10
初夏の兆しが見える、緑あふれる日のことだった。
ナディアは領地内の、さまざまな花が咲き誇る公園に視察に赴いていた。
フローリネ領の中で最も大きなこの公園は、毎年春から秋にかけては花を愛でる観光客で賑わう。領地の中でも重要な観光資源の一つだった。
運営者からの現状報告を聞き、実際の人員の動きや現在見られる花の状態を共に歩いて確認し終わると、ナディアは今度は仕事も関係なく趣味で公園を散策するために運営者たちと別れた。
今の時期は、ちょうど藤棚が満開で美しい。珍しく人が少ない今の時間、紫の景色をナディアは独り占めしていた。
ナディアは、背丈のおかげで藤棚が少し遠く、より広くその景色を堪能している心地がして、この身長も悪くないのかも、なんて一人笑った。
「何がそんなにおかしいんだい」
「きゃあ!」
少し遠くから声をかけられて、ナディアは思わず飛び跳ねた。
てっきり一人だと思って気を抜いていたので、一気に顔に熱を帯びる。
振り返ってみると藤棚の起点に、キーランが立って手を振っていた。ナディアが彼の姿を見て脱力すると、ごめんごめんと苦笑して駆け寄ってきた。
「驚かせるつもりはなかったんだよ」
「うう……恥ずかしいですわ……」
「そんなことない、可愛かったよ」
卒業して、正式にハドリーと婚約解消が決まってからというもの、キーランは時折こうしてナディアの領地に足を運んでナディアと言葉を交わす頻度が多くなった。
お互い、領地の正式な後継者として事業の運営に忙しいにも関わらず、キーランはナディアの仕事の邪魔にならないように顔を見せにきていた。そしてそれはナディアにとっても穏やかで癒される時間であった。
最近はすっかり、仕事後にキーランの顔を見なければ少し物足りなさを感じるまでになっていた。
ナディアにとってキーランとの時間が、何よりも幸福なものになりつつある証拠だった。
それにこうして、キーランは積極的にナディアを甘やかすように声をかけるようになった。
昔からどこか勘違いさせるような言葉を紡ぐ人だとナディアは思っていたが、最近はそれに拍車がかかっているようだと確信している。
「可愛い」なんて、こうやって尊いものを見るように言ってきたら、くすぐったくて仕方がなかった。ナディアはその視線に、最初こそドキドキと落ち着かない心地がしたが、最近はじんわりと胸の内が温まるようで、どこか切なさも感じるようになった。
これが何を意味するかは、なんとなくわかる。
「ナディア、今日はこの後時間があるかい?」
「いえ…この視察が終われば特にはありませんわ。しいて言えば、リタと一緒にアップルパイを作る予定があるくらいですわ」
「え、そうなの。それは申し訳ないな……リタに謝っておいてくれ。今度は俺が予定を合わせて手伝うと」
「ええ…?そこまでお詫びするほどのものではないのに」
「でも君は楽しみにしていたんじゃないの?」
「ふふ…楽しみにしていましたけれど……でも大丈夫ですわ、また別の日に改めますし、それに……」
そのアップルパイは、キーランと会うための口実だったとは、照れて言えず、続く言葉はフェードアウトした。
それに?と聞き返すキーランに、なんでもないですわ、とナディアがはにかむ。
何やら楽しげで浮ついた彼女の態度に、キーランはそれ以上の追及はしなかった。
「それよりも、この後の用事とはなんですか?」
「ああ、うん、ナディアに俺の屋敷まできてもらいたいんだけど……」
今度はキーランが歯切れ悪く言う。
何か深刻な事なのかと思い、ナディアがキーランの手を掴んで、「お力になれることなら、すぐにでも向かいますわ」と歩き出そうとした。
「待って待って、勘違いさせてしまったのならごめん」
引っ張られた腕を逆に引っ張って、反動で後ろに倒れ込みそうになるナディアの両肩を、キーランが抱き止めて、その場に立て直す。
「急ぐ用事ではないのですね?」
「うん大丈夫、むしろ慎重に事を進めたいかも」
「?」
オホンと、キーランがかしこまって咳払いをする。先ほどから何やら、そわそわと落ち着きがない。ナディアも不思議がって、キーランの顔をまじまじと見やるが、かえってその視線はより一層キーランの平静を遠ざけた。
「屋敷に向かうのも、そもそも君が選んで欲しいんだ」
どういうことなのか、と尋ねる前に、ナディアの前にキーランが膝をつく。
二人の視線の高さが逆転した。
ナディアとキーランだけの藤棚の景色が、大きな風に揺られて音を立てる。
ナディアを見上げるキーランの瞳には、真剣さと、緊張と、わずかな期待が見て取れる。
見つめていると吸い込まれそうな青い瞳に、ドキンドキンと鼓動が早まるのを感じつつも、逸らすことができないでいた。
「ナディア、どうか俺と結婚してくれないか」
ナディアの左手を、大切そうに掬い上げる。
触れ合った手と手の境界を強く意識して、ナディアの鼓動は大きく高鳴った。それによって身体中に血液が巡り、ナディアの全身が熱を帯びる。
「え、え……!?」
「ずっと君の幸せを願っていた。けれどもう見守ることはやめた。ナディアを大切にしたいから、俺自身が幸せにしたいと思うようになったんだ」
ナディアを引き寄せたいと思う気持ちで、触れ合った手をぎゅっと強く握る。握手とは全然違う、好意のこもった熱に、ナディアは動揺した。
胸の奥がどくどくと音を立てる。キーランに聞こえてしまっているんじゃないか、と心配したが、それはキーランも同じだった。少しの静寂ですら、長い時のように感じる。その瞬間、握り合った手から、お互いの鼓動を感じて、キーランの瞳がより一層熱を帯びた。
「ナディアを愛している。どうか、君を幸せにする権利をください」
ついには、ナディアの瞳から涙がこぼれた。
幸せで全身が震える。言葉も紡ぐことができないナディアを、キーランはたまらず抱きしめた。
キーランからの愛を一身に受け、言い知れぬ幸福を実感する。ナディアはキーランの優しさを反芻していた。
いつだってキーランはナディアを励ましてくれた。
ナディアが落ち込んでいる時は慰め、ナディアが楽しんでいる時はもっと盛り上げようと共にはしゃいでくれた。ナディアが寂しい時は寄り添い、ナディアが苦しんでいる時はナディア以上に心を痛めて涙を流すことだってあった。
ナディアも、キーランの深い愛に気づけていなかった。ずっとハドリーばかりを目で追っていたから。感謝こそすれど、それがどれだけ尊いものだったのかを、今ようやく知った。
失恋し傷心していたナディアがすっかり立ち直ったのも、あの日、キーランが背中を押してくれたからだった。
自分の味方がいるという事実が、ナディアを強く奮い立たせてくれていた。
そしてそれが逢瀬を重ねるごとに、ナディアの中でも愛情を芽生えさせるきっかけになっていた。
あの日の感謝を、これまでの愛をナディアは忘れない。
受けてきた愛を、キーランに返したいと、思うようになった。
「私も、私も…キーランを愛していますわ」
ナディアの両腕がキーランの背中に回り、強く自分へと引き寄せた。自分の愛情が、彼に伝わるように、これ以上ないほど力を込めた。
キーランも幸福と歓喜に包まれ、抱きしめる力を強める。
「ありがとう、ナディア。君のことを一番近くで、愛し続けると誓うよ」
それは、ずっと誰かに言って欲しかった言葉だった。
いいや誰かじゃない。誰よりもナディア本人を見守り続けていたキーランにこそ言って欲しかった言葉だとナディアは実感していた。
涙がとめどなく流れる。キーランの胸元を変色させてはしまわないかと心配になったが、そんなものは構わないと言わんばかりに、キーランがナディアを自分へと押し付けた。
ナディアは声をあげて泣いた。
これからはキーランとの愛に溢れた日々が待っているのだという予感が、感じたことのない喜びとなりナディアの心を包み込んで、その温かさが嬉しくて、涙を止めることができなかった。
ナディアの片思いは終わり、新たな愛によって癒された瞬間だった。
***
すっかり目を腫らしたナディアは顔を俯かせつつキーランの屋敷に入る。
エスコートするキーランも同じように目元を赤くしていたので、二人して泣きじゃくったことはバレバレである。
「信じていたぞ〜我が息子よ!」
そう陽気に出迎えるのは、キーランの父であった。
ナディアが顔を上げると、広間にはキーランの家族や召使いたちの他に、自分の両親も参列していることに気づいた。
「な、なぜここに!?」
驚くナディアに、キーランがそっと背中を押して、両親の方へ促す。
キーランに微笑んで頷くと、ナディアは彼の元を離れて両親の方へ駆け寄った。
二人は幸せそうにナディアを出迎える。ナディアの母は、ほろりと涙をこぼしていた。
「昨日のうちに、キーランがうちへ訪ねてきてね、ナディーへの婚姻の申込のチャンスをと頭を下げたんだ」
「ええ…!?」
今朝ナディアが視察に出る前に朝食を共にした時は、全くそんなそぶりがなかったのに、とナディアは驚愕した。
「あんなことがあったから、もっと時間を置く予定だったらしいけれど、それ以上にあなたを幸せにしたいと言ってくれたのよ」
「キーランの誠実さは私たちもよく知っている。ナディーをどれだけ愛して、尊重してくれているかもね」
「今日この場で、婚姻の約束をと決めたのは私たちなの。ナディーもあれからすっかり元気になったし、キーランとの日々を本当に楽しそうに語ってくれるから…きっとうまくいくだろうと信じていたのよ」
親というものは、すっかりお見通しなのだと、ナディアは照れ臭くなりつつも、嬉しかった。
キーランへの感情の中に恋愛が含まれたのはいつ頃からなのか、きっとそれはナディア自身よりも両親の方が覚えているかもしれない。
「さあ、彼の元に戻りなさい。私たちも、向こうも待ちきれないよ」
婚約の儀式は簡素なものだ。両者の婚姻においての条件を規約とした紙に、お互いが両家を伴ってサインするだけ。事実、ハドリーとの婚約は、幼い頃の二人でも簡単にこなすことができた。
同じことをもう一度するだけなのに、ナディアは妙に強張ってしまう。
両親に促されて再びキーランと向き合うと、あの頃の婚約とは全く違うときめきを覚えた。
この婚約は、時を待たずに結婚を実現させるものだという確信があった。
あの頃の、夢見心地とは違う、現実味に、ナディアの鼓動が早鐘を打つ。
キーランの父が主導して、サインを終えると、広間は祝福の拍手と歓声に満ちた。
自分が主役になっていることにむずがゆさを覚えたナディアに、キーランが肩を抱いて少し屈むようにして声をかける。
「結婚式は、君の領地で行おう。ナディアが一番好きな場所で、たくさん祝福されるんだ」
「それは……きっと、とても幸せな光景ですわね」
「間違いなくね」
キーランがエスコートしてナディアを応接室まで連れて行く。
その時ふと、ナディアは不思議な感覚をおぼえた。
キーランと触れ合っているのは半身のみ。なのにも関わらず、全身が安心感に包まれているようだったのだ。
よく思い出せば、キーランと話をする時、一緒に歩いている時、ナディアは急ぐことも慌てることも一切なかった。それは幼い頃から今までそうだった。
隣り合って、まっすぐ自分を見つめてくれるキーランの存在が、ナディアの心を穏やかにしていた。
ああそうか、愛し合うというのは、こういうことだったのか。と、ナディアは幸せを噛み締めた。




