瞬速一億光年
「ねぇ、桜の花びらが落ちる速さって、どれぐらいか知ってる?」
ベッドに寝たまま窓の外を眺めていた彼女が、不意に聞いてくる。
前に二人で観た映画を思い出し、秒速五センチメートルと答えると彼女はクスクスと笑っていた。
「正解。覚えてたんだね」
忘れるはずもない。普段、アニメを観ないボクに彼女が勧めた、初めての作品だったから。
「じゃあさ。音が伝わる速さは分かる?」
一頻り笑った彼女は、また同じような問題を出してきた。
物理は苦手なんだ、と言うと彼女は不満そうに頬を膨らませる。
「もう。高校からやり直したら?」
返す言葉もなく頬を掻くと、彼女は呆れたようにため息を吐いてから答えを言った。
「音の速度は秒速三四〇メートルだよ」
さらりと言う彼女に、よく覚えてるねと感心していると、彼女は「常識だよ」とまたため息を吐く。
「今、私とあなたはすぐ近くにいるから、何か言えばすぐに伝わるね」
当たり前のことを言う彼女に、ボクは頷く。彼女は、何を言いたいんだろうか。
「じゃあ問題。想いが相手に伝わる速度は、どのぐらいでしょう?」
突然、物理の問題じゃなくなった。
抽象的な問題に、ボクはどう答えていいのか分からずに悩む。その姿を見た彼女は、何が面白いのか小さく笑みをこぼしていた。
「ヒント。私があなたを好きになってから、あなたが私に告白してくれた時までにかかった日数」
それは……と、言葉を詰まらせる。
彼女がボクを好きになってくれた日が分からないと、答えられない問題じゃないか。
困ってるボクを見かねたのか、彼女は「ふふん」と得意げに鼻を鳴らした。
「私があなたを好きになったのは、高校一年生の春。入学してから一週間した時ぐらいかな? で、あなたが告白してくれたのは、卒業式の時」
ということは、三年間で一〇九五日……そこから七日間引くと、一〇八八日? あぁ、でも卒業式は三月だから……と、頭で必死に計算する。
ブツブツと呟きながら計算するボクを、彼女はケラケラと笑っていた。
「正解は、一〇八一日。速度で言うと……あはは、さすがに分かんないや」
困ったように笑う彼女は、「あ、でもね」と話を続ける。
「正確には一〇八一日と三八分、だよ」
そんなに細かく覚えてるの、と驚くと彼女はイタズラした子供のような笑みを浮かべていた。
「ふふ、ウッソー。そんな正確に覚えてる訳ないよ」
まぁそうだよね、と胸をなで下ろす。
彼女は不意に黙ると、ゆっくりと体を起こした。
無理しないで、と止めようとしたけど彼女は無視して体を起こす。
「……ねぇ」
彼女は窓の外……遠くの空を見つめて呟いた。
「光の速度は秒速三〇万キロメートルって知ってた?」
知らなかった、と首を横に振る。
「それって、一秒間で地球を七周半するんだよ。凄いよね?」
それは凄いね、と返す。
「じゃあ、一光年って知ってる?」
名前だけ、と返す。
「光が宇宙で一年間に進む距離のことだよ。もの凄く、遠い距離」
時間じゃないんだ、と感心する。
「今見えている星は、もしかしたら何百……ううん、何万年も、何億年も前の光が届いたものかもしれない」
長すぎて想像もつかないね、と遠くの空を見つめる。
「ーーねぇ」
どうしたの?
「高校三年間でようやく想いが伝わったのにーー私が星になっちゃったら一生、私の想いはあなたに伝わらなくなるかもしれないね?」
彼女はそう言うと、儚げに笑って目を伏せた。
ここでようやくボクは、彼女が何を言いたかったのか察した。
いや、もしかしたら最初から分かっていたのかもしれない。分かってて、ボクは目を反らそうとしていたんだ。
現実から、目を背けたくなってたんだ。
「ごめんね。変なこと言って」
彼女はゆっくりとベッドに倒れ、ボクに謝った。
ボクは、彼女に言った。
☆
「……瞬速、一億光年」
彼は、ぽつりと言った。
最初、彼が言ったことの意味が分からなかった。
瞬速一億光年なんて、聞いたことがない。それがどういう意味なのかも、分からない。
だから私はどういうこと? と問いかける。
「キミの想いがボクに伝わる速度、だよ」
彼はそう言って私の手を握った。
そして、彼は優しい笑顔……私が一番好きな表情で話を続けた。
「キミが例え遠い星になったとしても。それが何億光年先だとしても……キミの想いは一瞬で伝わるよ」
どうして、と彼に聞く。
彼は照れたのか、頬を掻いて答えた。
「たしかに、高校生の時のボクはキミの想いに気付くまで三年もかかったよ。我ながら、鈍感だって思う」
自嘲するように彼は苦笑いする。
「でも、今のボクならすぐに伝わるよ。もしもキミが星になったとしても……キミのことを思い出したら、一瞬で伝わる」
それって……と、彼が何を言いたいのか分かってしまった。彼は、私の不安を取り除こうとしているんだ。
自分のことは、自分がよく分かっている。
だから、私はそう遠くない内に……星になってしまうことを悟ってしまっていた。
それで不安になっていたことが、彼に伝わってしまったんだろう。
でも、彼はそれを知って、元気づけようとしてくれた。優しいその想いが、伝わってきた。
私の手を握る優しい手を、握り返す。
☆
彼女がボクの手を握り返し、目を合わせた。
☆
彼と目が合った。
うん、そうだね。もう、大丈夫。
☆
うん、大丈夫。
一瞬で、想いが通じ合ったのを感じた。
瞬速一億光年で、伝わった。
例え遠く離れていても、想いが伝わる速度は一瞬。
それが星との距離だとしても。
病人の彼女と、取り残されてしまう彼の病室での会話。