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その一言がいえなくて

作者: 都南優介

「おはよう。ハル君」

 そう声を掛けてきたのは同級生の由佳だった。

「ユカちゃん、おはよう」

 僕は今まで彼女に気付かなかったかのように返事をする。

 それは僕なりの照れ隠しであり、何でもないように声を掛けてくる彼女への細やかな抵抗でもあった。

「今日も暑いね。学校行ったらクーラーついてるといいなあ」

 ワイシャツを扇ぐ彼女のしっとりと汗ばんだ首筋は僕の目を引き付けるのには十分すぎるほどに魅力的だった。

「そうだね。最近は全然涼しくならないし」

 電車の中では冷房があまり効いていないのか空気のまとわりつくような蒸し暑さが僕らを包み込んでいる。

 横を向くと由佳は車内上の広告を眺めている。広告にはどこかのケータイ会社のキャッチコピーが書かれていて、彼女はそれを見て穏やかな微笑みを浮かべていた。それを見た僕もまた口角を上げる。

 僕は由佳に恋をしていた。

 彼女は別段容姿が整っているわけではなかったが、その人懐っこい笑顔と春の日差しのように穏やかな性格が僕を惹きつけていた。

「ねえ、聞いてる? 今日の部活って体育館だよね?」

 彼女を見つめたままの姿で固まっていた僕に少し大きめの声で語りかける。

「そうそう。今日は部員みんな来るかもね」

 僕は慌てて言葉を返す。演劇部は基本的に空き教室で練習をすることが多いがバスケ部やバレー部が休みの時には体育館を使うことがある。今日はその日で久しぶりの体育館練習だった。

「よかったー。やっぱ多い方が楽しいしね」

 嬉しそうに言う彼女を見て僕も同じように嬉しくなるが、彼女は僕よりもしっかりしていて部活のスケジュールはしっかり覚えているはずだった。恐らく話題が思いつかなくて無理にひねり出した言葉だったのだろう。彼女に会いたくてわざわざこの車両で待っていた僕がするべきなのに。

 言いたいことは山ほどあるのに適した言葉が見つからない。ぽつりぽつりと細切れの会話を交わしていく僕たち。このままでは電車がついてしまう。駅から学校までの道でも話せるが、そこでの会話と電車での会話は少し気分が違っていて終わってしまうのが勿体ない。

 窓から見える大きな川は朝の独特の蒼黒さを反射させている。

 言いたくても言えない。僕の気持ちとは裏腹に電車は見覚えのあるホームへと滑り込む。

 そしていつも思うことだが、降りるまでは不安だが降りると心が楽になる。それは彼女も電車と通学路で気分が変わるらしく急に多弁になるからだ。

 確かに彼女と通学する時間は胸が高鳴り気持ちが騒めく。だがこのままではいけない。今日こそは決着をつけなければいけない。

 そんなことを思いながら彼女の声に耳を傾けるだけで今日も学校に着いてしまう。

 本当に僕は情けない。


「今日も忙しかったね。体育館練習は楽しいけど広すぎて道具がなあ」

 由佳は心底楽しそうに文句を言う。だが僕の返事は素っ気ないものだったろう。

 僕はこの帰り道で彼女を今度の夏祭りに誘おうと考えていた。告白はできずともデートくらいなら僕にだって誘えるはずだ。直近に花火大会もあったのだが混んでいる場所が苦手な僕ではそんなところだと由佳との時間を楽しめなくなってしまうのは目に見えていた。

 いつ話を切り出そうかということに集中しすぎて由佳の話が所々聞き取れない。この茹だるような暑さだけが今の僕に汗をかかせている訳ではないということだ。

「どうしたの? 具合悪い?」

「全然そんなことないよ」

 今か。そうじゃないか。それを繰り返すだけでどんどん駅に近づいていく。きっと電車に乗った僕は言うのを諦めるだろう。

 月が妖しく煌く。

 僕は急に立ち止まった。なぜこのタイミングでいきなり言おうとしたのか自分自身でもよく分からなかった。けど、足を止めた以上口は動かさなければいけない。

「来週の金曜日ひま? よかったら一緒にお祭り行かない?」

 彼女は具合が悪いと思っていた僕が急に祭りに誘ってきたことで不思議そうな顔をした様子だったがすぐに、

「うん。いいよ。ふふふっ」

と、吹き出しながら言った。そんなに面白かっただろうか

 彼女の表情豊かな笑顔は雨上がりにのぞく虹を思わせた。

 とにかくデートの約束をすることのできた僕は気持ちが大きくなったのか電車の中でも自分からよく話していたと思う。思うというのは夏祭りの事で頭の中が今にも溢れそうで、少しでも多くものを考えようものなら脳汁の表面張力が崩れて今にも叫びだしそうだったからだ。それでも彼女が鮮やかな笑顔を見せていたことは僕の自信につながった。

 結局僕は帰った後に車内で何を喋ったのかなんて記憶になかった。


 今日も閉じ込めた熱気を身に纏うような暑さだ。気を緩ませようものなら今にも倒れてしまいそうな気がして早く由佳に会いたかった。彼女を一目見ればそんな暑さを朝嵐が吹き飛ばしてくれるのではないかと思えたからだ。

 だが、由佳のいつも乗る駅で彼女の姿を見ることはなかった。いつもとは時間が違うのだろうか。彼女が毎度座っているホームのベンチには人が座っていなかった。

 心臓を撫ぜられたような気味の悪さを感じた。普段ならばよくあることだが、約束をした翌日ということもありさっきまで感じていた暑さが嘘のように取り除かれてむしろ寒いとすら思える。

 彼女が現れることなく電車のドアは閉まる。

 電車の中で僕は何か間違えたことをしただろうかと自問し、何もおかしくないと自答する。不毛な時間を過ごした。そして、駅に着くとすぐにあたりを見回した。彼女がいるかもしれないからだ。もちろん彼女はいない。そのことに僕はホッとした。もしいたとして僕のいる車両をあえて避けた彼女に声を掛けるのは僕の精神力では耐えきれないことだから。

 気が和らいだ途端に時間が止まったかのような暑さが僕を飲み込む。

「熱いな。学校で着替えるか」

 何も考えずに口からこぼれだした言葉は由佳と共にいる時よりも自然だった。そのことに僕は思わず吹き出してしまう。僕ってこんな喋り方だったんだ。そう思うと彼女のいない通学路は当初自分が見込んでいたよりも麗らかなものだった。


 演劇部で電車を利用している人たちは少なく、部活の帰りはいつも由佳と二人きりだ。

 由佳があの時いなかったのは遅刻のせいだったらしい。そのことを部活にやってきた彼女に聞いた。遅刻の理由が気になったが僕の事を避けていなかったという事実はそれだけで僕に安心を与えた。

「まさか私が寝坊するとはなあ。普段はそんなことないのに」

 悔しそうにはにかむ由佳の顔は月に照らされた待宵草のようで見とれてしまった。

「珍しいよね。夜更かししたの?」

「うん。なんか眠れなくてずっとスマホいじってた」

 よく見ると由佳の目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。いつもの明るい笑顔も好きだったが艶っぽいヨルガオのような微笑みも僕の心を掴んで離さない。

 しばらく話していると話題は今度の夏祭りの事になった。

 毎年夏休みに入る前に学校の裏の草野球場で行われる祭り。いつもは同じクラスの男友達数人と行く。女の子と行くのは初めてだ。

「晴れるかな。最近雨降ったり止んだりで天気予報あてになんないし」

「リンゴ飴好き? 私の友達みんな食べないんだよね。おいしいのに」

「ハル君って射撃得意そうだよね。私はすっごい苦手」

「先輩たちも来るんだって。付き合ってると思われちゃったりして」

 他愛のない会話を続けながら歩く僕たちは本当に恋人同士みたいに見えるのではないかと思う。この時間が続けばいいのにと何度も心の中で呟いた。

「今度のお祭り何着てく? 私はどの浴衣にするか迷ってるんだけど、ハル君は甚平とか着ちゃう?」

 由佳の浴衣姿を想像すると同時に桃色のシクラメンが顔を覗かせる。

「どうかな。僕そういうの持ってないからさ。学校の帰りだし制服のままでいいかな」

 由佳は学校に浴衣を持っていくのは面倒くさくないのだろうか。僕は嫌だけど女の子は荷物を多く持つことをあまり気にしないのか。

 由佳は少しつまらなそうな顔をする。顔に落ちる影と青白く光を反射する肌のコントラストはモノクロ写真を連想させる。

「相手の服装も重要なの?」

「当たり前じゃん。雰囲気だよ、雰囲気」

 少し笑い合った後の若干の沈黙。由佳と一緒にいるときの沈黙は割と好きだった。でもこの日は少し違かった。

 由佳が少し緊張したような顔をして僕を見る。

 立ち止まった。

 なんだろう。なんか嫌な感じがする。

 思いを巡らせる。この状況で僕にとって一番苦しいこと。

「あのねハル君。私、好きな人ができた。」

 風が止んだと思った。

「だれか聞きたい?」

 僕の知っている人物だろうか。それならなおさら聞きたくない。

 なるべく素っ気ないふりをしたい。

「いやべつに。そのひとはユカちゃんのことどうおもってるの?」

「多分両想いだと思うんだけどなあ。違ったら恥ずかしいけど」

 それでも僕と祭りに行こうとしたんだろうか。女の子は分からない。

「まだ付き合ってるわけじゃないよね?」

「え? ああ、うん。まだだよ」

 由佳は微妙な表情を浮かべている。それは僕も同じことで目の前に鏡があれば僕の方が何とも言えない顔をしていることが自覚できるはずだ。

 再びの沈黙。今度の静けさは息が止まるみたいな、まるで真空の中放置された気分だった。

 まだ付き合ってない。これだけが僕に残された唯一の希望だった。でもきっとそれも時間の問題だろう。

 今しかないのではないか。彼女への思いを伝えるのにはむしろ好都合だ。きっと僕はこんなことでもなければ自分から切り出すことはできない。

 言い終えて満足そうな顔をする由佳は前を向き直し歩き始める。

 僕の足は沼に嵌ったのかと錯覚するくらいに重い。僕がついてこないことに気付いた彼女は振り向く。彼女の顔はリモニウムの花が咲いたような表情を見せる。

「どうしたの。早く行こう。電車行っちゃうよ」

「うん。帰ろう」


 由佳の少し後ろを追いかける。

 きっとこれからもそうだ。僕は変化が怖い。夏祭りに誘えただけでも上出来だったんだ。

 さらさらとゆれる由佳の後ろ髪は必死な僕を受け流すかのように滑らかで、藁にもすがりたい僕の気持ちじゃ到底掴むことはできない。


 僕はずっと彼女の友達という立場に甘んじている。

「好きだよ」

 その一言がいえなくて。


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