第二章 Ⅰ 【喜びと思い出】
…連続投稿すいません。ちょっと雑ですが、読めない事もないので大丈夫だと思います。
朝日が目の奥まで浸透してきた。目をつぶっているのにまぶしい。けれども学校に遅刻してしまう。睡魔と理性との戦いが頭の中で必死に繰り広げられる。太陽が暖かくて布団がポカポカしている。睡魔の勝利だ。私は二度寝をしようと思った。いつも七時にセットしている目覚まし時計が鳴ったら起きよう。だがそんな考えを打ち砕くように、昨日の記憶がフラッシュバックのように脳裏に映像が飛び込んでくる。
「あ」
私は昨日の記憶を思い出すと共に、上半身だけを起き上げようと思った。だが何か強い力で腰が押さえつけられていて起き上がる事は不可能だった。押さえつけられているというより腰の後ろに手が回されていて、またもや抱きしめられている様に思う。そして腰に回されている手の正体は現在私がこの家に居候させてもらっているその家主でもある。かつ滅茶苦茶な男、神崎颯馬さんとはこの人の事を言う。
腰にこの人の手がある為に私は動けなかった。これではまるで抱きしめられている感じになってるじゃない。私はこれでも女なんだよ。ていうかこの人はどうやら私を抱き枕にして寝る習性があるみたいだ。まだ会ったばかりなのに、一体どういう事なのかと問われれば私だってそれは知りたい。とりあえず今すぐこの腰にある手を離してくれさえすれば、私は何も言わないし、何も文句は言わない。まず少し起こしてみる事にした。
「もしもーし? 起きてくださーい」
颯馬さんの頬を軽くペチペチと叩く。駄目だ起きない。軽く叩いただけでは起きないのは最初から分かっていたけどさ。でも少なからず起きてくれるという可愛い期待に答えてくれてもいいじゃん。こう見えても私の心って繊細だからね。薄いガラス一枚みたいにすぐ粉々に割れちゃうから。少し半泣きになってるのにも関わらず、そんな事もお構いなしにいびきかいて寝ている颯馬さんを見ていると、少しずつ確実に苛立ちが募ってきてた。いつの間にか颯馬さんの頬を叩く加減を強くしていた。この人にはこれぐらいが丁度いいと思う。
「起きてください!」
起きないのを良い事に無言でずっと叩き続けていたら、颯馬さんの頬が真っ赤に腫れていた。これはやばい。ていうか見ているだけで痛そうなのに、何で起きないのよ。これ本当は起きているんじゃないの。でも起きているならこの叩かれている痛みに耐えるメリットがない。もし起きていたらという事を予想しながら、颯馬さんがマゾという疑惑が浮き上がる。
「起きてー!」
力加減を全くせずに叩き続ける。さすがにこれはもうやめた方がいいか。もうこの人が起きるまで待ってないと駄目なんだろうか。ていうかこの人どんだけ寝起き遅いんだよ。私でも目覚まし時計無しでも普段の生活が七時起きだから、もう体に染み付いている。目覚まし時計がなくても、普通に起きられる。
「ぐ……」
かすかに呻き声をもらし、眉が若干引きつっている気がする。まるで叩かないでくれと願っている様にも見えた。これは起きているのか、起きていないのか、はっきりしてもらいたいんだけど。しかも颯馬の口元には大量のよだれ。ちょっと良い大人のくせしてよだれ垂らしてないでよ。ていうかそれ以上近づくと、私の髪にヨダレつくんだけど。あ、ついた。洗わなきゃ駄目じゃん。
「はぁ……」
わざとらしく溜め息がでる。疲労や憂鬱とか言うより呆れている。今の溜め息にはこの人をどうにかしてくれ、という意味でもある。お願いだから起きて欲しい。いや、この腰の上にある手を離してくれればそれだけでいい。後はもう二度寝でも三度寝でも何でもしていいから。お願いだから私を巻き込まないで。別に体が密着して少女漫画みたいに、心臓が破裂しそうとかそんな乙女な思考回路はしてないけれども。ただこういうのはあまり良くないと思うわけで、決して緊張しているわけではなくて、そういうわけではない。って私は一体誰に言い訳してるんだろう。混乱しながらも色々とこの場から脱出する計画を考えていると、
「くっ……はは……」
笑い声が聞こえた。この家には私と颯馬さんしかいないと思う。しかもこの笑い声、すごく近くから耳に響くんですけど。少し笑い声を堪えているようにも見える。ていうかもう顔が笑ってんじゃん。そう、これは言わずとも分かる。この憎たらしい笑い声の主は神崎颯馬だった。
「お、起きてたんですか……?」
「お前の反応面白かったからな。顔色がコロコロ変わってよ」
憎らしいくらいの笑みを浮かべる。まるで罠をしかけて成功した時のような悪戯好きの子供ような笑顔だった。怒りたかったんだけど、何かここまで来ると呆れてしまう。
「いつから起きてました?」
颯馬さんは自ら頬に軽く触れて、
「ここ叩いているところから……って、いてっ。地味に痛ぇ」
と本当に痛そうにしていた。かすかに目に涙が溜まっている。そんなに痛かったのか。何か悪い事してしまったかもしれない。でも地道な作業こそが明日に繋がるから。これも自業自得だと思ってくれるとありがたい。だって起きているのに起きないこの人が悪い。私は自分の考えを肯定する。開き直りながらも一体、どういう理由で起きなかった理由を追求する。もしかして私をからかっていたのかな? ここは一つ、私も颯馬さんの事からかってあげるようかな。自分でも分かるくらい「ニヤリ」という効果音がまさに似合う顔をしてみる。
「目から涙がでてますよ」
「違ぇよ、これは汗だろ汗」
目から出る汗ってどんな汗? もし目から汗が出ていたとしても、人はそれを涙と呼ぶ。それを認めないのは負けず嫌いなのね。でも正直、この人が慌ててる姿を見るのは新鮮だった。何か面白いんだけど。この人の反応の方が面白いんだけど。
「嘘ですよ」
「うるせぇな! 本人が汗だって言ってんだから汗だろ」
いつの間にか開き直っている。おいおい。何気に目を擦るように涙を手で拭き取っていた。認めた方が恥かかないと思うんだけど。なのに颯馬さんはわざと自ら崖に落ちるような真似をしてるよね。
「泣いた本人がそう言うなら、そういう事にしときます」
「だから泣いてねぇっつーの」
最後の最後まで意地張る人だな。そうしたいならそうすればいいさ。だけど、その恥はきっと颯馬さんの背中に重く圧し掛かっているだろう。というか、こんな話は別にどうでもいいのよ。何で泣いた、泣いてない話でこんなに盛り上がってるんだろう。ちょっと馬鹿みたいな気がする。
「今日は……そうだ。お前の着物買いに行くんだっけか?」
「あ、でも、そんな気を使わなくてもいいです……」
この台詞、三回ぐらい言った気がする。そして颯馬さんも同じような宣言を私と同じく三回ぐらい言ったと思う。そんなに確認しなくても私は覚えているから。でも、買ってくれるという行為自体はとても嬉しい。素直にそう言うと、颯馬さんに私をからかうネタを提供してるようなものだから言わないけど。
「だから、んな事気にすんなって」
「でも、私は気にするんです」
嬉しいのは確かにそうなんだけど、そんな本当に気を使わなくてもいい。だって、私の着物買うごときで無駄にお金を使わせたくない。それに着物って結構いい値段するでしょ。
「ガキは素直にありがとうございますって言ってりゃいいんだよ」
颯馬さんの物言いに頭に少し血が上りかける。こう見えても十七歳で立派な大人だと思う。確かに背も高くない。そして普通の人より大きすぎる瞳がより幼さをひきだしている。少しムキになって言い返してみる。
「ガキじゃありません」
「ガキじゃねぇって言ってるうちはガキだ」
「だって本当にガキじゃないですもん」
「何だお前、大人として扱って欲しいのか? だったら……」
別にそういう意味でもない。大人として扱って欲しいんじゃなくて、子供扱いしてほしくないだけ。一つ疑問に浮かんだのは私の事を子供だと思っているなら、そういうセクハラな発言は控えていただけるとありがたい。顔にはださないけど、本当心臓に悪いって。
「と、とりあえず顔洗ってくるんで、この腰に回されている手を離してください」
自分で言っといて何だけど、この状況を忘れるところだった。颯馬さんは起きたのだけど、実はまだ私の腰には手があって、まだ抱きしめられている感じだったのだ。くだらない会話していたら、うっかり言い忘れていた。
「ったく、仕方ねぇな」
颯馬さんは名残惜しそうに手を離した。助かった。私は立ち上がると、さっさと急いで洗面所に向かう。実はさっき颯馬さんのよだれが髪の毛についてしまったのである。朝からシャワーあびるのは正直面倒なので水道の蛇口で我慢する。
「逃げるとはいい度胸じゃねぇか」
「別に逃げてないです! 誰かさんのよだれが髪の毛についたんで洗ってるだけですから」
少し嫌味っぽく言ってみる。だけど、そんな嫌味も通用しなかったみたい。
「だれかさんって自分の事か?」
「自分の事は誰かさんって呼びません! あなたの事です」
「あ、ああ、悪ぃ。寝てて気付かなかった」
「いや、起きてたんじゃないですか?」
普段はこんな騒がしい朝を体験する事はない。しかも私はいつもこんなツッコミキャラとかじゃない。いつもの私は、冷徹で冷酷で物事はすべて客観的にとらえる冷静な人間を装っている。学校では孤立したり、皆に嫌われたりするのがいやだから、明るく振舞うようにはしているけど、本当の私はもっとひどい奴。人が苦しむのを見ていても何とも思わない。そりゃあ、それなりに怪我した人がいたら「大丈夫?」とか言って、気にしたりはするけれどそれは果たして本当に心配しているのかは分からない。私は自分自身というものが分からない。自分がどんな性格で、何が好きかっていうのも曖昧で、ただ何となく生きているだけ。というより大体の人がそうだと思う。何となく夢を見つけてそれに向かって目標をたてて頑張る。そしてその目標が達成出来ればまた新しい目標に向かう。それは誰に指図されているわけではない。自分で何となく思っているからそういう行動をとる。でもその「何となく」は重要な意味をもつ。だけど私の場合、「何となく思う」っていうことさえ自覚出来ない。何となく思っていてもそれに気付かない。自分の気持ちは自分が一番分かっているはずなのに、自分で自分の考えている事が分からない。他人の雰囲気や意見に流されて、自分というものなんて昔から分からないし、知る由もしなかった。要するに私は自分を知るのが怖いんだ。私は臆病なんだ。もし自分の意見がはっきりして、その意見を他人に言ってみて変と思われたらとか、否定されてしまったらとかいう考えが頭に染み付いている。だから自分から行動するということは今まで一度もなかった。誰かに言われたから行動している。
だから、こんなに人に言葉を吐くのは初めてかも。だって私は誰かに話しかけられていても心の中ではくだらないとかつまらないとか冷めた事を思っているだけ。だから本当に思っている気持ちや言葉は、他人の前で口に出したことはそんなにない。だから正直、驚いている。些細なツッコミや怒号だけど、それでも思った事を口にする事は出来ている。これは喜んでいいのか、少し複雑な気分だ。
私は髪の毛についたヨダレをとるついでに顔を洗う。そして颯馬さんが私専用にと用意してくれた歯ブラシを手に取る。何か何故か分からないけれど、この家には歯ブラシが十本くらい装備されているらしい。誰かお客さんが泊まった時にとでも思ってたのだが、一度もそんな経験はなかったらしい。だからこのお客様用の歯ブラシを使うのは私が初めてだった。そもそもこんな店に誰も泊まろうという人はいないだろう。いや、ここにいるか。でもこれは仕方ない。どこにも行く宛てがないから。
「いつまで顔洗ってんだんだよ。メシ作るぞー」
「待ってくださーい……今歯磨いてますからぁ……」
私は急いでコップで口に水を含む。喉をゴロゴロと鳴らして、水を吐き出す。口に付着した水を洗面所の近くにかけてあるタオルで拭き、颯馬さんの声が聞こえる台所に走って向かう。そしてふと一つ疑問に思う事があった。
「ていうか、私もご飯作るんですか?」
「ああ? 当たり前だろうが! てめぇ、この家にタダで住もうと思ってたのか?」
「いや、それは……」
私もこんな衣食住を提供してもらって何もしないというのは自分自身が許せなかったから、何かしようと昨日の夜中にずっと考えていたところでもあったけど、だからこそこんな形で何か出来る事あるなんて正直驚いた。役に立たないかもしれない。でもそれが私に出来る精一杯の事で、借りを返せるなら料理に挑戦してみても悪くないかな、なんて考えながらも気がかりになる事があった。実は私、料理とか出来ないんだよね。皆にそう言ったらかなり意外って言われたんだけど、私ってそんなに家庭的な子に見えるのかな。それはそれで悪い気はしないけどね。
「じゃ、簡単なとこでおにぎりでも作るか」
冷蔵庫についているフックにかけてあったヒラヒラのフリル付きの白エプロンをつけて、さらっと言い流す。あえて突っ込まなかったけど何で男がヒラヒラのフリル付きのエプロンつけてんの。男がそういうエプロンつけるのはかなり気持ち悪いよ。私が着ても若干抵抗があるのに。もう少し別のもっといいエプロンとかあるだろうに。もしかしてそのエプロンって颯馬さんの趣味なのかな。だったらかなり悪趣味じゃないか。いやでも、デザイン自体は悪趣味じゃないんだけど、ただ着る人と合ってないだけ。
颯馬さんのヒラヒラのフリル付きのエプロン姿を眺めて絶句してしまう。そんな私を気にもとめずに、冷蔵庫の中にあると思われる食材を片っ端から出していた。だけど私の目が悪くなければダイニングテーブルの上にあるのは梅と海苔しかないよね。まさかとは思うけど、これだけしかないなんて言わないわよね? 冷蔵庫にこれだけの食材しかないなんて言わないでね。本当そういうの悲しすぎて涙出るから。
「梅と海苔しかねぇ」
やっぱりいいい!? 何というか、颯馬さんにかける言葉も勇気も無い。こういう場合って何て言ってあげればいいのかな。何を言ってあげればその人を傷つけずに済むのかな。もう普通に無視して、おにぎりを握ってもいいよね? もしかしたら今日はたまたま食材が無い日なのかもしれない。そうだ。そうじゃなかったら、どうするのよ自分。自分で勝手に一人で納得することにしよう。
「じゃ、作りましょうか」
私の呼びかけと同時に、颯馬さんは素早く塩水を手につけて炊飯器からお米をすくい上げる。颯馬さんは慣れた手つきでお米を丸めていく。丸めたお米の中心に穴を開け、梅をいれてのりで包んでいった。ていうか切り替え早い上に手先が器用だ。私が手掛けたらきっと歪なブラックホールとか出来ちゃいそう。本当、何で神様は人に器用な人と不器用な人にわけたんだろう。皆同じでいいじゃないのよ。ってそれはそれで怖いけれども。
これ私がおにぎりを手掛けなくても颯馬さん一人で終わっちゃうんじゃないかな、と勝手に予測しながら颯馬さんの握り飯を作っている後ろ姿を呆然と眺めていた。そんな甘ったるい事を企んでいたら颯馬さんの方からわたしの方へと振り返り睨んできた。
「何そこで突っ立ってんだ? もしかしておにぎり作れないのか?」
うわ、図星つかれた。どうしよう、何て言い訳しようかな。って言い訳するのは美しくないわね。ここは正直にそう言うべきかもしれない。でも、それは自分のプライドが許さない。抵抗するだけしてみよう。
「そ、そそ、そんなわ、そんなわけないじゃないですか! ア、アハハ……」
「噛むほど動揺してんじゃねぇか」
「……」
私って演劇とかに向かないかも。明らかに噛み噛みで動揺してるのもばれてるし。そしてまさに颯馬さんの言う通りだからこそ何も言い返せない。料理は得意どころか、苦手の部類に入る。作れるのはカップラーメンぐらいかもしれない。自炊してみようと思った事もそれなりに何度かあったのだけど、包丁で指を切り大量の血を見てかなりのトラウマになってしまったのだ。もともと血とか見るのは嫌だけど。おにぎりは包丁と関係ないじゃんと分かっていても、自分は手先も器用じゃない。ああ、何も取り柄のない自分を私は恨むしか出来ない。だけどこの壁を乗り越えないと、私はきっと役立たずと見なされ追い出されてしまうかもしれない。そう一瞬でも考えると、背筋に鳥肌がたってきた。住む場所なくなったら、私きっと生きていけない。これは超えなきゃいけない壁なんだわ。頑張らなくちゃ。でも出来ないものは出来ないから。考え方が段々矛盾してきて開き直ってしまう。
「素直に苦手なんだって言えよ。そうしたら俺が教えてやらねぇ事もないぞ」
「え? 本当ですか?」
「鍋とか爆発したらたまったもんじゃねぇからな」
一言余計な言葉がついてくるのは聞かなかった事にする。でもそれは良い事聞いた。颯馬さんが教えてくれればこんなに嬉しいことはない。これは願ってもいないチャンスだ。
「じゃ、よろしくお願いします」
「ああ、手取り足取りな」
「あ、どうも……」
ニヤニヤとからかう様に笑う颯馬さんは一言一言、本当に心臓に悪い。いつも子供じゃないとは自分で言ってるけれど、子供をからかうのはやめほしい。もしかしてそうやって余裕ぶってるのは大人の余裕ってやつなのかな。そう思うと腹立ってきた。私だって子供じゃないし、いつか仕返ししてやるわよ。
ていうかよく考えれば握り飯なんて誰が作っても同じ味だと思う。ただ塩のつけ加減とか形とかが一番重要なんだと思うけど。後はまあ、愛情ってやつかな。でも愛情を込めながらいくら握っても、形は良くならないし味も良くならない。
「せめて見栄えだけでも良くしとけ」
「はい……」
私は颯馬さんの言う通り、塩水を手につけてお米を丸めてみる。手に米がベタベタとくっ付いてきて、なかなか思うように丸まらない。若干、そこで苦戦しているのは情けないと思いつつ頑張ってみる。この手についてる米が鬱陶しい。もう面倒くさい。少し諦め傾向になっていると、ここで颯馬さんという助け舟がでる。
「おまえなぁ……塩水を大量に使いすぎだ。もっと少なくても……つーかもっと少なくしろ」
「あ、そっか。だから米が手にベタベタくっ付くのか……」
颯馬さんって割とスパルタなのかも。結構躊躇も遠慮もせずに指摘する所はスバッと指摘していく。でもむしろその方が私には向いているし覚えやすい。大体甘やかして指導するなんて具の骨頂だよ。甘やかしてたらその教えてもらっている当人は全然成長しない。だから颯馬さんのスパルタは私の理想だね。ぼんやりとおにぎりを握る事以外に精神を集中させてしまう。颯馬さんの鋭い目がピカッと光る。
「手が止まってんぞ。ボーッとしてたら、終わるもんも終わんねぇじゃねぇかよ」
「わ、分かってますよ。そんな焦らなくてもいいじゃないですか」
「分かってんならやれ」
正論しか言ってないから、余計反論出来ないじゃないのよ。まさに言葉に詰まるってこういう事だと思う。そこまで言うなら私だって素晴らしい握り飯を作ってお披露目してやるから。このまま黙って引き下がるわけにはいかない。私って結構負けず嫌いなのかもしれない。
最初に手掛けたおにぎりは無残にも塩水の大量投入してしまったせいで、ベチャベチャになってしまった。この反省を生かしながらもう一度おにぎりを握る事に挑戦しようと、塩水を今度は少なめにつけて炊飯器から手におさまるぐらいの量のお米をすくい上げるように取る。優しく握るけれども力強く、気合と根性をこめて握る。これは基本。外はしっかりしているけれども、中はお米本来のふわふわ感だすように丁寧に握る。握っている間は颯馬さんも何も口出しはしなかった。台所は私がお米と握る音しか聞こえなく静かな空間と化していて、正直息が詰まりそう。
そしてようやく小さからず大きからずといった丁度良い大きさのおにぎりが一つ出来上がった。一つしか出来なかったというのは、情けないと思う。でも自分で言うのも何だけれど、結構形も味も今までそんなに料理なんてした事ないけど、料理してきた中で一番の出来だと思う。何と言ってもやはりまずはこのスパルタ指導者の審査を聞かない事にはまだ分からない。まさに緊張の一瞬。
「ど、どうですか?」
「とりあえず形はまぁまぁなんじゃねぇの。味はまだ分かんねぇけどな」
私の手掛けた握り飯をひょいっと手にして、じろじろと眺めている。颯馬さんはニヤリと憎らしく笑いながら、おにぎりを手にして口に放り込む。よく味わうように長い時間噛んでいる。ってこれ何の料理番組?
「さっきのベタベタなおにぎりから、随分上達したじゃねぇか。それとも俺の指導が良かったのか……」
悔しいけれど、確かにその通りとしか言いようが無い。塩水の加減とか握り方とか、きっちりとしっかり教えてくれたのは颯馬さんで、颯馬さんのおかげ。でも少し颯馬さんをからかってみたくて冗談を言ってみる。何でもいいから仕返ししたかったから。
「私の実力です」
「どの口がそんな事言ってやがんだ? ああ?」
「冗談です、颯馬さんのおかげです」
「素直でよろしい」
そう言って私の髪をぐしゃぐしゃかき回しながら、思わずときめいてしまうような笑顔を見せた。結局丸め込まれてしまい少し戸惑いながらも、自分の顔にある熱を冷ますのに精一杯になる。この人はどうやら頭を撫でるのが癖みたい。でも別に嫌っていうわけじゃない。むしろあったかくて心地良い。安心する。だけどうっかりと心にも無いことを言ってしまう。
「こ、子供扱いはやめてって言ってるじゃないですか。会ったばかりで時間も経ってないのに、少しなれなれしい気がします」
「しばらく一緒に住む訳だから、むしろ馴染んどかなきゃあれだろうが」
確かに颯馬さんの言う事は一理あるのよね。多分、これからもっと颯馬さんの家にご厄介になってしまうかもしれない。もしかしたら死ぬまでここに暮らしているのかもしれないし、わりと早くここから出て行く事になるかもしれない。まあ、その時になってみないと分からない事の方が多いけど。でも今はそんな難しい事はあまり深く考えたくないかも。だって今、自分でも分かるくらい退屈してない。むしろ楽しいとすら思っている。それだけで充分じゃないって考えているのは私だけなのかな。
ぼんやりと考え込んでいると、颯馬さんの顔が私の顔を覗き込むように見てくる。ていうか何かすごく顔が近いのは私の気のせいかしら?
「な、何ですか……?」
後ろに一歩ずつ後退りしながら、颯馬さんと距離を置く。焦っている私にお構いもせずに、そんなに顔を近づけられても困るから。
「そろそろ着物買いに行きてぇから、さっさと準備しろ」
「あ、そ、そうですね」
あ、ああ、なんだ、びっくりさせないでよ。一瞬何かと思っちゃったじゃない。自分に対して恥をかいてしまった。そういう変に思わせぶりな行動も本当にやめてほしい。
「どうした? 顔真っ赤だぞ」
ニヤニヤと笑ってくる。まるで意地悪に成功したかのようなやりきった表情をしていた。もしかして確信犯? 一瞬の疑問が確信に変わる。またからかわれたとしか言いようがない。やっぱりいつかぎゃふんと言わせたいんだけど。
「き、着物買いに行くんでしたっけ? なら、準備してきますね!」
声が裏返りながらも私は颯馬さんから逃げるように、台所を抜け出し洗面所に向かった。熱くなった顔の温度を冷めるべく、顔に冷水をぶっかける。付着した水をタオルで拭き取り、「はぁ……」と一つ小さな溜め息をわざと吐く。こうすれば少しは冷静になって落ち着けると思ったから。
何か、さっきから本当に自分自身が保てなくなってるかも。颯馬さんのペースにまんまと巻き込まれている気がしなくもない。自分しっかりしなきゃ。気合を入れるために自ら自分の頬を両手でパチンと叩く。これは落ち込んでいる時や冷静になれない時に元気出す為のおまじない。自分で考えたけどね。
「よし!」
「なーにがよし、だって?」
「うわあああ!」
いきなり後ろから声が降ってくる予想外の出来事に、思わず驚き奇声をあげてしまった。誰もいないと思ってちょっとした独り言を言ってたので、かなり動揺してドギマギする。うわー、恥ずかしいんだけど。
「声でけぇんだよ……頭に響くだろうが」
頭の後頭部を右手で押さえながら、露骨に嫌そうな顔をしている。何か二日酔いした人みたいな事言うね。声がでかいって言われても、あんたがその私の声をでかくした元凶だから。そこ間違えないで。
「だって、いきなり後ろから……ていうか何ですか」
「俺だって顔洗いぐらいするに決まってんだろ」
「あ、あ、そうだ……、ご、ごめんなさい。すぐにどきますね」
先ほどまで睡眠していた寝室に戻り、ぐしゃぐしゃに乱れた布団の上に正座で座り込む。寝癖で跳ねた髪を鏡を見ないで手ぐしで直してみる。ふと自分の右手首に目が行くと、ヘアーゴムが巻かれていた。何でこんな所にヘアーゴムが、と謎に思ったが私の中の記憶がその答えを出す。そういえば私、元の世界にいた時は確か髪の毛を後ろに高い位置で一つ結びにしていたはずなのに、ここの世界に来てからなぜか髪の毛は下ろしてあってゴムは何故か解かれていた。律儀にちゃんと自分の手元にあるのがやっぱり謎のままなんだけど。颯馬さんが顔洗い終わったら、洗面所の鏡見ながらいつも通りにポニーテールにしようかな。といってもいつもその髪形だから、そうしないと自分自身しっくりこないかも。それに私髪の毛が長いから、下ろしているとかなり邪魔だったりする。
颯馬さんが顔を洗い終わったのかこちらに向かってきた。私が髪の毛をいじくっているのを見て、何してんのかと思っているように不思議そうな顔に変化する。
「何してんだ、お前」
「え? いや、いつも結んでいるので、髪下ろしていると違和感が……」
「結んでやろうか?」
意地悪く笑う颯馬さんを無視して、鏡が存在する洗面所へと逃げる。手ぐしだからきっと髪の毛がぐちゃぐちゃに絡まるけれど、結ばないよりかはきっと大分マシだと思う。とりあえず早く結んでしまって、着物を買いに行く準備をしよう。
髪を全体的に水で少し濡らして馴染ませ、結びやすくする。頭の後ろに高い位置まで髪の毛を一つにまとめて、ゴムで軽く巻くように結ぶ。少しボサボサな気がしなくもないけど、多分そんなに目立たないよね。
髪の毛を整え終えると、また歯磨きをする。何だかんだで歯磨きは食事する前に一回、商事後にも一回歯磨きしないと何故かすっきりしない。自分はそんなにきれい好きな方ではないのに、朝に歯磨き二回するのはどうしても外せない。口の中の泡をうがいでゆすぎ、口の中がすっきりしたところで行く準備が出来てしまった。
「颯馬さん、私は行く準備出来ました」
「俺もすぐ行くから、玄関で待ってろ」
颯馬さんの指図通りに、玄関まで足を動かす。靴を履いて、外に繋がる扉を開けてみる。やっぱり二、三回この外の異様な景色を見ても慣れることは出来ない。未来と過去が混ざり合ったような在りえない光景。高層ビルなんて元いた世界にもあるのに、このアベコベな世界で見るとまた新鮮に見える。しばらくは一人で出掛けるとかは不可能だろうな、と残念そうにしていると、後ろからかすかに足音が聞こえる。その足音は段々、確実に大きくなっていく。もちろんその足音の正体は、
「じゃ、行くか」
髭をちゃんと剃ってきた颯馬さん以外の何者でもない。現れるのと同時に私は外の世界へと足を踏み出した。