第五話 私と新たな世界
翌朝早くから、私たちは街に向けて出発した。
村にある貸馬車屋さんから馬と馬車を借りて、ゆっくりと進む。
……馬車といっても、機能性重視の幌馬車だけど。
お父さんが御者台に座って、馬を操る。
私とお母さんとアレンは、幌馬車に乗り込んで変わり行く景色をたまに隙間から眺めていた。
森の中とはいえ、街へ行く時のために馬車一台分ぐらいの道は整備されている。
たまに跳ねたりつっかえたりするものの、順調に進んでいった。
最初の頃は楽しそうに景色を眺めていたアレンは、変わりばえしない景色に段々と飽きてきたのか、ぐずり始めてしまった。
「アレン。ほら、綺麗な蝶々がいるよ」
私とお母さんで、アレンの興味を引きそうなものを探しては指差す。
素直なアレンは、それらを見ては目を輝かせていた。
木々の合間から光が溢れ落ち、柔らかな光に包まれたような光景。
静かな空間で聞こえてくるのは、私たちの話し声と鳥の囀りだけ。
……なんて、綺麗。
アレンの興味を引くものを探すためというよりも、その内私の方こそが森に魅入っていた。
そうして、一日目は何事もなく時が過ぎて行った。
「お疲れ様、お父さん」
日が暮れる前に馬車を止めると、火をおこして野宿するための環境を整える。
「今日は任せっぱなしでごめんね。明日は、私が御者台に座るよ」
「何言ってるんだ。このぐらい、何ともないぞ?」
お父さんは、疲れを見せない笑顔を浮かべる。
アレンは初めての外の世界に興奮しっぱなしだったからか、既に夢の中だ。
そんなアレンを膝に抱えたまま、お母さんは愛おしそうに彼の頭を撫でていた。
パチパチ、と時折火の粉が爆ぜる音がする。
「火の側は、大丈夫になったのか?」
少し茶化すように、けれども心配するように……お父さんが私に問いかける。
「うん、大丈夫。私だって、もう立派な大人なんだもの」
かつて、私は火が怖かった。
それは、鹿林花梨の最期の記憶として燃え盛る炎が焼き付いているからだろう。
とはいえ、村では火を怖がっていたら生活にならない。
竃で調理するから火をおこさなければならないし、夜になればランプに火を灯す。
最初は怖かったそれも、十五年かけて徐々に慣らしてきたのだ。
今でも、竃やランプに覆われていない火そのものは怖いけれども。
それでも、生まれた当初は火を見る度に烈火のごとく泣いていたから随分マシになったものだ。
お父さんは当然私の前世なんて知らないから、怖がりだな……ぐらいにしか思っていないだろうけど。
「そう言えば、お父さんとお母さんってどうして村に残ったの?」
大人になって村を去る人は多い。
それは職を求めてということもあるし、利便性を求めてということもある。
「どうしてって言われてもなあ……。あの村で生まれてあの村で育ったから、としか言いようがねえなあ」
「確かに街の方が便利で豊かだけど……それでもあの村の生活に慣れていたから、他の場所で暮らすことは考えたことがなかったわ」
「クレアは、街に出たいのか?」
「ううん、全然。私も、村で皆と一緒に暮らしていきたい」
お父さんの問いに、私は即答する。
私のその答えに、お父さんとお母さんは笑みを浮かべていた。
「……さてっと。明日も一日移動だ。母さんとクレアはそろそろ眠れ」
「それじゃあ、お父さんの疲れが取れないでしょう? 私は明日寝るから、火の番は私にさせて」
「そうね、あなた。火の番は私とクレアが交代でするから、あなたはアレンと一緒に馬車で寝てて」
「いや、だが……」
「大丈夫。アレンの夜泣きで、夜には強くなったの。だから、お父さんは寝てて。ね? お母さん」
「そうね。ほら、早く休んで」
「お母さんも先に休んでて良いよ。眠くなったら、交代してもらうから」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」
そして、お父さんとお母さん、それからアレンの三人は幌馬車の中に入っていった。
私は火の前で座り込みながら、ぼんやりと周りを見回す。
……静かだ。
それに、とても暗い。
火の周りこそ赤い光に照らされて僅かに明るいものの、ほんの少しでも離れれば真っ暗だ。
昼間あんなに綺麗だと思った景色も、やっぱり夜の闇に包まれると怖く感じる。
村での生活で随分と野生化したなと思っていても、こればかりはどうもダメみたいだ。
私は自然と、歌を口ずさむ。
それは、子守唄。
この世界で初めて耳にしたそれ。
村で昔から伝わっているらしい歌だ。
これを聞いていると、不思議と落ち着く。
自分で歌った歌で落ち着くというのも何だか変な話だけど、それでも効果は抜群。
心が落ち着いたところで、そっと空を見上げる。
昨日見たそれと同じく、満点の星空。
けれども木々の草で、昨日よりも見えづらい。
この空は、繋がっているのだろうか。
かつての世界と。
……分からない。
いかんせん、どの星とどの星で何座になるか分からなかったほど、天体はちんぷんかんぷんだった。
だから星を見たところで、この夜の光景が地球のそれと同じかも分からない。
こんなことになるなら、もっと生活の役に立つような勉強をしっかりしておけば良かったなと思うこともある。
その度に、過ぎてしまったものは仕方ないと割り切っているけれども。
それに、星の見方はともかく、前の世界で勉強しておけば良かったなと思うことは今のところサバイバル技術に分類されるようなものばかりなので、残念ながら普通に学校では習わない。
あれだけ進んだ技術を持つ国に住んでいた記憶がありながら、何とも勿体ないことだ。
「ままならないなあ……」
「どうしたの?」
突然の声に、ついピクリと体が勝手に反応した。
「お母さん……驚かさないでよ」
「ごめんなさいね。何だか星に夢中になっていたみたいだったから、声をかけづらくて。そろそろ交代の時間だから、クレアも馬車に行って眠りなさい?」
「え、もうそんなに時間経ってる?」
「ええ、そうよー。ホラ、月も随分と動いているでしょう?」
「……確かに」
「というわけで、クレアも寝ちゃいなさい?」
「分かった。また起きたら交代ね」
「ええ」
そうして私はお母さんと交代すると、火から離れて馬車に乗り込む。
既に夢の世界に旅立っていたアレンを潰すように抱きついているお父さんの姿に、ついつい笑ってしまった。
お父さんの手を退けてあげると、アレンは安心したような笑みを浮かべる。
そんなアレンの頭を撫でてから彼の隣に体を横たえると、ほどなくして眠りに落ちた。
……その翌日も順調に街へと進み、ついに三日目。
街まではもうすぐそこというところまで来ていた。
「……ふわぁ」
「眠そうねえ。火の番してくれてるんだから、もう少し眠ってて良いのよ?」
「うーん……今寝ちゃうと、街に着いてから眠れなくなっちゃいそうだから我慢する」
「そう?」
欠伸をし過ぎて、涙で視界が霞む。
ぼんやりと働かない頭で、森の景色を眺めていた。
けれども、ふと……違和感を覚える。
「……鳥の鳴き声が、聞こえない?」
ただ、それだけのこと。
それだけのことの筈なのに……頭の中で大きな警鐘が鳴り響いていた。
気のせいだ、思い過ごしだ、なんて決めつけてはダメな気がする。
形容し難い恐怖と焦燥感が、私を襲っていた。
「どうかしたの?」
顔色が悪くなっていたのか、お母さんが気遣わしげに私に問いかける。
私はお母さんの問いに答えず、御者台の方に顔を出した。
「お父さん……何か、変な感じがする」
「……ん?」
私の言葉に、お父さんは怪訝そうな顔をうかべる。
「何か、変なの! 危ないよ! 早く逃げよう!」
「逃げようって……」
私の意味の分からない言葉に、お父さんは困ったような表情を浮かべていた。
それも、仕方のないことだろう。
突然こんなこと言われて真に受けるなんて、普通はない。
ブルルッ、と急に馬が|嘶≪いなな≫く。
「どう、どう……」
お父さんが不可解な馬の反応に、首を傾げた。
「……少し急ぐか」
手綱を操り、走る速度を上げさせる。
……けれども。
突然、馬が抑えがきかなくなったように走り出した。
怖い……。
ガタガタと、訳の分からない不安に捕まって体が震える。
ふと横を見ればアレンも顔を引きつらせていて、彼を抱きしめるお母さんも顔を青ざめさせていた。
突然、大地が揺れた。
そうとしか言いようがない程に大きな、足音。
次いで、鼓膜を破るほどの咆哮が響く。
……怖い、怖い、怖い……っ!
幌の中から見えた、それ。
……異様で圧倒的な存在感を放つ、巨大な熊。
それの周りには、何やら黒い靄がまとわりついているように見える。
「魔物……」
ポツリ、お母さんがそう呟いた。
……あれが、魔物!?
体が、一層震えた。
その熊の魔物が低い体勢になったかと思えば、こちらに向かって走り始める。
……追いつかれたら、死ぬ……っ!
恐怖心から内心叫んだ自身の死という言葉に、一瞬私は冷静になった。
また、私は失うの?
……そして、私はまた後悔するの?
そんなの、嫌だ……!
大切なんだ……かけがえのない人たちなんだ。
後悔はしたくないと、願ってた。
この時がずっと続けば良いと、祈ってた。
それなのに……っ。
前世の悔恨の念と今の状況への憤りが織り重なり、私の心を包む。
そしてそれと共に、体が熱くなっていた。
「……クレア?」
私の様子がおかしいことに気がついたのか、お母さんが呆然と私の名を呟く。
それに気がついてはいても、言葉を返す余裕は今の私にはない。
衝動に任せたまま、私は体を動かす。
猛スピードで進む幌馬車から、降りた。
「クレア!」
後ろから、お母さんの叫び声が聞こえる。
……あんな速さの馬車から降りたら、普通はただでは済まない。
おまけに、目の前には巨大な魔物。
お母さんが驚くことも無理はない。
けれども、不思議と私の心は凪いでいる。
現に、ふわりとまるで止まっている馬車から降りるかのように、衝撃を受けることはなかった。
……何でだろう?
何でも、できるような気がする。
まるで決まっていることをなぞらえるかのように、私はその根拠のない全能感に身を委ねていた。
そっと、手を魔物に向けた。
その瞬間、魔物が光に包まれる。
キラキラとまるで陽の光のようなそれが、黒い靄を消していった。
靄が消えたかと思えば、炎が魔物を燃やし尽くす。
「……あれ?」
急に、我に返った。
私……今、何をしたの?
恐る恐る、私は自身の両の手を見つめる。
瞬間、視界が霞んだ。
立っていられないほどの目眩に、混乱冷めやらぬ私はそのまま意識を閉ざしてしまった。