日清戦争-01 出兵の時
5月末 朝鮮反乱発生からおよそ3か月。収まる気配なし。日本は朝鮮改革派の情報網を持つが、彼らは軍人ではない。純軍事的な判断は信用が置けなかった。ゆえに軍人を密偵として派遣した。伊地知 幸介砲兵少佐は30日に帰還。報告は「朝鮮政府に鎮圧能力なし。清国政府軍の派遣がありうる」だった。
さらに朝鮮漢城の大使館からも清国軍が朝鮮政府の要請にて出兵されるとの情報をつかむと同時に日本も出兵を決める。その戦力は1個旅団。しかし、編成を戦時編成とした。これにより兵力は2千から7000ほどに増大した。しかし、戦時編成にするために平時においては兵士ではない予備役兵を呼集。いわゆる動員を行っている。そのために数日ではあるが、派遣が遅れている。
そのために、あまり知られていないが、朝鮮出兵の初動は大使館の警護を名目とした海軍陸戦隊や警官隊が主力となったおよそ430名が最先鋒であった。
「絵描き!!戦場送りたあ災難じゃん。」
しかし、この物語の時系列では若干違う。20名ほどの陸軍兵士と30名の海兵が追加、最先鋒は480名となった。全員が第5師団で、全員が兵役中の訓練兵であった。
「災難じゃの…まだ兵役から4か月…と聞く。死ぬなよ。」
その20名に田中義三が含まれていた。
「仕方ないよ…輜重兵が足りないんだ…」
この1個旅団は現地の兵站状況を加味して輜重兵を厚くした。だが、輜重兵に使える学のある兵士など少ない上にいたとしても市中にいる。召集まで待てない。
そこで若年すぎるが田中義三は戦地に送られることになる。これには優秀さが士官にも伝わっており、彼の発言も取り入れられた結果である。特に「兵役中の兵士を引き抜き戦地に送る」という発言で、墓穴を掘ってる。発言者は発言者らしく戦場に行けということだ。
「上陸だ。」
彼らを乗せた軍艦は仁川港に入港した。6月10日午前2時のことだった。
同日7時不休の行軍をしていた海軍陸戦隊は漢城に到着。現地は平和だった。




