ワンダリング
「別れてほしい」
僕の言葉に、美玲は眼鏡越しの目を丸くした。そのままパチパチと瞬きを繰り返す。どうやら僕の言葉の意味を考えているようだが、今一つ表情に欠けるのは理解が追いついていないせいだろう。
それに構わず、僕は言う。
「僕は美玲のことが好きだ。この気持ちに、変わりはない。でもさ、このままじゃお互いのためにならないだろ。僕は劣等生だし、美玲と同じ大学になんていけるわけないし――。そもそも、僕は美玲には不釣り――」
僕は最後まで言葉を続けることができなかった。
やっと僕の言葉の意味を理解した美玲が、光の矢のような右ストレートを放ってきたからだ。
「それで、そんなに頬を腫らしているわけ?」
優真が憐み半分呆れ半分といった目で僕を見てきた。僕は右頬を押さえたまま頷く。美玲は僕をノックダウンさせると、そそくさと帰宅してしまった。この調子では、しばらく口をきいてもらえそうにない。まあ、そのことは覚悟の上で、別れ話を持ち出したわけだけど。
「これまたなんで別れようと思ったんだよ。お前ら、付き合って長いんだろ?」
「……今年で三年目かな」
僕と美玲は幼馴染で、仲良くしていた時間はもっと長いんだけど、正式に付き合い始めたのが三年前ということになる。美玲は長い黒髪と大人しい性格が魅力的なんだけど、決して目立つ方ではなく、友達も少ない。いつも一人で本を読んでいるような子だった。
「三年目の浮気ってやつか」
「違うよ。僕は浮気なんかしていない。でもさ、思ったんだ。もう高二も後半だろ。僕はともかく、美玲の志望校は偏差値が高いから、もっと勉強しないといけない。その邪魔をしたらいけないって思ったんだ」
「それで別れるってか?俺が言っていいのか知らんが、お前、馬鹿だな」
優真はやれやれと肩をすくめると、生まれつき色素が薄い髪がかすかに揺れる。そう言うこいつには彼女がいない。身長も成績も平均で、特にとりえもないやつだ。僕は優真より成績が下なのであまり偉そうには言えないが。
優真とは高一で同じクラスになって以来、仲良くさせてもらっている。一緒に帰ったり勉強会を開いたり悩みを相談したりする程度の仲だが、人付き合いの苦手な優真はよく僕を頼ってくる。
「僕が馬鹿なのはとうに理解しているよ。そのせいで美玲に迷惑はかけられないだろ」
「はいはい。まあ、お前がそれでいいんなら、別に俺には関係ない話だけどな」
一応応援はしていたのに、と優真は言った。気持ちは嬉しかったけど、僕の気持ちが揺らぐことはなかった。
昇降口を出たところで、優真と別れる。受験勉強に励む優真は塾に通っているのだ。本当、僕も見習わないといけないし、美玲と同じ大学に行けるように頑張るべきなんだろうけど、どうしても気持ちが入らない。
わかっているんだ。色々言い訳したところで、一番可愛いのは自分自身だってことは。
溜息をついて帰路につく。帰ると勉強しないといけない、と思うと足取りが重くなる。
「やあ、元彼さん。暗い顔してんな?」
突然後ろから声をかけられて、僕はゆっくりと振り返った。長身でスポーツ刈りの、いかにも体育会系イケメンがそこにいた。
「……颯斗先輩。どうしているんですか」
「どうしてもこうしても、俺がいたら悪いのか?」
爽やかな笑顔。去年サッカー部を引退して以来話す機会も少なくなったけど、全然変わってない。颯斗先輩は現在高三で受験勉強も佳境に入ってきたところのはずなのに、その疲れをまったく感じさせないあたり、さすがだと思う。僕も数日前に部活を引退したが、現役時代は幾度となくお世話になったものだ。
「それはそうと、どうして僕が別れたって知っているんですか」
「美玲ちゃんが泣きながら走っていったからな。訳を聞いたら、別れようって言われたってさ」
「そのほうが、彼女のためだと思ったからです」
「そうかい。ま、ほどほどにな」
何がほどほどなのかを尋ねる間もなく颯斗先輩は去っていってしまった。色々な参考書が詰め込まれてチャックが閉まりきっていない制鞄から赤本が覗いたのを見て、また憂鬱になる。
鉄球でもついているんじゃないかと思うくらい重たい足を引きずり、最寄り駅まで電車を乗り継いだとき、空はすっかり暗くなっていた。乱立するビル群を抜けた先のマンションが僕の家だ。
薄暗い道をのろのろと歩く。人気は少ない……というか、ない。世界に一人取り残されたような感覚だ。
僕の周りの人はみんな、目標に向けて努力をしている。なのに僕は努力もしていないし、目標と呼べるような目標もない。成績も底辺だ。割と得意だったサッカー部は引退したし、彼女にも別れを告げてしまった。
よくよく考えたら、僕には何も残っていない。本当美玲は、こんな男を選ばない方が正解だと思う。いっそ消えてしまえたらいいのになとか、実行する勇気はないくせにやたらと言いたくなるような言葉を溜息と一緒に吐いた。本当、月並み以下だ。
なんてことをだらだらと考えていたら、突如激しい目眩に襲われた。目の前がクラクラして、立っていられなくなる。思わず目を塞いで蹲ったが、すぐに収まった。立ち上がってみてもなんともない。疲れていたんだろうか、と周囲を見回して、ぎょっとした。
誰もいない。
人がいないだけじゃない。車は一台も走っていないし、灯りがともっている窓もない。頼りない光を放っている街灯だけが、唯一の光源だ。
……なんだ、これは?
本当に、世界に一人取り残されたようだ。携帯を取り出しても、圏外でつながらない。公衆電話も試してみたが、回線が切れているのか、応答がない。
空を見上げる。厚い雲に覆われていて、星一つ見えない。風も吹いていないので、雲が晴れることもない。
「どうなっているんだ……」
僕は思わず呟いていた。無論、この声に応えてくれるものはない。
とりあえず家まで行ってみようと、僕は無人の街を走る。ビルの間を抜け、信号が消えている横断歩道を横切る。本来なら五分もかからず家に着けるはずなんだけど、どれだけ走っても、マンションが見えてこない。似たような形のビルが並んでいるだけだ。目についたコンビニに入って見たけど、やはり誰もいなかった。客も店員もいない。蛍光灯が薄ら寒い光を放っているだけだ。
僕は怖くなった。明らかに異常事態だ。人がいないだけならまだしも、一部のライフラインは途絶えているし、道は迷路のように複雑になっている。さっきは消えたいなんて思ってたくせにとか、自虐的に笑ってみたところで事態は一ミリも進展しない。そもそも笑っている場合ではない。
途方に暮れかけたとき、僕は一人の人間を見つけた。
それは男の子だった。幼稚園生くらいの年齢だ。道端に置かれたベンチにポツンと座っている。
最初、人を見つけたことに僕は安堵した。しかしすぐに疑問が生じる。どうしてこの子は、こんなところに一人でいるんだ。保護者は、何をしているんだろう?普段は幼児といえど見知らぬ人に関わるなんてことはしないのに、事態が事態だからか、僕は彼に興味が湧いた。
僕が近づくと、男の子はぱっと顔を上げて、丸い瞳の中に三秒ほど僕を捉えると、すぐにうつむいてしまった。突然現れた僕に怯えているのかもしれない、と思い、僕は笑顔で男の子に近づく。
「こんばんは」
「…………」
男の子は返事をしない。僕の声が届いているのかもわからない。ぼんやりした目でじっと地面を眺めていた。
「何してるの?」
僕はめげずに質問を続ける。こんなわけのわからない状況を打破する手がかりが少しでも欲しかった。
男の子はやっぱり答えない。
「いつからここにいるの?」
「…………」
「お家に帰らなくてもいいの?」
「…………」
「お母さんとお父さん、心配するでしょ?」
「しない」
突然男の子が口を開いて、ほとんど答えを期待していなかった僕はびっくりする。男の子は舌足らずな言葉で「しんぱいしない」と繰り返した。
「心配しないって……」
「しんぱいしないもん」
ふい、とそっぽを向いてしまう。なんとなく壁を作られている感じがした。初対面だからじゃない、この子は誰にでもそうなんだろうな、という雰囲気を感じさせる。
それにしても「心配しない」とはどういうことだろう。放任主義なんだろうか。聞いても答えてくれないだろうし、僕は質問の矛先を変える。
「いつまでここにいるつもりなの?そもそもここがどこか知ってるの?」
「知らない。気がついたらここにいた」
「幼稚園は?ここの近く?」
「いってない」
「えっ……」
さも当然、という顔で男の子が答えるので僕は面喰ってしまう。このご時世、幼稚園に行きたくてもいけない子供がいるって言うのは知ってるけど、この子もそうなんだろうか。
「ともだち、いないから。ひとりぼっち。だからいきたくないの」
「友達がいないって……」
「髪の毛のいろ、みんなとちがうから。なかまはずれ」
男の子が自分の頭を指さす。暗いのでわかりにくいが、確かにちょっと、色が薄い。
「気にしなければいいじゃないか。髪の色なんて」
僕がいうと、男の子は不満げに頬を膨らませた。なんでお前がそこまで言うんだとでも言いたげな目つきだ。確かに僕が偉そうに言えることではないんだけど、こんな変な場所で一人ぼっちの男の子を見捨てられるほど僕は非情じゃない。
「皆と違うからって落ち込んでないで、自分から仲良くしようとしなきゃ。そうじゃないと友達なんてできないよ。それとも、きみはずっと一人でいるつもりなの」
「べつに……それでもいいよ」
男の子はそう言ったが、その瞳は不安定に揺れている。結局僕は偉そうに助言するしかできないんだけど、多分この子には、アドバイスをくれる誰かが必要なんだ。
僕は男の子の肩に手を置いて言った。
「勇気を出して。一人は寂しいよ」
すると男の子は、小さな動作で頷くと「がんばる」といって、そのままどこかに走り去ってしまった。慌てて引き留めようとしたときにはすでに、彼の姿は薄暗い闇の向こうに消えていた。
そういや彼の名前を聞いていなかったことに今さら気づく。それに、ここがどこなのかも何一つ理解できないままだ。
偉そうに年上面している場合ではなかった。何やってたんだ僕は、と少し反省する。早く帰り道を探さないといけない。帰ったところで、僕には何もないんだけど。いや、今はそんな自嘲に浸っている余裕はない。
なんてまったく身にならない自己問答を繰り広げていたら、僕の背中に凄い勢いで何かがぶつかった。訳が分からず地面に手をつく僕。後ろから「ごめんなさーい!」という声がして、僕は背中にぶつかった物の正体をしる。それはボロボロのサッカーボールだった。
「怪我はありませんか?」
そしてボールの持ち主と思われる少年が、爽やかに申し訳なさそうな顔で頭を下げる。年は小学校高学年くらい。そのくせ背は僕と同じくらい高い。顔つきも精悍だ。僕の背が低いだけだと言われたらそれまでだけど。
そして彼もまた、無人の街に似つかわしくない少年だった。こんなビル街でサッカーの練習だろうか?いや、そもそも、ここで人に会うのは二人目だから、この街は完全に無人というわけではないらしい。いったいどういうことだろうか。
「きみは、ここで何をしているの?」
少なくともこの少年は、さっきの子と違ってまだ会話できそうだと判断し、僕は有力な情報を引き出せないかと尋ねた。少年は友好的な雰囲気を纏ったまま答えた。
「サッカーの練習です。俺、将来サッカー選手になりたいんです」
ボロボロのボールをリフティングしながら少年は言う。ボールは泥まみれであちこちが擦り切れていて、元の色がわからないくらいになっている。
「随分と使い込んだボールだね」
「ええ、まあ……。本当は新しいのを買いたいんですけど、親がお金を出してくれないんです。これを買ったの、小学校に入学してすぐのときですよ」
ふっと少年の表情が翳った。ボールを拾い上げると、破れ目を指でなぞる。
「親に言われるんです。サッカー選手になんてなれるわけないって」
整った顔を曇らせる少年を見て、僕は既視感を抱いた。さっきの男の子もそうだったが、ここにいる人間は何かしらの悩みを抱えているらしい。それがわかったところで途方に暮れるしかないんだが。僕はアドバイザーでもなんでもない。一体僕にどうしろって言うんだ。
「それは……大変だね」
結局、無難な答えを返すしかない。少年は妙に大人びた動作で溜息をついた。その様子がいちいち様になっていてとても腹立たしい。
「俺、サッカーは好きなんですけど、下手なんですよね。中学に上がったらサッカー部に入りたいんですけど、続かないだろうし……。将来の夢はサッカー選手って言ったら、皆馬鹿にするんですよ。お前には無理だって」
「そんなに下手なの?」
「下手です。現にさっきだって、コントロールできなくてあなたの背中にぶつけちゃったじゃないですか」
申し訳なさそうな顔になる少年に、僕は痛いのを我慢して「気にしてないよ」といった。しかし、将来。将来か……。
自分が小学校の時のことを思い出す。将来の夢って、なんだったっけ。確か、先生になりたい、とか思っていた記憶が薄ぼんやりとある。当時の僕にとって将来というのは無限に広がる大宇宙のようなもので、何にだってなれると思っていた。中学、高校と進学して、未来というものはそれほど開けてはいないということを知ったけど、それでもまだ、なるようになるだろう、という思いで何も選ばずに来た。選ぼうともしていなかった。
もし僕が、本気で先生になろうと思って、本気で努力をしていたら、少しは明確な未来が描けていたのだろうか……?
今さら思い返したところで、過ぎてしまった時間はどうにもならない。自らが狭めてしまった選択肢の中から無難な選択をするしかないんだろう――僕は。
「あきらめんの?」
僕は少年に聞いた。少年はきょとんとした顔で僕を見つめる。その穢れのない眼差しに気圧されるように僕は地面に視線を落とした。
「だから、下手だからって、サッカー選手になることをあきらめんの?って聞いてるの」
「それは……そうするしかないんじゃないですか」
「本当にそれでいいの?後悔しない?」
「後悔……」
少年は汚れたサッカーボールを抱えたまま黙り込んでしまった。真剣な表情で何かを考えている。よく考えたら、僕が真剣に自分と向き合ったことなんてあっただろうか。
「きみは本気でサッカー選手になりたいんだろ。ボールがこんなにボロボロになるまで練習に励んでる。そんなに簡単に捨てられることじゃないでしょ?」
僕の言葉に、少年は顔を上げた。その目には何かを決心したような強い意志が宿っていて、ちょっと羨ましい。
「そうですね。もっともっと頑張って練習して、いつか、皆をあっと言わせるような実力の持ち主になりたいです」
サッカーボールを軽く宙に放り上げ、リフティングを再開する。楽しそうにボールを蹴る姿を見て、本当にサッカーが好きなんだな、と思った。何事でも、目標に向かって進んでいる人はかっこいい。
「ありがとうございました。あなたのおかげで、決心がつきました」
「そんな……お礼を言われるようなことじゃないよ」
僕はそう言ってその場を立ち去ろうと歩き出した。本当にお礼を言われるようなことじゃない。まだまだ可能性を秘めている小学生に、夢を諦めて欲しくなかっただけだ。
「あの、あなたの名前を教えてもらえませんか……?」
少年の声が背後から聞こえたが、僕はあえて聞こえないふりをした。薄暗い路地を振り返らずに歩く。
僕みたいになるなよ、少年。
「あら、あなたも迷子?」
三人目の邂逅者は女性だった。しかも僕より年上だ。社会人だろう。
後ろで束ねた黒髪が魅力的なその女性は、穏やかな笑みで僕に話しかけてきた。僕は少し緊張しながら答える。
「えっと、まあそんなところです」
僕の答えに彼女は優しく笑ったまま「そう。やっぱり」と言った。大人の風格だろうか、よくわからない空間だというのに余裕を保っている。
「あの……ここ、どこなんですか。気がついたら迷い込んでしまったみたいなんですけど、戻り方がわからなくて」
彼女は何かを知っているかもしれない、と思って僕は聞いたのだが、彼女はそれには答えずに別の質問をしてきた。
「あなた、今、困っているでしょ?」
「えっ……」
僕は言葉に詰まる。困っているのは事実だったので、「どうしてそう思うんですか」と聞いてみた。
「ここがそういう場所だからよ。悩んでいる人間、迷っている人間が迷い込むの。あなたもそんな人に会ったんじゃない?」
僕は男の子や少年の顔を思い出した。確かに彼らは何やら悩みを抱えているようだったが、ということは……。
「お姉さんも、何か悩み事があるんですか」
「やあねえ、お姉さんなんて。もうそんな年じゃないわ。結婚もしているのよ。そう、悩みというのはそのことでね、旦那とちょっと喧嘩しただけ」
「そうなんですか……」
「旦那は何を考えているのかわからない人でね。しょっちゅう喧嘩になるのよ。昔なじみだし、互いのことはよく知っているはずなのに、全然意見が合わないの。まるで別人なんだって思い知らされたわ。ま、当然のことなんだけど」
彼女はとても楽しそうな口調で旦那さんのことを話す。本当に彼のことが好きなんだなってわかる動作だ。
「わたし、こう見えて昔は人見知りでね。旦那はこんなわたしをずっと支えてくれたから。今度はわたしが、彼に寄り添ってあげる番。ちょっとの相違なんて、水に流すことにしたの」
「いい奥さんなんですね」
「ありがとう。ごめんね、こんな話、聞いても仕方がないわよね?」
「いえ、大丈夫です。あの、聞いちゃ駄目かもしれないんですけど、別れようと思ったこととかは、ないんですか?」
踏み込んだ質問をしたな、と思った。嫌がられないといいけど、と不安になったけど、彼女は気を悪くした様子も見せずに答えてくれた。
「わたしはないわ。でも、別れを切り出されたことはあったわね。あれはいつのことだったかしら……?」
「でも、別れなかったんですね」
「そりゃそうよ。そうじゃないと今のわたしはないわ」
「……どうやって仲直りしたんですか?」
「教えてあげない」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。蠱惑的というわけではないけれど、女性っぽいその表情に僕の心臓が早まるのがわかる。
「あの、あなたの名前を教えてもらってもいいですか?」
僕の質問に、彼女は「いいわよ」と言って、フルネームを名乗った。さらに鼓動が速くなる僕に、彼女は聞く。
「それで、あなたの悩みというのは?」
「もう大丈夫です。解決しました」
「そう、それはよかったわ。じゃあ、もう帰りなさい。遅くなると、お家の人が心配するわよ」
「わかりました。ありがとうございます」
「気をつけて帰るのよ」
彼女はそう言って僕に手を振った。その薬指で、指輪が光った。
彼女が名乗った苗字、それは僕の苗字だった。
指輪の光が見えなくなった途端、僕の視界が暗転する。次に目を開いた時には、大勢の人と車が行きかう、いつものビル群の歩道に立っていた。
随分長い間彷徨っていた気がしたが、それほど時間は経っていないらしい。あの空間で時間が正常に流れていればの話だけど。
陽が落ちて間もない空。僕は確固とした足取りでマンションの階段をのぼる。事態は何一つ変わってはいないんだけど、僕の心は晴れていた。今は精一杯悩んで、自分でこの苦労を乗り越えてみよう、と思っていた。諦めるにはまだ早い、と少年に言った言葉を思い出す。
僕はもう一つ、男の子に言った言葉を思い出していた。一人は寂しい――何気なく口から出た言葉だったが、その言葉は僕の胸に染みついて離れない。
僕がいないと一人になってしまう人がいるから。彼女を放っておくことは、やっぱりできない。
僕は自分の部屋の前を通り過ぎて、三つ隣のドアのインターホンを押した。ドアが開くまでの時間がやけに長く顔を出した後、鍵が外れる音がして美玲が顔を出した。
怪訝そうな顔でドアを開けた美玲は、僕の顔を見て目を丸くすると、そのまま硬直してしまった。何か言いたげに唇が動くが、言葉は出てこない。
僕は深呼吸をして、言った。
「……あのさ、美玲」
「……何」
美玲の目はかすかに赤みがかっていた。よく見ると、前髪がさっきより短い気がするが、気のせいだろうか。
「さっきのこと、謝りたくて――」
翌日。僕が上靴に履き替えていると、誰かが僕の背中をバンと叩いた。
「やあ、元・元彼さん。あんた、思ってたより大胆だな」
颯斗先輩が爽やかな笑顔で立っていた。僕は情報伝達の速さにびっくりする。
「あんたのこと、ただのヘタレだと思ってたのにそういうわけでもなかったのか。感心だ」
「余計なお世話ですよ……」
僕が不満を言うと、颯斗先輩は右手をひらひらと手を振って「褒めてんじゃねえか」と言った。その反対の手に書類が握られているのに僕は気づいた。
「何ですか、その紙」
「ああ、これ?志望校調査の紙。いよいよ勉強も大詰めでさ、いい加減決めないとマズいんだよね」
「大変ですね」
「まあね。でも自分のことだから、自分で決めないと」
責任重大だよなー、といって肩をすくめる颯斗先輩。その時、チラリと書類の中身が見えた。第一志望の欄に書かれている大学は、サッカーが強いことで有名なところだった。
「先輩の夢って何ですか」
「サッカー選手――って答えたいんだけどな。わかんないや。実際、スポーツで食っていけるのなんてほんの一握りなんだしさ。まあ、やれるだけやってみるよ」
あんたも諦めんと頑張れよ、という言葉を残して颯斗先輩は去っていった。その後ろ姿を見ていると、現役時代に指導をしてもらったことを思い出す。華麗なステップでボールを操るその姿に、幾度となくあこがれたものだ。
教室に入ると、優真が勝手に僕の椅子に座っていた。奥の机では、美玲が本を読んでいる。僕に気づくと、軽く手を振った。いつもと変わらぬその姿に少し安心する。
「おい、優真。どけよ」
「へいへい。復縁おめでと。一体、どういう心境の変化だ?」
「まあ、いろいろあってね」
あの後僕は、地面にキスするレベルの必死さで美玲に謝った。自分勝手な理由で別れを切り出したことを詫び、絶対に美玲を一人にしないこと、そのために同じ大学にいけるように努力をすることを必死に誓った。
無言で聞いていた美玲は、僕に腹パンを食らわせたあと、ボロボロと涙を流しながら笑った。「わたしの前髪返しなさい」という謎の命令と一緒に。
「やっぱ、大事な幼馴染を捨てるなんてできなかったんだよ」
「あっそ。せいぜい幸せになれよ。一人は寂しいんだからな」
優真はそう言って、自分の席に戻ってしまった。
その背中を見送ってから、僕は美玲の席に行く。僕が近づくと、美玲はゆっくりした動作で顔を上げた。メガネ越しの目が僕を見上げる。
「おはよう」
「……おはよ」
僕の挨拶に、美玲はペコッと頭を下げて答えを返す。短くなった前髪が逆に似合っていると僕は思ったけど、余計なことは言わないでおいた。
そんな僕に、美玲は一枚の紙を差し出す。
「何これ?」
怪訝そうに聞く僕に、美玲はニッコリ笑っていった。
「わたしの志望校の実践模試の案内。ちゃんと対策を立てて受けてね」
「……いきなり模試を受けろと?」
「現時点での実力を知るのは大切よ」
「……でもさ、決意したのは昨日だし」
「大丈夫、まだ先だし。それに、努力するって言ったでしょ。忘れたの?」
僕は黙って模試の案内を受け取った。反論できないし、それを持ち出されたら僕は何も言えない。
まあ、いいや。たまには本気で頑張ってみよう。美玲の隣にいる努力くらいは、しないといけないかな。