第二十八話 私の慟哭
「締まらないなあ……」
逃げ出そうとして、先生に叱られるなんて。
苦笑いを浮かべつつ、私は空を眺める。
ここは、いつだったかセラフィーナ様に出会った場所。
人気のないこの場所は、独りになるのにはもってこいの場所だった。
「……相変わらず、星空だけは綺麗だ」
空を眺めながら、ゆっくりとその場で地べたに座り込む。
……思い出すことは、勿論昨日の出来事とヘレン様の話だ。
我が身に起こったことだというのに……未だに信じることができない。
信じられる訳がなかった。
フレイア様の神官とは、それ即ち“聖女”。
聖女になんてなってしまった暁には、村の教会に赴任することなど出来るはずがない。
一生、聖女としてフィルメロ教と国にこの身を捧げるだけ。
そうなれば、私はもう家族に会うことはできない。
大切な人と引き離されて、国の歯車になる。
――そんなこと、許容できる筈がなかった。
私の、生まれ変わったその意味が。
私の、今を生きる理由が。
ガラガラと、崩れ落ちる音が聞こえたような気がする。
ただ、大切なものを大切にしたいだけなのに。
ただ、大切なものを大切だと抱えていきたいだけなのに。
どうして……たったそれだけのことが許されないのだろう?
どうして……たったそれだけの夢にこんなにも障害があるのだろう?
悔しくて、悲しくて、自然と涙が溢れ出てきた。
浮かぶ涙に、満天の星が滲む。
ポタポタと溢れ落ちるそれが、腕を濡らしていた。
特別な力なんて、いらない。
物語のように、英雄になんてなれなくて良い。
聖女になんて、なりたくない……っ!
「なのに、どうして……っ!」
叫んだ瞬間、急に空を雲が覆った。
灰色のドス黒いそれは、雷鳴を轟かせる。
次の瞬間、土砂降りの雨が降り始めた。
「止めて……止めてよっ!」
まるで、私に不思議な力があるみたいじゃないか。
あっという間に濡れ鼠になった私は、空に向かって必死に叫ぶ。
「……ちょっと、クレア!」
聞き覚えのある声に呼び止められて、恐る恐るそちらに向いた。
「アビー……」
「こんな雨の中、外にいるなんて……、ホラ、随分と濡れちゃってる。このままじゃ、病気になっちゃうよ。さっさと中に戻ろう」
強引に彼女に手を引っ張られて、屋内に戻った。
戻った途端に寒さを実感して、カタカタと手が震える。
いつの間にか、こんなにも体が冷えていたのか。
「ホラ、これ」
アビーに渡された温かい飲み物に、自然とホッと息を吐き出す。
「美味しいでしょう? アビー様特製スープ……といっても、寮食で残っていたものを温めただけだけど」
カラカラと笑う彼女の姿に、救われた心地がした。
思わず、引っ込んでいた涙がまた溢れ出てくる。
「ダメだよ、空腹は。ダメだよ、体を冷やしちゃ。……一人になっては、ダメ。落ちなくて良い悩みの闇に、落ちちゃうから」
「……知っているの? アビー」
「何が?」
「私の、悩みを」
「……あんな雨の中、外で呆然としている姿を見たら、誰でも悩んでいるように見えると思うよ」
「そりゃ、そうだね」
思わず、笑ってしまった。
こんな酷い姿を見たら、誰だってそう思うに決まっている。
「ねえ、クレア。幸せって、何だと思う?」
「幸せ? ……さあ、改めて聞かれると説明するのは難しいね」
私の答えに、彼女はふふふと笑った。
「幸せってさ、不幸と背中合わせなんだよ。誰だって、幸せになりたい。不幸にはなりたくない。勿論、皆が幸せであれば良いと思うよ。でもさ、きっと……ずっと幸せだと、人はその幸せの有り難みが分からなくなる。だから、きっと不幸なことにも意味があると思うんだ。不幸を前に悩んで、苦しんで……だからこそ、幸せだと感じることができる。より、それが輝いて見えるんだと思う」
そっと、アビーが濡れて顔に張り付いた髪を避けてくれた。
「ねえ、クレア。きっと、悩んで苦しむほど大変な目に遭っているんだろうね。自分が不幸だって、悲しい思いをしているのかもしれない。それでも、きっとそれに意味はあるんだよ。クレアは今、幸せに手をかけているんだよ」
涙が、溢れて止まらなかった。
何も指針らしい指針はない彼女の助言は、何故か逆に私の心に沁みた。
変に、絵空事を掲げられるよりずっと良い。
わけ知り顔で、ズカズカと私の中に入り込まれるよりずっと良い。
まるで頭を撫でるような、それでいて飢えた心に染み渡るような彼女の言葉は酷く心地良かったのだ。
「ありがとう……アビー」
私のお礼に、アビーは小さく笑った。




