疲れているんだ
正社員含む従業員15人の自称IT企業。とは名ばかりの、派遣会社に就職してから初の25連勤。
働き方改革はどうした?
ウチの会社は最近になって、平社員10人の給料形態が時給制に変わった。
以前の年棒制、出来高制のままだと、残業代が基本給を超えることが多くなったからだ。
結果5人が辞め、残った私達は昼ごはんを食べる暇もなくなった。
父の生前の口癖を思い出し、それはことあるごとに呪文のように口を衝いて出る。
「クソ政府がっ・・・」
今日の最後の仕事に、駅前のコンビニ受け取りにしていた荷物を受け取り、ついでに妹に頼まれていたシャンプーとコンディショナーとボディソープを買物バッグに詰め込み、ランドリーバッグのコートの間に慎重にダンボール箱を挟み入れると、店を出たとたんその荷物の重さに八つ当たり気味に悪態をついた。
土日に家族の4人分の食材を、まる1週間分まとめ買いする駒込家で、長女渚の休日出勤が続いたせいで、調味料のストックが軒並み切れていたのだ。今買わないと、明日から弟妹達の弁当に支障が出る。
あと数十分もすれば月曜だというのに、人の多い喧騒の中を馬鹿でかいバッグを2つ肩から下げ、フラフラとした足取りで帰路を進む。
こんな時間に、こんなヨレヨレな姿をを、またご近所さんに見られたらと思うと憂鬱だ。
今朝も『日曜なのにまたお仕事? お母様も心休まらないんじゃない?』と声をかけてきた斜向かいのおばちゃんは、古くからある地域で、ウチが家屋敷のほとんどを売った事をよく思っていないらしく、会うたびに小言を言ってくる。
しょんぼりしながら「母がまた臥せっていまして」と目を伏せると『頂き物だけど』と狭山茶の新茶を渡してきた。『早く良い人見つけてお母様を安心させてあげないと』と余計なひと言をつけて。
絶対待ってたんだ。じゃ無いと玄関先の掃除にお茶っ葉を持って出ているはずがない。全く大きなお世話だ。
だいたい、私が結婚して家を出ることになったら、あの家はどうなる。
学生バイトの私を、社員と同じように働かせておいて、卒業と同時に、病弱な母のため自由が効くようにと、SEだった父が仲間と起こした会社にそのまま就職したが、結局ゼミの奴隷が社畜に変わっただけで8時間以上フルタイムで働いて、家に帰れば家族の世話に追われる生活が始まっただけ。
それなのに父の過労死をきっかけに、その仲間達は父が開発したソフトやアプリを売っぱらって会社をたたんでとっとと逃げた。
仕方がないので、今住んでいる離れが建っている以外の土地と母屋を売って、なんとか当座の資金を作った。
他になにも残していなかった父が突然居なくなって、残された私達家族はわかりやすく途方に暮れた。
父は、仲間や社員に対しての外面が良い反面、実の家族の扱いは杜撰で自分の所有物だと思っている、所帯を持ってはいけない典型的なクズだった。
そんな良く言えば仕事人間の父親の働く姿をずっと見ていたし、転職せざるを得なかった今だからこそわかる。
父が言っていた『クソ政府がっ!』って言葉の意味が身に染みる。
IT黎明期に、某政権のあのクソ大臣経済財政政策担当が、個人が自分達を脅かす存在に急成長する事を恐れた大手企業らと結託して、日本のフリーランスSEをただの派遣に貶め、システムエンジニアとプログラマとオペレーターを一絡げにして、日本のIT技術の進歩を衰退させたクソ政策から数十年。
『日本人は起業を恐れる向上心が無い国民柄』だと?
当時抱えているエンジニアやプログラマの生活を守る為、どれほどの中小企業が派遣業と言う新たな事業に参入せざるを得なかったか。
コミュ強ってだけで役職についたやつの成れの果てがデジタル弱者共老害だ。さっさと死んでいなくなれ!
「英語もわからん、コードの一つも読めない政治家は、さっさと引退しろっ」
ブツブツと悪態を吐きつつ、のし、のし、と歩を進める。
夜の東京は、奇行を繰り返しながら歩いている人間をよく目にするが、まさに自分がその一員である。募るイライラが抑えられない。
それから更に月日は流れ働き方改革が発足され、やっとブラックでイリーガルでラクレスな働き方が見直されたと聞いていたのに、転職先の三次受けの中小企業じゃIT土方は健在だった。
元首相が亡くなった途端に、ノー残業デーに定時で帰る正社員の代わりに働くのが、中途採用のこの私、名ばかりの協力会社から出向している 駒込 渚 だよこんちくしょう。
「そいつらが今度は米を相場に利用しやがって。クソがっ」
口が悪くなるのも仕方がないだろう。
今日は米を買う予定だったのに、そんな気力も消え失せた。
スーパーに行ったら、あきたこまちが5キロで4800円だったのだ。血の気が引いた。
恐ろしくて手が出なくて、フワフワした気持ちでなんとか1週間分の他の食料品を買い込み、結局米だけ買わずに店を出てしまった。
今週はカレーを作ろうと食材を買ったのに、とうとう米を買わなかった。
弟妹の弁当もあるのに、家の在庫はわずか。いったい日本の政府は何をやっているんだ。
「って・・・あぁ、人間って疲れていると、ろくなことを考えない。本当に嫌になる」
渚は、足を数歩進めるごとにずり下がる肩の荷物を背負い直すと、大きなため息をついた。
バスケ部の弟は、弁当をサンドイッチにしたら『足りない食った気がしない』と相当機嫌が悪くなるだろう。
せめて午前中のうちに、クリーニング屋の引き取りを済ませておいてよかった。
でもおかげで、弟の学ランと、自分のパンツスーツと冬服、思春期の弟妹の上着外套がこの上4着で、ランドリーバッグはパンパンに膨れ上がっていた。
背中にビジネスリュック、最寄駅についてからとはいえ、右肩にランドリーバッグ、左肩に買物バッグと、すでに両肩は限界だ。
無理だ。
これからスーパーに戻って「高い高いありえない」と思いながら、この上さらに米を担いで帰るなんてできるわけがない。そんなの無理だもん。
米の値段の衝撃から、怒りでなんとか我に返った渚は、米を買わない言い訳をウダウダと考えながら、大通りから一本脇道に入り、ショートカットするつもりで、公園沿いの薄暗い歩道に出る。
頼まれると断れない気弱さと真面目な性格が災いして、正社員様がやらかしたとうに納期の過ぎた案件の尻拭いに、週明け上司に説明という名の言い訳をする為のだけの資料作りを手伝わされた日曜日23時過ぎ。
土日は普段なら買い出し日なんだ。急に入った仕事を言い訳に、1週間分の食料買い出しをしないわけには行かない。
いつもだったら選ばないルート。タイミングが悪いのか良いのかわからないが、いかにもな事件現場に遭遇してしまった。
窓ガラスまで真っ黒いワンボックスカーの前で、ガラの悪そうな数人が揉めている。
あぁもうっ、正直もうヘトヘトなんだ。本当にもういっぱいいっぱいなんだ。
子供の頃から搾取され続けていた自覚はある。
父が死に、母は心労でますます臥せがちになり、自分の奨学金も返し終わっていないのに、まだ学生の弟妹がいる。
仕方ない。仕方ないけど、弟は高校生。妹は中学生。今日は日曜で2人とも学校は休み。
普段家事のほとんどを担っているお姉ちゃんの急な仕事の日ぐらい、買物を代わってくれたって良いじゃないか。
母親にしたって、体調が悪いとベットに寝てはいても、ずっと家にいるんだから、荷物の受け取りで玄関先に出るぐらいしてくれたって・・・!
バッグの取っ手がギリギリと両肩に食い込み、真っ黒い靄に巻きつかれて、今にも呪いの言葉を吐き出しそう。
転職したてなのに今日だって、pcの電源を落とした途端、背後から肩に手を置かれ、そのまま耳元で『これお礼のプリン』と囁かれ、机の上に置かれた銀座の高級フルーツ店のショッパーに、本当に労いの気持ちがあるなら今は一刻も早く家に帰すべきでは無いか? と明後日なことを考えていると、続け様に『いまからホテルで一緒に食べない?』と吐息を吐かれ、怒りでブチギレて勢いよく椅子を引き、打ち所悪くうずくまった社員様を足蹴にして、机の私物をリュックに詰め込み「やめてやる!」と、叫ぼうとして思いとどまって、土下座状態で震える尻裏からもう1発蹴り上げ逃げてきた。
辞められるわけがない。
当然プリンは戦利品として頂いてきたが、怒りに任せて暴れて歩いてようやく、今日ってセクハラパワハラまがいの無駄な仕事に駆り出されたんだ。と気づいたら、情けなくて、情けなくて。
それでも何かがこぼれ落ちないように歩いていたんだ。疲れたんだ。疲れているんだよ。
だから目の前で男達に車に連れ込まれそうになっている、女子高の制服を着ているが金髪ギャルを見たからって、スルーしたって良いじゃないか。
こっちだって明日の朝食べる米がないのに、家に着いたら家事労働が待っているのに、ゆっくり休むこともできないとわかっていても、まっすぐ家に帰りたいぐらいに疲れているんだもの。
それなのに、見なかった事にして踵を返すことなど、絶対に許されない自分の性格が憎くて憎くてしょうがない。
「もうとっくに限界なんだよっ!」
渚は怒鳴った。
ただ大きな声を勢いで出してしまっただけだが、腹が立っていたことは違いない。
犯罪行為中とはいえ、相手にしてみりゃ完全に八つ当たりだし、場違いな言葉ではあるが、目の前の男達は驚いて手を止めた。
その一瞬の隙をついて、金髪ギャルは走って渚の背中にまわり込む。
渚の正気が戻った時には遅かった。
3人の男達が何やら言いながらコチラに歩いてくる。何か言ってるけどわかんない。日本語だとわかるけど理解できない。きっとおかしくなっているんだ。普段だったらこんな道は通っていない。でもきっと疲れ過ぎて色々おかしかったんだ。
渚は、覚悟を決めて金髪ギャルを庇うように片手を広げ、もう片方の手でスマホを握った。
「それ以上近づくなら通報します!」
男達が足を止めると ドン! と背中に強い衝撃を受けた。
パンパンのランドリーバッグと買物バッグを両肩から下げていた渚は、最も簡単に体勢を崩しそのまま前のめりに倒れ込んだが、男達が受け止めてくれたので転ばずに済んだ。
大層ガラの悪い男に支えられながら驚いて後ろを振り向くと、金髪ギャルは脱兎の如く遠ざかって行く。
ウソでしょ!?
そう思った瞬間、男達は渚をはねのけて、金髪ギャルを追って行った。
渚は結局転ばされたが、何とかゆらりと身を起こす。
そのままアスファルトの上にへたり込むと、膝を擦りむいているのが見え、思わず呟きが漏れた。
「あ、ストッキングが・・・」
車の側に残っていた男が、ヒッヒっと笑いながら運転席に移動して「ウケる〜頑張ってオバサン!」と、タバコの吸い殻をピッと投げつけ車を走らせて行った。
見るとスマホを握っている手の甲も擦りむいている。
ランドリーバッグの箱の中身と、かろうじて取っ手が腕に引っかかっている買物バックの中の卵は無事だろうか。
もはや立ち上がる気力もない。
渚が項垂れたままでいると、回り込んできたのだろう、向かいの通りからさっきの金髪ギャルが走り戻ってきた。
「ねぇ通報した!? ねえっ! 警察呼んだのっ!!?」
渚が無言で顔を上げると、金髪ギャルは渚の手に握られたスマホに手を伸ばし、その真っ黒な画面に気づいて躊躇なく舌打ちをした。
「ッチッ! つかえねぇババアだな!」
渚が、自分の中に一瞬のうちに湧きあがった殺意を、生まれて初めて感じたその瞬間、アスファルトの地面が眩い光を放った。
・・・・・
・・・
・
「ようこそいらっしゃいました。聖女様」
スッと差し出された白魚の様な手の平の横、渚はその真正面に座る金髪ギャルに目を向けた。
つい今さっき自分が殺意を持ったその金髪ギャルは、すんなりと差し出された手を取り立ち上がると、よろりっとバランスを崩して、美しい手の持ち主の男性にしなだれかかった。
「お疲れでしょう。すぐにお部屋にお連れします」
コチラには目もくれず一心に手を取った金髪ギャルを気遣う男性を見て、本物の金髪だ。と、渚は思った。
一拍置いて、もしかして自分はここに存在しないのか? とも思ったが、コチラを見てニヤリと口端を上げたニセ金髪のギャルが、そのまま金髪の男性に抱えられるようにフロアを立ち去ったのを見送って、床の冷たさを実感した。
驚いて声も出ない。とはこの事だ。人間てビックリしすぎると身動き一つ取れなくなるのだな。とぼんやりと考えていると、ザワザワと囁き合う声が耳に入ってくる。
これが異常事態な事はすぐに解った。だけどどうにも立ち上がる気力が湧かない。
なんなら大声をあげて罵り呪詛の言葉を吐き散らしながら泣き喚きたい。
でも何故だろう。上手く行く気がしない。やったことが無いのに、そんな事をしても無駄だと言うことだけがはっきりと分かる。
渚が、ダラリと垂れた利き手に目をやると、スマホを握る手の甲に血が滲んで見えた。
なんで今更・・・。
目の奥がじわりと熱くなる。
「お怪我を・・・」
真っ黒なローブ姿の男性が近づいて目の前で跪いた。
ビクリッと渚の身体が跳ねる。
ローブの男は、破れたストッキングから顕になる膝の傷口に手をかざすと、何やら呟きその手を発光させた。
すると、傷口がみるみるうちに塞がり、あっという間に元のツルツルの膝に戻った。いや違うか。元はもっとくたびれた膝だったはずなのに、ピカピカになったので元に戻ったと言うのは嘘だ。
「え、何これっ魔法!?」
渚が思わず口から出た自分の言葉にハッとする。
辺りを見渡すと、どう見ても日本人、東洋人が1人もいない。
目に入る全員の顔が、鼻が高く目と眉の間が近い彫りの深い顔立ちをしていて、髪色がいずれもパステルカラーの赤・青・緑と、ありえないカラフルさなのに安いウイッグのようにも見えない。
目の前のローブ姿の男も、ボーンチャイナのティーセットを思わせる青白い肌に、刺青と見紛うほどくっきりとした目張りの真ん中に、ルビーのような赤い瞳でコチラを見ていた。
うっかり同じ人間とは思えないほど美しいその顔に見惚れるが、病的な肌色と目の下の隈に同族嫌悪しそうな社畜の香りを嗅ぎとり我にかえる。
これって、これってまさか。
渚は、荷物を引っ掴み瞬発力だけで立ち上がると、その反動のまま扉に向かって駆け出した。
本能が『逃げろ!』と警報を鳴らしている。
が、肋骨服の男に、扉の手前であっさり止められてしまった。
「何処へ行くおつもりか?」
「・・・元いた場所へ帰していただけますか?」
「それはできません」
「・・・それは、どうゆう理由か伺っても?」
「異世界を渡る召喚は一方通行です。帰還は不可能です」
言葉が問題なく通じているのもさる事ながら、悪びれもせずに返される答えに、渚は驚愕すると共に腑が煮えくり返ってきた。
「ナニ当たり前みたいに言ってんの? つまりアンタらが無断で拉致ったって事でしょ?」
「・・・・・」
肋骨服の男が、気まずげに目を逸らせた隙をついて、取手もドアノブもない大きな扉に手をかける。
すると今度は、金属製の甲冑を身につけた男が声をかけてきた。
「どこへいくつもりですか」
「とにかく外に出ます」
「外に出ても、貴殿に行く当てなどないはずだ。一体どうするつもりか」
「外に出てから自分で決めます。あなた達には関係無い」
無理やり押さえつけられたり、行く手を阻まれたりしないので、渚は遠慮無く扉を押し開けた。
赤茶色のカーペットがまっすぐ続くその先は遮る物なくぽっかり開いていて、外を思わせる光が見える。
どうやらこの建物は、お城や宮殿というより聖堂やイベント会場だったようだ。
渚は開口部に向かって歩き出す。
「お待ちください」
「どうかお考え直しください」
後をついてくる人達から色々声がかかるが、物理的に止められる様子がないので、一切無視してグングン進む。
眩しい光を頼りにたどり着くと青空が見えた。やっぱり出口だった。と、一歩踏み出す。
すると音もなく先ほどの社畜ローブの男が目の前に立ち塞がった。
「申し訳ありません」
その言葉の後、渚は意識を失った。