少年期-1 広島の生活
田中義三とその兄義二は実家の状況が悪かったので地元から脱走した。
昼間は追跡を撒くために潜伏、交代で休み、夜間に移動。これを繰り返すこと数日。ようやく街にたどり着いた。
広島市 芸備日日新聞社
「義三…ここだ。」
田舎の農民の子であることがまるわかりの服を着た2人の子供はある商店の前に立つ。
そこには日本の新聞を読む若い店員がいる。
「ごめんください。僕たちを丁稚にしてください。」
店に入って店員にすぐに声をかける。若い店員は一応話を聞いてくれる。目線には侮蔑交じりではあるが。
「無理だね。ここは暇じゃないんだ。何度も倒産しかかってようやく安定してきたんだ。君たちを置く余裕はないよ。それに小汚い君たちを雇う理由はない。聞いてみれば親もいないではないか。」
店員の発言に兄の義二が一歩前に出るが、義三はそれを肩に手をかけて止める。
「申し訳ありませんが、能力を見ずに決めないでいただけませんか?」
義三は感情を殺した笑みを浮かべながら新聞を見る。
「フン。親なしが新聞でも読めるわけなかろう」
馬鹿にした目線、口調が目に付く。
「試してみますか?それに親なしではありません。家捨て親捨ての身です。そちらも丁稚を雇う際の代金がいりません。家捨ての身には逃げ場はありません。それに雇う判断はあなたがするものではないかと。」
兄が物理的暴力に打って出ようとするが弟は言葉の暴力を仕掛けてくる。
「なら古い新聞をくれてやる。」
従業員は裏に行くと1つの紙を突き出す。
「外国の言葉ですね。日本のものをください。あと、英語…教えてくださいね」
この意地の悪い従業員はあえて日本の新聞を持ってこなかった。田舎の住民には読めるわけがない。
「おい義三。この店員自分じゃこれ読めんのに押し付けてきたんか?」
義二の言葉に周りの失笑が聞こえる。
外国語が読めないことはこの店員も同じだろう。そうでなければ英語の新聞を読んでいるはずだ。広島は芸備日日新聞社の前身ができるまで近代的な新聞文化が全くなかった。日本の新聞といえば鉄道で運ばれる他の新聞だ。だがそれは表立って読むわけがない。商売敵の製品を使うわけがないのだ。
「読めないことは変わりないのであろう?さあ!!帰った帰った。」
店員が怒ったように追い出す身振りをする。
さすがに子供に言い負かされて暴力に打って出るのであれば彼の立場はない。
「そうですね。丁稚を選ぶ権限のない人間に言っても無駄です。また来ますね。」
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「という話があったのですよ。速水さん。」
この時代、新聞配達システムはできていなかったので郵便で新聞は届けられていた。だが現在のように店売りをする場合もあった。この店売りは上客だった。
2人には運がいいことにその店売り先の店員がその場に居合わせていた。当然のごとく、その話は店売り業者の上役に伝えられる。
「そうですか。面白いですね。」
特に芸備日日新聞社はその傾向が強かった。ほぼ完全に販売に関して外部委託のような形式をとっていた。
「その2人面白い恰好をしていましたね。さすがに店内に入ってきたときは外していましたが、片目を黒い布でふさいでいるのですよ。外していた時も片眼は開ける様子はありませんでした。あと、兄は年にしてはおとなしいでしょうが、弟は異常です。」
広島市中区大手町 (現在の相生橋付近)
田中義三は川を見ていた。偉いさんの情報を集めるために見張りを立てているが、芸備日日新聞社前に2人であれば12時間交代で見張りに立てる。交代は正午と真夜中の0時。移動に1時間をかけても10時間は休める。そして仮眠を加味すれば河原にいることができる。
ここは未来を生きた日本人にとっては考え深い場所だ。この時代、跡形もないが、50年後にはここに原爆ドームが出来上がるのだ。
つまりは原爆の爆心地付近…原爆で更地にされたことで全く違う風景が見える。
「まさかここが…」
義三はその先を何とか止める。周りに人眼が多い。その目線は怪奇なものを見る目線だ。当然だ。片目を布でふさいでいる様子は目立つ。
さらにここは交通の要所。原爆の照準となった相生橋こそないが、広島鎮台の兵士が訓練場に移動する際の通路となる道路や橋のある場所だ。人通りは十分にある。だからこそ起きた出来事がある。
「君見ない顔だね。」
声をかけられることだ。これが官憲ならうまくやり過ごす。だが、声をかけてきたのは壮年の男性だった。
「ハイ。ここ最近、田舎から『逃げて』きました。」
あえて特徴的な表現をする。それは声をかけてきた男への答え合わせのようなものだ。親をこの年で捨てる…相当ひどいことをされたのだろう。その表現を使う理由は十分にわかる。
「君…もしかして芸備日日新聞社で騒いでいた子かな?」
義三は笑みを浮かべる。どうやら正解だったようだ。
「見ていらしてたんですか?騒いだ甲斐がありましたよ」
目的は達成した。どうやら目的の人物に会えたらしい。芸備日日新聞社の上層部の人間に。
「話したいことがあるのでいいかな?」
相手の男は引きつった笑みを浮かべている。
「兄を呼んでからならいつでも構いません。芸備日日新聞社を見張っているので呼んできます。」
驚いた表情。そして笑みで答えが返ってくる。
「馬車を待たせている。すぐに迎えに行くぞ。」
異常…確かに異常だ。
速水は義三と話していて確信を持った。確かにここまで策を弄せる人間はいるが、この年でなると話は別だ。芸備日日新聞社の前で騒いだことも計算づく。そこで丁稚になれずとも容姿を覚えてくれる人間を探す。そのためにもあえて印象的な容姿をしたうえで目立つところにいる。そうなれば簡単に見つかるだろう。
声をかけられた時もあの時現場にいた人間もしくはいた人間から話を聞いた人間でしかわからないことを聞くことで対象を判別する…
さらに体が大きい関係で分かりづらいが、話を聞けば当の本人は10にも満たぬようだ。驚きしかない。
そして人体への理解…暗順応なるものをして夜間にできる限りの勉強をする…明らかに異常だ。
「読み書きがある程度できるからただの丁稚では嫌だったと?」
言い分を聞いて思ったことがふっと口から出た。
「頭のいい子ほど…高く売れると聞きました。それが糞親父や屑兄の酒代に消えるのは嫌でしたしね。」
確かに通常の店ならすぐに手習いは卒業だ。そして扱き使われた挙句、給金はほぼ出ない。そして浮いた金は事実上、親の酒代に消えると思えばいやになる。それこそ仕打ち次第では家を捨てる判断をするには妥当な線だ。
「君の利益はわかった。では我々の利益はあるのかな?無論君という人間を雇うこと以外にだ。」
かなり難しい話だろうが、この子ならば…答えがあるやもしれない…芸備日日新聞社の経営は危ういのだ。
「新聞屋さんは…機械を使って新聞を作りますが、その機械は常に動いているわけではない。整備では当然止めるでしょうが、そもそも作るものがなければ動かすことはしない。そこでその空いている時間、他の物を作って売れば動かせるのに動かない無駄な時間を減らせる。」
その答えを彼は持っていた。確かに新聞印刷は動かさないタイミングがある。そこの有効活用は課題だ。
ただこの時点で芸備日日新聞社には自前の輪転機はなかった。彼自身は導入を検討していたが。いざとなれば版元への交渉材料にはなる。
「確かにそうだ。では何を売る?」
速水は驚きも相まって返答をするのに遅れる。その間にも義三は紙を取り出す。もとは新聞。だということはわかる。そこにはいくつものコマに分かれた絵が描かれていた。それが複数枚。
「白黒の画なら可能ですよね。ならばそれを物語にして冊子にまとめられます。それを販売する。私の意見です。」
「生きるためだ…仕方がない…」
田中は一人覚悟を決める。彼は未来に流行った作品をも知っている。その作品がこの時代に流行るかわからぬが、あまり先進的な作品は相手にされない。
だが、この時代の作風がわからねば未来の記憶を頼る以外に道はない。しかも自分が言い出したこと。成功させるために必要なことだ。
「かといってこの時代にあり得るもの…それはなしだ。SFにならん…その条件に当てはまる作品で、短編なのは…あれかな…」
作品を思い出す。無論、自作ストーリーも付与してだ。さすがに丸パクリはできない。
「作品名は桜花…申し訳ありません…」
作中…登場人物がパクった作品に関してはご想像にお任せします。短編でこの時代に合いそうな戦争系の作品がこれぐらいしか思いつかなかった。
なお、当の本人が描いた作品について長編作品は歴史系統が多いことにしておきます。さすがに丸パクリはあまりしたくないとの本人の意思より。
ただし当の本人は歴史小説を書くことにして大喜びしている模様。特に幕末作品では生きている人間が多いので…