日清戦争 -23 戦地帰還
元山(朝鮮半島東部の港湾)
1894年8月25日
史実では27日に元山に上陸した第3師団の半数の一部は史実より2日早く史実よりも多くの日本人人夫と共に上陸した。作戦目標たる平壌へ向けての進撃を開始した。
この中には負傷し、後方に送られたが、志願してまた戻ってきた田中義三一等卒も含まれていた。
田中一等卒の復帰はタイミング的な問題(第5師団主力の輸送時期に遅れた) 関係で第3師団の兵の第1陣の元山支隊への合流となった。
ただし彼自身、この時点での戦闘能力を全く期待されていない。何しろ負傷も完治していない病み上がりの兵士であるためである。
そこで彼はまた輜重兵として日本人人夫の指揮をしている。そこで用箋挟をもって走り回っている。
そこには不思議なものがあった。
開けるな危険と書かれた4斗樽だった。それも20では聞かない数だ。それは田中義三が一人の老人を除き、他人にかかわらせないように管理している。
「中は液体。危険じゃぞ。かかったら一生ものの火傷、目に入ったら失明、蒸気を吸ったら下手したら死ぬじゃろうな」
荷役人夫は老人に言われた。それが何か、それで何をしようとするかを聞いた時、田中が駆け込んでくる。そして余分に食料を握らせる。口止めらしい。
「これは戦局を決定する力です。」
不思議に思った元山支隊長の佐藤大佐にはそう説明した。川上参謀次長の命令書もあり、佐藤は何も言わない。
樽は厳重に荷車に積まれた。それは現地調達が困難で誘爆の恐れがある弾薬類よりも厳重に積み込まれた。荷役の人夫は朝鮮人と、それを指揮する者たちはあえて老年者や家長になる可能性のない次男以降や家族のいないものがあてがわれ、弾薬とは別系統の危険があるような物質であることが知らされたうえで破格の給金が積まれた。
これも確実にこの物資が運ばれる必要があるためである。
そして、元山支隊は到着した部隊から順次、出発した。目標は 平壌 20世紀後半には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) の首都となる都市である。
平壌 南 第9混成旅団 主力
1894年 9月12日
平壌付近へ一番乗りした部隊はかつて田中が所属していた部隊。第9混成旅団だった。他の支隊に兵を回したためにこの時点の兵数4000程度である。
さらに師団主力としてさらに4000、支隊として2000、第3師団から元山に上陸した2000。合計1万2000それが日本軍の総兵力だった。
問題は物資と敵兵力。
その一方、清国軍の兵力は日清戦勝初戦の陸戦、牙山の戦いでの敗残兵を含め、中国本土からやってきた総計1万5千。
物資…特に食糧は極めて不足していた。下手に食料を朝鮮人人夫に運ばせると持ち逃げされる。故に朝鮮在住の日本人を動員するも、人員の絶対数が不足する。
「朝鮮半島の軍事行動には船か鉄道が必要です。さもなくば本国から人夫の派遣が必要」
川上参謀次長に送られたある輜重兵の私信の内容である。
敵に兵の利・物の利…そして平壌は川と地形と城壁を有効活用した城塞都市という地の利。きわめて優位な状況だ。だが圧倒的に将の利は清にはなかった
しかし、この清国側では籠城して徹底抗戦する将軍と朝鮮を放棄して十分な補給が受けられる本土での持久戦を主張する将軍との意見対立が深刻だった。
ただし、この双方が目していたのは持久戦だった。日本との戦いを長引かせることにより、欧州諸国の介入を待つというのが根本にあった。
日本が列強の介入を恐れていることは見透かされていたということは否めないだろう。更に、日本が攻めあぐねていると見えた途端、朝鮮政府は既得権益守護のためにも清国側に寝返る可能性も高い。
実際に朝鮮政府の裏切りは見え隠れしており、日本はそれを抑えるために早急な清国主力との戦闘による勝利を求めていた。




