笹団子とたけのこ汁
翌日の仕事は、いつもの3倍のスピードで片付けることができた。
就業後に楽しみがある。それがどれほど私の原動力になっただろう。
「月見。例のパンフのチェックどうなってる?」
進捗確認に来たのは、制作部リーダーの濱さんだ。
30代後半のベテラン。社内でもエース級のデザイナーで、私も勿論尊敬している。
ただ、彼は仕事第一で職人気質なところがある。いつもなら彼の来襲にビクついてしまうけど、
「はい!!終わってます!
修正箇所にはピンクの付箋、指摘箇所には青い付箋を貼ってますので、ご確認いただけますかっ?」
いつも以上の満面の笑みで、濱さんに校正紙の束を手渡した。
案の定、彼はちょっとビックリしている。
「今日はやけにご機嫌だな?
なんだ、この後デートでもあるわけ?」
「えっ!」
デートというワードに、私は不要なくらい動揺してしまう。
予定はある。断じてデートじゃないけど。
でもそれを詳しく説明する必要はないと判断した。
「…の、飲みに!飲みに行くんですよ!
他の部署の飲み会に誘っていただいて!」
飲みに行くのは本当だ。ただし行くのは私一人。
冬至さんと大江山の提灯が、今夜も私を待っている…はず。
「へぇ…。ホント大酒飲みな上に食い意地張ってるのな。もっと女らしくなれよな。
飲み歩きも結構だが、仕事の質だけは落とすなよ。営業の凡ミスが後工程に響くんだ。」
「…ウッ、はい…。」
濱さんはチクリと言い残し、校正紙を掴んで引き返して行った。
「…はぁぁ、良かった…!」
思ったより早めの解放に、重い溜め息が漏れる。
時刻は21時過ぎ。業務の終わりが見えてきて、私の心は浮き足立った。
これから大江山に飛んで行けば、終電までゆっくりお酒とご飯を堪能できる。
久々の高揚感。知らず知らずに、笑みが溢れた。
けれど、
「ーーーあ、月見。
飲みに行くほど暇なら、別で頼みたい案件があるんだけど。今から。」
さっき退散したはずの濱さんが、校正紙を握りしめたまま戻って来た。
今日一番イキイキした顔をしている。彼の仕事熱心さのおかげで、弊社は高水準な品質を維持出来ているのだから、ありがたいことだ。
「……えっ、あ、ハハ……。
ハイ、喜んで……。」
ーーー終わった。
私は本能的に察した。
きっとこの後はいつものように、濱さんが山ほど抱える案件の手伝いを命じられるのだ…。
あぁ……時計の針が急速に進んで行く。
***
時刻は昨日と同じく0時。
私は馬車馬も真っ青な働きぶりを発揮したせいで、会社を出る頃には疲弊しきって、ヨロヨロと覚束ない足取りになってしまった。
「……はぁ…。
断っておいて正解だったな。」
スマホのメッセージアプリを開く。そこには今日の18時頃、友人である凛花と交わした履歴が表示されている。
《美郷おつかれ!
仕事で美郷の会社近くに来てるんだけど、良かったら20時から飲まない?》
《わーごめん!まだしばらく残業〜泣
また誘って!》
《そっか、了解!
忙しいかもだけど、無理しちゃダメだよ!
美郷は頑張り過ぎるからね。》
凛花は会社は違えど、同じ業種で、お互い同じ営業職だ。社会人になってからも時々こうして飲みに誘ってもらえる。
結局いつも残業を理由に断ってしまうんだけど。私のことを気にかけてくれるのはありがたいやら、照れ臭いやら。
「…ふふ、大丈夫だよ。
私は元気なのが取り柄だからね。」
0時を過ぎても、私の行き先は変わらない。
駅へ続く繁華街を少し歩き、脇道を注視しながら進む。
ぼんやり光る赤提灯を見つけたら、それが目印だ。
「あった!」
昨日と同じ場所に、同じ赤提灯があった。
路地裏も「テッペン横丁」の名を冠した門も、その最前線で温かな光を放つ居酒屋も。
私は吸い込まれるように、大江山の戸を開く。
そして、今日一日ずっと待ち侘びていたあの声を聴くのだ。
「いらっしゃい、月見さん。」
カウンターの向こう側。頭に手拭いを巻いた、体の大きな冬至さんが、私に気づくなり声を掛けてくれる。
初対面時はちょっと怖かった吊り目が今はほんの少し和らいでて、私はその顔に見惚れてしまう。
「こ、こんばんは!
また、来ましたっ!」
この日私が注文したのは、生ビールと焼き鳥の盛り合わせ。
つくねにねぎまにレバーにモモ。全部塩で。
添えられた柚子胡椒も、疲れた胃に負担をかけすぎず労いの力を与えてくれる。
「んん…おいひぃ……。
…あ、ビールおかわりください。」
「はいよ。」
ビールをいつもよりハイペースで空けると、今日も良い感じに酔いが回ってきた。
まだ手持ちの大ジョッキには、ほんの少しお酒が残っているけど、すぐに飲み干してしまうから早めに次を注文する。
「月見さんは酒強いんだな。
気持ちの良い飲みっぷりだから、こっちまで喉渇いてくるよ。」
新しい大ジョッキを差し出しながら、冬至さんが少し嬉しそうに言った。
「父が青森の人で、母が沖縄の人なので、その血を受け継いだのかも。」
「…すげぇ。サラブレッドだ。」
「へへ。それが仕事で役立ってて、上司からも“営業は飲むのが仕事だ!”って言われました。」
今こうして冬至さんのご飯を美味しく楽しく頂けている。お酒が飲めなかったらこんな出会いも無かったから、私の酒豪ぶりはきっと意味があったのだ。
「じゃあ、そのうち日本酒や泡盛にも合う飯を出してやるよ。飲める?」
「はい!もちろん!!
うわぁ、楽しみだなぁ!」
「けど、無理は禁物だよ。特に疲れてる時は、大好物でも我慢しなくちゃな。」
そう言うと冬至さんは、お酒ではなく小ぶりなお皿を出してくれた。
その料理は、ふっくらとした三角おむすび2つ。お米には刻み大葉やおかかが混ぜ込まれていて、見ただけで絶対美味しいやつだと分かる。
「わあ…!」
それだけじゃない。次に漆塗りのお椀が出て来た。
中身は、色んなきのこが入った白味噌のきのこ汁。疲れた体にこの組み合わせは…!
「美味しそうっ!受験の夜食を思い出す!」
「サービスするから、いっぱい食べなよ。」
「え!?
…い、いえ!ちゃんとお金払います!」
昨日もご馳走になったのに、こんなしっかりめの食事までいただくわけにはいかない。
「これは俺からのお礼というか、約束のご褒美っつーか。まあそんなとこ。」
「…私、何かしましたっけ?」
「常連になる約束。
月見さん、ちゃんと守ってくれたろ?」
昨日のアレのことか。ほろ酔いの勢いに任せて、大江山の常連になると約束した。
約束は約束だ。それに私自身、お酒と、冬至さんの作るご飯と、何より冬至さん本人を楽しみに24時間頑張ってきたんだ。
だからむしろご褒美を貰いすぎな気がするのだけど…そんなことを常連2日目の客が言うなんて引かれるかもしれないから、黙っておく。
「…あの、冬至さん。昨日の…、」
「ん?」
昨日の出来事を思い出す中で、私の視線が無意識に、冬至さんの額へと注がれる。
それに気づいた彼は、巻いていた手拭いをあっさりと外した。
そこにはやっぱり。
南部鉄器に似た質感の、小さな角が二本。
「酔い夢なんかじゃなかったろ?
俺は鬼だよ。」
冬至さんの悪戯っぽい笑みも相まって、私の心臓がドキドキうるさくなる。
「鬼って、令和の時代にもいるんですね。
なんか感激。」
我ながら酔いどれ頭を捻って出た返答がそれかい。
「ああ、いるよ。妖怪って呼ばれたものは。
ただ少しずつ形態を変えてるだけ。」
冬至さんはごく自然な話しぶりだ。
でも、鬼だなんて。妖怪だなんて。
シラフなら真っ先にお店から逃げ出したかもしれないけど、酔いが回った私は椅子から立つことはない。
だって、おむすびもきのこ汁も、まだ美味しそうに湯気を立てているんだから。
「んじゃ、月見さんの飯の肴に、俺が面白い話をしてやろうか。」
お酒は一旦おあずけ。
ほかほかのおむすびを口に運びながら、私は夢見心地で冬至さんの話に聞き入る。
大昔から日本中に存在してる妖怪達は、人々の畏怖を集めることで、その力と姿形を保ってきたらしい。まるで信仰を集める神様みたいに。
でも時代が変わって、科学技術が進歩していくと、妖怪の存在は何かと理由を付けて否定されるようになる。
川辺で小豆を洗っていたって、小石の流れる音か、はたまた草木の揺れる音か、別の理由を付けられる。
妖怪達は人間の畏怖を集められなくなって、だんだんその姿を消していった…。
でも存在が消えたわけじゃない。
逆に妖怪達が、人間社会に上手く馴染んでいったのだ。
人間そっくりに変化して会社員を務める者もいれば、自分でお店を開いてお客さんを相手する者もいる。冬至さんみたいに。
お酒と美味しい物が好きな冬至さんは、せめて人間社会に疲れた妖怪に憩いの場を提供しようと、この居酒屋 大江山をオープンした…という経緯だそうだ。
「…へぇ、妖怪も頑張ってるんですね。
私も新卒1年目の頃は、右も左も分からなくて苦労したなぁ…。」
「はは、お互い大変だよな。
“妖怪”って呼び方も、今じゃ時代遅れってんで使う奴は少ないよ。
見た目は人間と変わりないから、俺達は“あやしいひと達”って呼んでる。」
「あ、あやしいひと…?」
妖が転じたんだろうか。そんなフワッとした呼び方じゃ、かつての妖怪的威厳はすっかり丸くなってしまったのかもしれない。
「じゃあ、冬至さんも妖怪じゃなくて“あやしいひと”なんですか?」
「そ。頭に角引っ付けてる男なんて、あやしいだろ?」
言いながら、額の黒い角を指でツイッとなぞる。その仕草が可愛くて、私はおむすびを持ったまま笑った。
「……ん?」
しかし、そこで引っ掛かりを覚える。
「冬至さん。
ここってあやしいひと達のためのお店なんですか?」
「うん。大江山だけじゃなくて、テッペン横丁そのものが、あやしいひと達のための商店会だよ。」
思わず、食べかけのおむすびをお皿に落っことしてしまう。自分が今とんでもない場所にいることに気付いてしまったからだ。
せっかく回ったほろ酔いも一気に覚めていく。
「…あ、あの、私急に仕事を思い出して…、」
お財布を取り出そうとした私の手が、カウンターを乗り越えた大きな手に掴んで止められた。
その手の主は、冬至さん以外にいない。
「……と、とうじさ……?」
「月見さんは、静かに食事続けてて。」
低い囁き声。冬至さんの視線は私ではなく、お店の出入り口へと注がれている。
約3秒後、閉じられていた引き戸が勢いよく開かれた。
「冬至ちゃーん!!来たぜー!!」
ハイテンションな声と共に入ってきたのは、高そうなスーツ姿に真っ白な髪の、怪しげなお兄さんだった。
離れてても分かる香水のにおい。私はとっさにおむすびときのこ汁を腕で隠し、においから守った。
「虎ノ門さん、いらっしゃい。」
冬至さんは慣れた様子で、香水お兄さん…虎ノ門さんをカウンター席へ着かせた。
その際さりげなく、私と私のご飯達を、カウンターの一番隅の席へと避難させてくれたのがありがたい。
「は〜〜やっぱここだわ。実家感あるなぁ。
あ、冬至ちゃん!いつものちょうだい。」
虎ノ門さんは全身を伸ばして寛いでいる。
口ぶりからして常連みたいだ。
冬至さんは調理場下のケースから、オーダーされた“いつもの”を取り出す。
何だろう?高いワインとか、ウイスキーとかかしら。
「はい、笹団子ね。
虎ノ門さん、これ好きだね。」
提供されたのは、笹の葉で丁寧に包まれた新潟県の名産品だった。
北陸物産展以外で見たの初めて…。
「これ!これだ〜っ!!」
虎ノ門さんは慣れた手つきで笹を剥くと、中のお団子を美味しそうに食べ始める。
派手な格好に反して、笹団子を両手で持って食べる姿はとても素朴だ。
それにしても、もっちもちに蒸されたお団子のなんて美味しそうなこと…。
まだ手元に冬至さんのご飯が残ってるのに、私は笹団子を見つめて思わず生唾を飲み込んだ。
「んあ?」
よほど盛大な生唾音だったのか、笹団子に注がれていた虎ノ門さんの視線が、私のことを捉えてしまった。
「あれ?お姉さん見ない顔だねぇ〜!
この辺のひと?ウチの店来たことある?」
「え!?」
虎ノ門さんは笹団子を食べてご機嫌になったのか、離れていた座席を横スライドして一気にこちらへ詰め寄ってきた。
あ、近づくと笹の葉の良い香り。
「こんな激シブ居酒屋に若い子なんて珍しい〜!え、ナニ、冬至ちゃん目当て!?」
「エッ!?…イヤイヤ!」
出会い頭に図星を突かれたものだから、私は全身で否定のポーズを取ってしまった。こんなに詰め寄られては、完全に主導権を握られてしまう。
「…虎ノ門さん、あんまり他のお客さんに絡まないでくださいよ。まだ食べてるんだから。」
不機嫌そうな冬至さんがやんわり釘を刺してくれるけど、虎ノ門さんの目は狙いを定めた猫のように、私から逸らされない。
「オレ、表の繁華街のホストクラブ “moon over” で働いてんの!
虎ノ門ね!もし店来たら指名ヨロシク〜!」
「え…あぁ!なるほど、ホストのひと。」
虎ノ門さんはさらにグイグイ詰め寄り、「お近付きのしるしに」と握手を求めた。お団子でペタペタになった手を握るのはさすがに抵抗がある。
…でも営業職たるもの、初対面は大事にしなければ。
当時教育担当だった先輩の教えを守り、私は得意の営業スマイルで、虎ノ門さんの握手に応えようとした。
「虎ノ門さん、頼みます。マジで。」
気づけば、私の手には新たな湯気を纏う、きのこ汁のおかわりが握られていた。
握らせたのは他でもない冬至さんだ。
吊り目をさらに鋭くさせて、虎ノ門さんを牽制している。気を遣って止めてくれたんだ…。
「え!?オレ迷惑だった!?
ごめんて!ただ笹団子の肴にお喋りしたかっただけなんだって!」
虎ノ門さんはその場でシュンと大人しくなり、お団子の残りを頬張り始めた。
私もこれまでの居酒屋経験から、居合わせたお客さんと喋るのはそんなに抵抗無い。
まだほんの少し残っているビールのジョッキを持って、ちょっと勇気を出して話しかけた。
「私、月見と申します!常連2日目の新人です。虎ノ門さん、どうぞヨロシク!」
「え……。」
一瞬、虎ノ門さんが固まる。
そしてひとつ瞬きをした次の瞬間には、彼の体は2倍以上に膨れ上がっていた。
「!?」
スーツのジャケットをはち切れさせて現れたのは、白いふかふかの体毛と、黒い縞模様。
2mはありそうな長い尻尾と、私を見下ろす大きなふたつの黄色い目玉。
人間の姿だったはずの虎ノ門さんは、一瞬でホワイトタイガーに姿を変えたのである。
「………!!!!」
私はビビって言葉を失う。
当然だ。ホワイトタイガーなんて那須の動物園でしか見たことない。それがまさか人の姿からいきなり変身するだなんて。
私の胸中を察してか、厨房の冬至さんがブチ切れ5秒前の形相を見せる。
ーーーダメ!ダメよ美郷!先輩に教わったでしょ!
例え得意先のお客様の鼻から一本毛が出ていたとしても、顔色ひとつ変えちゃダメ!
相手様を不快にさせない!それが鉄則!営業職の誇りを冬至さんに見せなくちゃ!
「…え、えへ。へぇぇ。
き、綺麗な毛並みですね…?」
私の鋼のメンタルは、結果的に正解だった。
虎ノ門さんは虎の姿のまま、顔をパッと明るくしたのだ。
「嬉しいなぁ〜月見ちゃん!!
この姿見たら大抵の奴はドン引きするのに!」
大きな肉まんみたいな肉球にふかふかと握手をされるのは、嫌な気はしなかった。いやむしろ、これはこれで良い…。
でも問題なのはこの後だ。
虎ノ門さんは私の手から、ほんの少し残ったビールのジョッキを掬い上げると、
「今夜は祝杯じゃ〜!!
大江山に新しい常連客が誕生したお祝いじゃ!!」
そう高らかに宣言し、少量のビールを一気に煽った。
「…虎ノ門さん、本当やめてもらっていいですか?」
そんな冬至さんの忠告も間に合わず、ビールを飲み干した虎ノ門さんがどうなったかというと…
「ヴッッブプ…!!!」
突然口元を押さえて、真っ直ぐ店奥のお手洗いへと駆け込んでしまったのである。
ドアが強く閉められ、微かに漏れ聞こえてくる凄惨な物音から、私は察してしまった。
「……お酒苦手だったんですね。
ごめんなさい。私悪いことしちゃった……。」
「いや。月見さんはマジで何一つ悪くないから、気にしないで。」
空いたグラスを下げながら、冬至さんは私に言った。
「今の虎ノ門さんがそう。白虎だ。
テッペン横丁に来られるのは基本、あやしいひとだけ。」
そんな場所になぜか来てしまった…いや、迷い込んでしまった者が一人。
「月見さんは、人間だよな?」
冬至さんの笑顔の奥に、私の思惑を見通すような鋭さを感じてしまう。
…ううん。思惑なんてあるもんか。
私はただ美味しいご飯とお酒が好きで、ここにいる。
冬至さんの笑顔に癒されたくて、ここにいるのだ。
「…に、人間だったら、私のこと…出禁にしますか…?」
今の私はひどく不安げな顔をしていると思う。
「いや。そんなことしないよ。
むしろ、料理が人間の口にも合うことが分かって、ラッキーって感じ。」
「へっ?」
冬至さんは少し身を乗り出して、やや高めの位置から、カウンター席に座る私の顔を覗き込む。
その目はとても穏やかで、まるですべてを肯定してくれるかのよう…。
「腹が減ってやって来たんなら、人間も人外も関係ない。俺のお客だ。
だから、たくさん食べて元気出しな。月見さん。」
「………。」
私はこのテッペン横丁を見つけたことを、心の底から良かったと思えた。
疲弊してガチガチに凝り固まった心が、どんどん柔らかく解きほぐされていく。
美味しいご飯と、よく冷えたお酒と、
「…わたし、…好き、です……。
…冬至さん………」
“冬至さん”に出会えて、本当に嬉しい。
「………の、ごはん…。」
「そうかい、ありがとう。」
しばらくして、やっとグロッキーが治ったらしい虎ノ門さんは、初対面の時と同じ人間の姿で戻って来た。ただし顔は痩せて真っ白だ。
私の隣の席にヨロヨロと腰掛けると、冬至さんがさりげなく、お腹に優しい緑茶を出してくれた。
「…アリガト冬至ちゃん…。
月見ちゃんも、迷惑かけてゴメン…。」
「…だ、大丈夫ですか虎ノ門さん?
ごめんなさい、私が煽っちゃいましたね…。」
「…いやぁ、浮かれ切ったオレが悪かったよ。
ホストのくせに、オレって下戸でさぁ…。
獣臭さを隠すために香水ガンガンに振るから嗅覚も年々おバカになってるし…。本当何やっても空回りって感じ…。」
さっきのハイテンションが嘘のよう。
虎ノ門さんは体質をすごく気にしているらしく、私の傍らに寄せ集められている空のジョッキ群を苦々しく見ている。
「…なんで可愛い顔してそんな飲めるワケ?
月見ちゃん実は蟒蛇妖怪だったりする?」
「エッ!?…や、これは体質で…。」
私の場合は職業柄、お酒に強い方が何かと得だ。飲みの席での話も弾みやすい。生まれつきの私の武器。
…だから、下戸の人の気持ちは考えたことがなかったな。
「…あの、お酒飲めなくてもいいんじゃないですか?
虎ノ門さん、人に好かれそうだし、一緒にお喋りするだけで楽しいでしょ?」
「お喋りだけで済むならいいけどさぁ…。
ホストだとどうしても酒が絡むから難しいのさ。
…バカって思うだろ?違う仕事探せばいいのにって。」
大変。ネガティブモードに入ってる。
こういう時私なら、細かい理屈抜きで肯定してほしいものだ。
「でも続けてるってことは、虎ノ門さんには今のお仕事が大切なんだ?」
虎ノ門さんは空のジョッキを睨んだまま、低く「ウン」と答えた。
「……畏怖、とはちょっと違うケド、皆オレのこと覚えててくれるからさ。
オレに会えるからって、女の子達は高い酒入れてくれるし。オーナーもオレの見た目気に入ってくれてるし。
オレはさみしー奴なのさ。
長いこと人間に忘れられてっとさ、自分が妖怪なのか動物なのか分かんなくなって、不安になるわけ。で、自分が必要とされるところに依存しちゃうわけ。」
「………。」
寂しい。不安。依存。
その負の気持ちのコンボに、私は覚えがある。ただ目の前の業務をひたすら片付ける流れ作業。本心を後回しにして笑う日々。
本来の自分が分からなくなっちゃう感覚。
「虎ノ門さんは、今幸せ?」
私の何気ない問いに、虎ノ門さんはちょっと考える間を設ける。
目を瞑ってウーンと唸って、その体を再び大きな白虎に変化させて、導き出した答えは、
「あ!幸せだわ!
酒で失敗することはあるけど、何だかんだ、ホストやってる自分好きだし!」
そう言う彼の顔に、しょぼくれた様子はもう無かった。
「オレらの寿命はなげーからね。
あと100年くらいは、今の店で頑張るつもり。そんでまた、人間達の畏怖を集めて大妖怪に返り咲くのが夢だなぁ!」
「ふふっ…迷いなく言えちゃうのイイですね。羨ましいなぁ。」
自分の役目に誇りを持ってる感じ。
今の自分が好きだと言える感じ。
未来を見据えた夢を抱いてる感じ。
それら全てが、心から羨ましかった。
「その頃にはオレだって、お猪口一杯分くらいの酒は飲めるようになってるはずさぁ!
ネッ、冬至ちゃん?」
「日本酒は度数高いっすよ。」
ちょっと元気を取り戻した虎ノ門さんに、冬至さんが新たなお椀を提供する。
きのこ汁とはまた違う香り。具沢山な汁物の中に一本、細長いたけのこが入っている。たけのこ汁だ。
「食ったらこの後また仕事でしょ。
あんま無理しないでくださいね。」
冬至さんの吊り目が、とっても優しい。
お出汁と同じくらいホッとするその顔に、虎ノ門さんは涙をブワッと溢れさせた。
つられて私も胸をときめかせた。
「…アリガト冬至ちゃん…!月見ちゃんも…!
たまにはこうやって自分を労わねーと、現代社会やってけねぇよなぁ〜!
お互い頑張ろうなぁ!」
巨大な肉球の手には、たけのこ汁のお椀はまるでお猪口だ。
乾杯のジェスチャーをとってくれた虎ノ門さんに、私もまたほかほかのきのこ汁のお椀で応えた。
「ハイ!頑張りましょう!」
***
笹団子とたけのこ汁で元気をチャージした虎ノ門さんは、竹林を抜ける風のようなスピードで大江山を後にした。
「表の繁華街のホストクラブか…。」
ホストはハマると危険だから来店はしないけど、今後仕事帰りにバッタリ出会すかも。それはほんの少しだけ、私の楽しみになった。
「騒がしくてごめんな、月見さん。
あんまり失礼なことしないよう言っとくから。」
「とんでもない!楽しかったですよ!
虎ノ門さん、最後まで私のこと蟒蛇だと思ってましたね。なんか光栄です。」
「そう言えちまう月見さんも、立派なあやしいひとだな。」
冬至さんに冗談っぽく言われると、案外「あやしいひと」呼ばわりされるのも悪くないかも…という気になった。
夜の住人に。冬至さん達と同じ存在になるのは、それはそれで楽しそうだ。
「虎ノ門さん、新潟出身なの気づいた?」
空いたお皿を片付けながら、冬至さんが言った。
「あぁ、はい!
笹団子とたけのこ汁で、何となく。」
つくづく、このお店はどんな料理でも出てくるんだなぁと感心する。
人間のお店ならこうはいかない。あやしいひと…妖怪が営むお店ならではだろうか。
「ふふ。郷愁を誘われたら虎ノ門さん、故郷が恋しくなっちゃいそうですね。」
「地元の竹林はもう開発されて無くなって、何年も前に上京してきたんだよ、あのひと。」
「え。」
私の何の気無しの発言は、とても無神経なものだったみたいだ。
酔ってる場合じゃない。私は膝に手を置いて、その場で深く頭を下げた。
「…ごめんなさい。知りませんでした…。」
「いいや。よくあることだから、気にしなくていいと思うよ。
でも、見知らぬ土地に流れ着いても、ああやって自分らしくいられる居場所を見つけてるんだから偉いもんだね。あのひとは。」
冬至さんの穏やかなはずのその微笑みは、今はちょっとだけ寂しそうに見えた。
「月見さんは?」
そんな冬至さんの目が、私を捉える。
「月見さんの居場所は、ちゃんとある?」
「…え…。」
冬至さんが求めている答えは、私にも“自分らしくいられる”環境があるのかってこと。
私の、居場所?
「私は……ど、どうでしょう…。
まだ探してる途中、かもしれないです…。
今は仕事が忙しいけど、一人暮らしにもやっと慣れてきたから、趣味とか、…彼氏とか、新しく見つけたいなぁとは思ってます…。」
一見前向きな返答だけど、その語尾は情けなく消え入ってしまう。カウンターテーブルの木目を数えてしまう。
お酒が回ってるせいだろうか。私は虎ノ門さんみたいな、明瞭な答えを出すことができなかった。
「…んじゃあ見つかるまで、月見さんの仮の居場所は大江山ってことにしな。」
「!」
冬至さんの提案に、私は思わず顔を上げた。
「…い、いいんですか?」
「いいも何も、ここはそういう場所だから。
俺も、月見さんが美味そうに俺の飯を食ってるところ、見てたいからさ。」
「!!」
顔がにやけそうになるのをグッと堪える。
ダメよ美郷。冬至さんの発言はあくまで“お客さんとして来てね”って意味なんだから。変な期待しちゃダメだ。
「…あ、でも次からはあの、食べた分はきちんとお金払いますから…!」
「そうかい。律儀にありがとう。」
「……だから、また来ていいですか…?」
「ウン。いつでもおいで。」
あぁ…ハマっていく。抜け出したくない。
美味しいご飯とよく冷えたお酒と、額から角が生えてる店主さんが、私の何よりの癒しとなってしまった。