番外編 恋心のはじまり
ナディアの通う学園は、首都の外れにある山の上に建てられている。その山を学園が買い切っているため、すべての学園施設はそこに存在していた。
この学園に通う5年間は、立地のこともあり、寮での生活を勧められる。年に2度の長期休みには里帰りをすることが通例であるため、よほどのホームシックにならない限り、現在は例外なく全生徒が寮生活をしているのが実態だった。
学園から寮までは徒歩10分の距離。男子寮と女子寮はそれぞれ左右に別れている。もしも学園時間外で男女が会うとしたら、お互いわざわざ約束をして、どこかで待ち合わせなくてはならない。もしくは、放課後学園に居残りをしてたまたま出くわすことぐらいだろうか。
雨が降っていた。
西陽も雲に隠れ、窓の外がグレイッシュな青色で覆われ、校舎内は人気も少ない。学園の敷地が大きいので、いっそうがらんとした空気を感じる。
キーランは学園入学1年目にして、自治会の役員として籍を置いていた。自治会の仕事はまだ下っぱの地位であるため雑用処理が主だ。キーランは他の役員よりも遅くまで仕事をして居残り続けることが頻繁だった。
魔法の一つでもあればこんな紙束を整理する必要もないんだろうけど、なんて空想に耽りながら手を動かす。あいにくこの世界に魔法は存在していない。
ようやく整理が終わり、自治会室を後にする。雨を避けるために屋根のある廊下を通り、学園の本館へと向かった。窓のない大きな柱によって天井高く作られた廊下は、雨による冷たく湿度のこもった空気が通り抜ける。雨を凌げるだけで、外と変わらない空間だ。
その空気を身に受け、キーランは土砂降りの日の庭のガゼボでの出来事を思い出していた。
あの日はそう…明確にナディアに恋をしているのだと自分で気づいた日だった。
「おうちに帰れませんわね…」
ザアアとまるで滝のように音を立てて振る雨は、年中を通しても珍しいほどの豪雨と言えた。
空を見上げるナディアの目はまんまると大きく、ガラス玉のように煌めいていた。
まだ7歳の頃だ。キーランの精神は幼馴染二人に比べて緩やかな成長具合で、その当時はとにかく豪雨による大きな音に震えていた。
ハドリーの領地に集まり、いつも通り庭で三人で遊んでいたところ、ハドリーが兄のジョンに呼ばれて屋敷の方へ向かい二人だけになった。
キーランはすでにこの頃、ナディアがハドリーに好意を抱いていることを何となく気づいていた。屋敷へ向かったハドリーの背中を悩ましげに見つめるナディアを見て、どこかむず痒さを覚えていた。好きな人がいなくなって、二人だけではつまらないんじゃないかと不安だった。
その後すぐにポツポツと雨が降り始め、二人でガゼボに移動したらこの有様だ。
降り始めてどれくらい経ったか、その時、この豪雨の激しさが永遠に続いて自分たちは家に帰れないんじゃないかと幼いキーランは不安に思ったものだった。
ナディアのぽつりと零した言葉は、より一層キーランの不安を煽る気がした。
けれども、その不安を取り除いたのもまたナディアだった。
震えるキーランに気づいたナディアは、雨に濡れきっていないふわふわのドレスを翻して、キーランの隣にすとんと座る。
腰掛けの上で膝を抱えているキーランを、隣からハグした。
「!」
「寒くなってしまいましたの?こうすれば暖かいかしら」
どうやらナディアは、雨によって気温が下がり、それによってキーランが震えているのだと思ったらしい。
キーランよりも少しだけナディアの身体の方が大きかったので、ちょうどよくナディアの両腕に収まった。
「ありがとう…」
少し照れ臭くなってお礼も小さな声になってしまった。
けれど二人の距離が近いのできちんと耳に届いたようで、ナディアは「どういたしまして」と嬉しそう返事をした。
ハグが終わってナディアが隣に座り直すと、キーランは名残惜しさを覚えた。抱えていた膝を下ろし、ナディアと同じように座った。
「もう寒くはありませんの?」
「大丈夫だよ」
「ならよかったですわ。キーランが風邪をひいてしまっては寂しいですもの」
「そうなの?」
「当たり前ですわ!私、キーランと遊ぶことがとても好きなのですから」
強く断言されて、先ほどまで抱いていた不安が薄れる心地がした。
「で、でもナディーは…」
無邪気に喜びたかったキーランだが、ハドリーの背中を見つめるナディアの横顔を思い出してしまう。自分に向けられた言葉の真偽が知りたくて、つい言葉を続けてしまった。
「ナディーはハドリーと一緒の方が、いいんじゃないの…? むしろぼくがいない方が、二人きりで楽しめるだろうし……」
雨の音がまた強さを増した。同時に不安がキーランを再び覆うような心地がして俯いてしまう。
「………そんな悲しいことを言わないでくださいまし」
しかしナディアの返事は、予想外に悲しげで震えていた。驚いてナディアを見れば、眉をハの字にして、大きな瞳が湿っていた。
「キーランがいない方がなんて、考えたこともありませんわ」
「あ、そ、そんな、泣かないでナディア」
「な、泣いてませんわ!でもキーランが悲しいことを言うから……」
幼いキーランには、肩を震わす少女の対処などわからない。あわあわと行き場のない手を暴れさせるくらいしかできず、とにかく口で「悲しませてごめんなさい!」と言い切るしかなかった。
「ぼ、ぼく、なんだかさびしくて、ナディーがハドリーばかりを好きなんじゃないかって思って…」
ナディアをいつも通りに戻すために口走るが、なんだか上手くいかない。心の中で密かに思っていた不安を吐露してしまう。
「もし本当に風邪をひいて、二人と遊べなくなったら、二人がもっともっと仲良くなってぼくを置いていっちゃうんじゃないかって……思って…つい……ナディーが言ってくれてるのは、本当なのかわからなくなって…今こうやって二人でいるのもつまらないんじゃないかって……」
疑心暗鬼になっていたのだと思う。そしてその頃すでに、嫉妬心があったのかもしれない。それはハドリーだけでなく、ナディアに対しても。三人だけが全ての世界だった幼い頃は、二人から疎外されてしまうことが何よりも恐怖だった。
豪雨の冷たさと激しい音が、キーランの不安を増幅させていた。
ナディアが彼の手を強く握る。
「今この瞬間、私はわくわくしていますわ!」
「ええ…?」
「だってこんなの初めてですもの。ものすごい雨が降っていて、いつものお庭が全然見えなくて、ここだって何度も来たことがあるのに、今はまるで全く別のお部屋みたい。秘密基地みたいですわ!」
ナディアの目が再びキラキラと輝いている。
「こんな不思議なことを、キーランと二人で体験していることが何よりも楽しいですわ!これは私たちだけの特別な思い出ですわ。他の誰でもない、あなたと一緒だからそう思えるのよ」
「…!」
きっと、その時の幸せそうなナディアの顔を二度と忘れないだろう、とキーランは思った。
ハドリーへの好意は確かだとしても、それはキーランを排除する理由にはならない。ナディアはきちんと、キーランにはキーランへの愛情を抱いていた。その日の二人だけの思い出が、それを実感させてくれた。
キーランは、ナディアのことが好きだと、胸の内で確信していた。
彼女の幸せそうな笑顔を、守っていきたいと願った。
ほのかに抱いていた恋心に自覚した瞬間だった。
そんな回想をして、同時に切なくもなる。
なぜならこの恋心は叶わないということを知っているからだ。
あの日の自覚は、同時に失恋の瞬間でもあったのだと苦々しくも感じてしまう。
キーランが本館の玄関口にようやく到着すると、一人の影を見つけた。
この時間にまだ残っている生徒がいたのか、と意外に思いながら足を進めると、見知った後ろ姿に心臓が跳ねた。
ナディアが、あの日の面影を残して同じように空を見上げて立っている。
ちょうど考えていた相手が目の前にいるのだから、疲れた上での妄想なのか、と逡巡して頭を振ったが、もう一度見ると確かにナディアがそこにいる。
するとナディアの方から気づいて、こちらを振り向いた。「あ!」と彼女の声色も嬉しそうに明るかった。
「キーラン、忘れ物でもしていたの?」
「いや、俺はさっきまで自治会の雑用を……ナディアこそこんな時間にどうしたんだい?」
雨が跳ねないような位置で、二人が横並びになる。
「私は……えっと、図書館で勉強をしていたのだけれど……」
どこか恥ずかしげに言い淀むナディア。キーランがすかさず
「わかった、居眠りだ」
と指摘すると、ナディアは顔を赤くして、今度はしょげるように「その通りですわ…」と視線をそらした。
キーランが思わずくすくすと笑いを溢す。
「適度な休養も大切だよ。根を詰めすぎたら後々に響くからね」
「そうですわね、今日は…ゆっくり本でも読みますわ」
「それもいいけど、体を動かして遊んだりとか…ほら、ハドリーが中心になってレジャーとかもしているって聞いたけど、ナディーは参加しないのかい?」
「……えっと…」
ナディアが再び言い淀む。その違和感にキーランが気づくも、ナディアはハッとして何でもないというように手を振る。
「わ、私が参加しては、皆様の足を引っ張ってしまいますから。それに、そんな情けない姿をハドリーには見せられませんわ!」
好きな人の前では良く見せたい、という意図を含んだ言葉に、キーランはそれ以上の追求をやめた。
「なら、散歩とかでも」
代わりに一つ提案をする。
「歩くだけでも気晴らしになるし、学園の敷地は自然が豊かだからね。どう?」
「それは……良いアイディアですわ。でも今日はあいにくの雨ですし……」
するとキーランは傘をカバンから取り出して見せる。あ、とナディアが羨ましげに折り畳まれたそれを見て声を漏らす。
「やっぱり、傘を持っていなかったんだね」
「ええ、これから先生に借りに行こうかと考えていたところでしたの」
「じゃあ無駄足を踏ませなくてすんだね」
パッとひらけば、はい、と傘をナディアの方にも傾けた。
「一緒に帰りましょうかお嬢様」
なんてかしこまった言い方なんてしてみる。
ナディアもふふっと笑って、一歩キーランの方へ近づいた。
「ええ喜んで」
キーランの言い方に合わせて返事をするが、改めて「ありがとう」と照れ臭く笑う。
キーランは、なんて役得なんだと内心浮かれていた。
いつもなら煩わしいと思っていた雑用も、こんなご褒美があるのなら何度だってやりたいくらいだと考えた。
降り止まぬ雨の中、二人で一緒に歩みを進める。
ふとナディアが「ねえ」とキーランに話を振った。
「キーラン、覚えているかしら」
「何をだい?」
「あれは何歳の頃だったかしら……たしか、ハドリーのお屋敷のお庭で遊んでいたとき、二人だけになった瞬間雨が降ってきたことがあったでしょう。しかももの凄い土砂降りの」
キーランがまたドキリと心臓を跳ね上がらせる。
「ねえ、今こうして二人で歩いているのと、あの頃の感じ、ちょっと似てると思わない?」
思わずキーランは立ち止まった。ナディアも彼の動きに合わせて、足を止める。
傘の中でキーランを見上げるナディアの瞳が、あの時と同じように、大きくキラキラと輝いている。
この瞬間を、楽しんでくれているのだと感じる。
———ああ、俺は本当に、ナディアのことが好きだ。
切なく締め付けられるこの思いを、彼女には悟られまいと我慢する。
キーランはこれ以上なく幸せだという笑顔を浮かべた。
「覚えているよ。あの時も、すごく楽しかったから」
ナディアの中に、同じように幸せな思い出として刻まれているのなら、何よりの幸福だと思った。
そして彼女を寮まで送るこのたった10分間も、また新しい思い出として残ればいい。
二人だけの大切な思い出を、いつまでも覚えていてほしいと、キーランは強く願った。




