・」
どうしたものかと逡巡するが、使えるお金も持っていないのに、このままここにいるわけにはいかないし、まかり間違ってこの優しい人に迷惑をかけたく無い。
「あの、お手洗い、貸してくださって、ありがとうございます。使えるお金を持っていないので、お暇させていただきます。その、お手数おかけしてすみませんでした」
ナギサはスクっと立ち上がり、頭を下げつつ出口を探すが、中庭は四方を壁に囲まれているようで、元きた扉に戻るよりなかった。
店から出る時に、リュックから飴の缶を取り出す。カベンディッシュ&ハーベイのサワーチェリー味。禁煙中のナギサの大好物だ。あの休日出勤の日に開けて一個食べただけだ。
「あの、おせわになりました。本当にありがとうございました」
深く頭を下げて飴の缶を渡す。
女性店員は「くれぐれも気をつけて逃げるんだよ」と、代わりに布の包みを渡してきた。
ナギサは、中身を改めず再びぺこりと頭を下げて、早足で広い道を目指して歩いた。
店に入る前より街は活気付いていて、大小様々な人々が行き交い、大きな通りには馬車が走っているのが見えた。
街並みはフランスの田舎の古い住宅街に似ていて、それよりはずっと背の低い石造りの建物が連なるように立ち並んでいる。
空気感も、降り注ぐ光も流れる風の香りも、和風なテイストは一切ない。
二階建て以上の建物に背を向け、豪華な箱馬車は無視して、荷馬車の進行方向になんとなく足を向けると、広場のような場所に出た。
「わぁマルシェだぁ」
小さな屋台や、テントと荷台など、色とりどりな小売店が並んでいる。
朝だからだろうか? 野菜や果物を売ってる店が多い。
日本でのイベントマルシェとは違い、活気はあるがゴミゴミしてはいない。
量は多いが、みな似たような野菜や果物を売っているように見える。
なにか買ってみたいが、と、客と店のやり取りを見回っていると、どうやら物々交換している店がある。
地面に布や板を敷いて、ごく少量の品物が並ぶいわゆる露店と言うやつだ。
ナギサは、鍋を並べておいている老人に声をかけた。
「この鍋は売り物ですか?」
「そうだよ。大中小で、銀貨3枚、2枚、1枚だ」
「物々交換できる?」
「何と交換するんだ?」
「この中鍋をこれで」
どれも足のついた丸い鍋でおそらく鋳物。中サイズでバスケットボールほどで、同じ素材でつまみのついた蓋がセットになっている。
銀貨2枚とはどれぐらいの価値だろう?
ナギサは、リュックの中から黒あめを5つ取り出し、2つだけ老人に差し出した。
「なんだこれは」
「飴。砂糖を煮詰めたお菓子」
「砂糖だと!?」
老人は飴を受け取り匂いを嗅いでいる。
「封を開けたら返品不可」
「なら3つだ。飴3つで交換してやる」
ナギサが飴を手渡すと、老人は鍋の取っ手を持ち上げ、顎をしゃくった。
ナギサが鍋を受け取りあちこち傾けてみていると、老人が「う、ウマイ! 甘い!」と声を上げた。
うん。知ってる。春日丼の黒あめ美味しいよね。ナギサが笑って老人に目を向けると、目があった老人は言った。
「残りの2個も売ってくれ!」
「え、いくらで買いますか?」
「この大鍋をやる!」
「え、鍋はもうこれを買ったから要らないけど」
「じゃあいくら払えば売る?」
「え? えっと、中鍋の値段が銀貨2枚で、飴3個だから〜・・・」
「そんな鍋が銀貨2枚もするわけがないだろうっ!」
「え!?」
「あっ・・・」
ほほう? ぼったくりやがったな?
ナギサは、ニッコリとしたまま表情を変えず「じゃあこの鍋は本当はいくら?」と質問した。
老人は「小銀貨5枚だ」とあっさり答えた。
「さあ! 2個分で銀貨一枚くれてやる! 残りの飴をよこせ!」
なんでそうなる? この老人が答えた『小銀貨5枚』が正直な答えではないとしても、飴の価値は変わらないだろ。馬鹿なんだろうか?
「いいえ、飴は1個で銀貨1枚。2個なら銀貨2枚です。最初そのつもりだったでしょ?」
「っち!」
舌打ちをした老人は、銀貨2枚を懐から出した。
なるほど。馬鹿ではなかった。馬鹿にされたのだな。
ナギサは、飴を二つ手渡し銀貨を2枚受け取った。
「お買い上げありがとうございます。因みに、このお鍋の本当のお値段はいくらですか?」
「銀貨1枚だ」
老人は飴から目を離さずに答えたので、ナギサは、リュックからもう一つ飴を取り出し、目の前で振って見せ「銀貨1枚であの果物はいくつ変えますか?」と、林檎が並ぶ店を指差し聞くと、老人はニヤリと笑って答えた。
「箱で買える」
「教えてくれてどうもありがとう」
ナギサは飴を手渡し立ち上がると、林檎の並ぶ店まで戻った。
「これは林檎?」
「あぁ、ウチの農場のは格別甘いよ!」
「銀貨1枚でどのぐらい買えますか?」
「それなら箱で売ってやるよ! 馬車まで運ぼうかい!?」
「あら、ありがとう。でも、そんなに要らないの。5個で良いのだけど、お金はこれしか持って無くて。お釣りもらえる?」
「10個買ってくれたら釣りを小銀貨5枚やるよ」
木箱にはおそらく30個は入っている。量と木箱を考えたら、妥当な値段か。
「えぇ、仕方ないわ。それで良いです」
「まいど!」
店員さんは、簡素な麻袋に林檎を10個入れ「これはオマケだ」とさらに3個プラスして袋を渡してくれた。
「ほい釣りだ」
ナギサは差し出されたコインをみて驚いた。銀貨がコロンと丸いのに対して、小銀貨はなんというか、銀貨をそのまま半分に切って使っているような。
半月型のコイン5枚を受け取り「ありがとう」と礼を言うと、老人の露天商と同じように続けて聞いてみる。
「この辺に料理の美味しい宿屋はある?」
「この辺なら[熊の胆亭]が1番近いがな。そうゆうのは[斡旋所]で聞きな」
「そうなんですね。その[斡旋所]はどこですか?」
「近いのは南門の手前だな。全部の門の前にあるよ」
「行ってみます。あ、因みに[熊の胆亭]は1泊おいくらかご存知ですか?」
「王都で平民が泊まれる宿屋は、素泊まりならどこも大抵銀貨1枚ってとこだが、美味い飯がつくとなるとそうはいかないだろうよ。そうゆうのも[斡旋所]が教えてくれるだろうさ」
「ありがとうございます」
ナギサはぺこりと頭を下げて、店を後にした。
なるほどなるほど。だいぶいろんなことがわかった。
この手の『買物時に交渉しなければ客が損をするシステム』の国、ぶっちゃけ嫌いなんだよな。と、日本から出ない事を誓った過去を思い出しため息をついた。