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「リリィ、キミは俺たちに教えてくれたね? アナスタシアはキミを崖から突き落としたと。その時の表情は喜色に満ち、あろうことか、これで大丈夫、と言っていたと」

「うん……私はそれをちゃんと見たし、聞いたもの。だから、戻りたくなかった」


 答える声が強張っているのが自分でもわかる。

 当たり前だ。思い出して楽しくなる記憶なんかじゃない。理由にはある程度の目処はついても、下手すれば死んでいたのだ。現実には幸運にも生きていたというだけで……優しい人達に救われただけで。

 そう、アナスタシア(ねえさん)アクアリア(わたし)を崖から突き落としたのは事実なのだ。


「言っておくけれど、これまで信じていなかったわけじゃないよ? あの時のリリィを見ていれば、その言葉が嘘だとは思えやしないからね」

「と言いつつもリリィが此処にいるなによりの元凶と会わせようとするのは鬼の所業だよな」

「正気の沙汰とは思えない、というやつよねぇ」


 ぽつり、それでいてはっきりと。

 言葉を付け足すレイン兄に、グレン兄とシル姉が顔を見合わせながらそんなことを言った。

 直後、レイン兄が額を押さえながらため息ひとつ。


「……グレン、シル、茶々入れをしない」


 心の底からの言葉ではあるが、グレン兄とシル姉は気にした様子もなかった。


「深刻にしてるレイン兄の方がおかしいだろ」

「真面目な話をしているんだよ?」

「それでリリィを怯えさせてしまうのは違うんじゃないかな?」

「怯えさせるって……そんなつもりは」

「つもりがなくても良くはないと思うの。レインにとって、看過できない事態だとしてもね」


 叱りつけるようなシル姉に、レイン兄は言葉を詰まらせる。

 看過できない事態、というのは姉さんの事でもあり、スィエルの第一王子と第一王女を襲う病のこと事でもあるのだろう。ただ、言葉を詰まらせたということは、少しだけ焦りか何かにも駆られていたのかもしれない。

 どこか明後日の方向に思考を飛ばしていると、シル姉が柔らかな声音で私を呼んだ。


「リリィ。貴女がいま思っている通り、いま貴女とフェルメニアの第一王女を引き合わせることで、どういう反応を示すのか、私や……レインもそれを知りたいと考えているのは事実よ」

「……姉さんはアクアリア(わたし)に生きていてほしくなかったみたいだった。それなのに生きてると知れば……ううん、仮に崖から落ちてもなお生きていることが正しいとしても、何かしらの行動は取るはずだもんね」


 だから、私にしか出来ないことなんだ。


「ええ。でも、貴女じゃなきゃいけないわけではないわ」

「……え?」

「フェルメニアの第一王女にとってそれが予定調和か否かの確認くらいなら、お前じゃなくても出来る。それこそ俺やレイン兄、シル姉が行くことでもな」


 首をかしげた私にグレン兄が付け出し、ひとつ置いて言葉を続けた。


「それに、俺も行くことが出来ないわけじゃない。レイン兄たちよりは神経質になる必要はねえからな……ただ、テオに負担を掛けない選択肢となりゃ、お前になる。付け加えて、お前の方がフェルメニアの第一王女の機微にも通ずるだろうしな」

「諸々を踏まえて託そうとはしているけれど、無理強いをするつもりはないのよ。リリィが行くことによってより多くの理由があったり得られることはあれど、リリィじゃなくちゃいけないことはないの……貴女とグレンのお父さんは言葉が足りないから、ちょっと伝わりにくかったかもしれないけれどね」


 いつもと同じ、綺麗な微笑を浮かべたシル姉が言えば、レイン兄が小さく唸りながら眉を下げた。どうやら言い返せないらしい。つまりはシル姉の言葉が的確だったってことだけれど。

 と言ってはもらったけれど、やっぱり私じゃなきゃならないだろう。


 ――何せ私は、レイン兄たちに転生者であることを言えてないのだから。


 この事を言いたくないわけじゃない。

 もちろん言ったところで荒唐無稽こうとうむけいだと思われるのがオチだと考えたのも事実だけど、何よりも言う必要がないと思っていたのが理由だ。

 言い換えるなら、私と同じであろう姉さんが、まさか此処まで他所様よそさまにご迷惑をかけ、こんな形でまた関わることになるとは思ってもいなかったわけだけれど。

 だって前世の記憶があっても、その事実もそれによって獲得したものをひけらかしたところで得することはないじゃない、普通に考えて。少なくとも、前世で何かを成せるだけの知識や技術を得ていたならともかく、一般人わたしにはそんなものなかったしね。高尚な夢を抱いてたわけでもないただの学生だったんだもの、平々凡々なめないでほしい。自慢は出来ない? ですよね。

 けど姉さんは違った。実妹わたしを崖から突き落とした時の表情と言葉にしても、今回の騒動にしてもそう、知った上で何かをしようとしているようにしか私には思えないから。それを確信へと変えて、伝えることが出来るのは私だけだ……確信を抱いた理由については伝えられなかったとしても。

 

「グレン兄とシル姉の言葉は嬉しいけど、別に私は嫌だって言うつもり、なかったよ」


 そう言って、首を緩く振ってみせる。

 私が気になっていたのはあくまでも私を向かわせようとした意図だけ。嫌だなんて思いもしない。


「それに、約束したでしょう? 何かあれば、レイン兄たちの手伝いをするって。だからってわけじゃないけど、ちゃんとやり遂げるよ」


 そう、約束したのだ。

 彼らと共に暮らすことを選んだあとに、彼らの助力をすると。それは彼らから提示されたものではなかったけれど、彼らの事情を知らされて、その上で自分から申し出たこと。

 何も返すことも出来ず、ただ守られて生きるなんてまっぴらごめんだもんね。王女だった私は死して、ただの平民となったのだから、なおのことだ。

 私はこれまでそうしてささやかな手伝いをしながら一緒に暮らしていた。今回だって変わらない。


「とはいっても、今回は今までとちょっと事情が違うし……何より危ないかもしれないんだよ?」

「それこそ杞憂だよ。あの子やリュミィも力を貸してくれるし、テオだって悪い人じゃない。シル姉が心配してくれてるのはわかるけど」

「流石に楽観しすぎだ、愚妹」

「信頼しているってことだよ、お兄様?」


 もちろん、この場合の身内は今の家族のことだ。言うまでもないけれど。

 心配そうなシル姉と、眉を寄せるグレン兄に、にっこりと笑ってみせる。無理はしてないという意思表示だ。

 それから視線をレイン兄に向けると、深刻そうとも表現できそうだった表情が、途端に崩れ、すまなそうなものへと変わった。


「ごめんな、今回ばかりは俺の都合で嫌な思いをさせようとしてる」

「レイン兄までそういうこと言う? ちゃんとわかってるから、大丈夫だよ」


 本当に心配性だ。やむにやまれぬ事情があるのだから、仕方ないというのに。

 私の言葉に、レイン兄は僅かに微笑み、口を開いた。


「けど、それでもごめんな」

「もう、謝らないでよ。レイン兄の悪いとこだよ、そういうの」

「昔から、なのよね。すぐに謝るし、そのくせ全部背負おうとする悪癖。私や兄様たちが言ってもちっとも聞きやしないんだから」

「今はそれ、関係ないだろ……自覚はあるけど、以前よりは改善されてると思うし……」

「その点の否定はしないわ。頼ってくれるようになったものね、今は」

「返す言葉もない……」


 眉を下げるレイン兄に、シル姉が困ったように微笑む。二人の様子はさながら弟をたしなめるような姉――姉弟のようだ。


 言うまでもなく、レイン兄とシル姉はとても長い付き合いだ。更に言うなら、恋仲だとかそうしたものでもない。ただの友人である、というのが二人の主張だ……本当のところはわからないけど、少なくとも恋仲だとか夫婦だとかに誤解されると怒るのよね。シル姉が。

 そもそもとして、シル姉はレイン兄と暮らしてたわけではない。一緒に暮らすようになったのは、幼かった私を保護したからだ。

 曰く、いくら幼子とはいえ男手で女の子を育てるのは大変、とのこと。レインに子育ての経験がないらしいこともあったんだと思うんだけど、実際のところ、私は外見はただの幼女でも中身は外見年齢を軽くオーバーしていたわけだし、面倒見てくれるならば女のひとの方が良かったのが本音だから助かったわけだけど。ましてやレイン兄は顔面の暴力つきだ。イケメンは慣れないうちはいっそ目に毒よ。

 そんなこんなで転がり込んできたシル姉だけど、それ以前には二人いるお兄さんたちと暮らしていたそうだ。といっても、元々お兄さんたちは不在がちだったらしいし、レイン兄のところに頻繁に通って様子を見ていたって話だけど。


「と、ともかく、俺としても望まない選択ではあることだけは覚えていてね、リリィ」


 と、僅かに吃りながらもレイン兄は改めて私に言葉を掛けてくれた。


「何かあったときには、自愛を優先していい……決して無茶をしないで。俺も、動くつもりだからね」

「何か思うことがあるの?」

「主に奇病――〈黒鱗病〉について、にはなるけれど……発症した原因やその類は城内にあれど、元凶はそこにはないから」


 既に確信したような言い方に、私は首を傾げ、思い至る。

 〈黒鱗病〉を発症したものは皮膚が黒ずみ、やがてそれは黒い鱗のように変化していくと言っていた。鱗と呼べるものを持つ生き物は複数存在する。でも、この世界で鱗だなんてそんな変質をするとしたら。

 もしかして、と僅かに目を見開いたのに気付いてか、レイン兄はひとつ、頷いた。


「奇病の元凶は、竜にある。いや、正確には竜を媒体にした呪い、呪術だよ。誰が、何のために……そもそもどうやってばいたいを得たかはわからないけれどね」







 レイン兄からとんでもない事実を聞いたあと、それでもいつもとほとんど変わらない時間を過ごし、迎えた翌日。

 普段と変わらない時刻に起床した私は、未だすやすやと眠るリフをそのままに支度を済ませ、部屋の扉を軽く開けたままに自室をあとにした。

 そのまま向かった先、いい香りが漂ってくるリビングには既にレイン兄とシル姉の姿はあって、ふたり揃って朝食の準備をしているようだった。いつものこととはいえ、今日も二人は朝が早い。

 声をかけると挨拶を返してくれる二人に手伝おうかと尋ねれば、やんわりと断られる。これもいつものことだ。ただひとつ、違ったことといえば。


「庭にテオとアルノーさんがいるから、呼んできてくれる?」


 そろそろ朝食が出来るから、とレイン兄が微笑む。どうやらテオたちも私より朝が早かったらしい。

 二つ返事で了承して、庭で軽く体を動かしているらしい彼らのもとへと向かう途中。足音ひとつ。


「おはよう、グレン兄」


 足音の正体はいままさに起きてきたらしいグレン兄。それからその頭にしがみつくようにして乗っかるリフの姿があった。

 目をこするグレン兄と、ぼんやりとしたリフ。


「おー……おはよ、リリィ」

「……ンキュ」


 ふたりが揃って欠伸をするものだから、私は思わず吹き出して笑ってしまったのは仕方ないと思う。





 グレン兄とリフと別れて庭に向かうと、確かにそこにはテオとアルノーさんがいた。

 聞いていた通り剣を手にしてはいたけれど、動いていたとは思えないくらい汗ひとつかいていない。


「おはようございます」


 声を掛けると、テオもアルノーさんもすぐに振り向いてくれた。


「おはよう、リリィ」


 剣を鞘に納めながらにこりと笑むテオと、軽く会釈をしてくれるアルノーさん。私もアルノーさんには軽く頭を下げて、首をかしげる。


「体を動かしてるって聞いたけど……」

「少しばかり剣を振っていただけだ。朝食の席に汗まみれで同席するわけにもいかないだろう?」

「朝だろうが、お風呂くらいわかすわよ? なんなら近くに湖とかもあるし」

「さすがに手間を掛けさせるのもどうかとも思ったしな。それに、あまりゆるりとするわけにもいかない」


 ほんの少しだけすまなそうに言われてまばたきを数回。そんな私にテオは表情をそのままに言葉を続けた。


「レインたちからは聞いてはいないか?」

「聞いて……?」

「申し出を受けさせてもらいたい、とレインとシルには既に伝えてあったんだが……」

「ああ、そのことね。まだ聞いてはいなかったけど疑問は解消したし、昨日も言ったけどそもそも私個人としても知らんぷりは出来ないから、伝えていた通り、私とリフと天狼もうひとりが同行させてもらうことになるわ」

「そうか」


 僅かに気遣わしげな色は残せど、納得したような顔をしたテオに小さな笑みをこぼして、視線を移す。

 見遣った先はアルノーさんだ。剣は鞘に納めているけれど、その表情は険しく、言うなれば不満そうにも見える仏頂面だ。


「……なんだ?」


 じっと見ていると、不機嫌そうに問い掛けられる。


「アルノーさんはよろしいのか、と思いまして」

「……殿下と時間の許す限り話し合って決めたことだ、異論はない」

「そうですか」

「――ただし」


 強められた語気と鋭く細められた双眸。

 ひとつ間を置いて、アルノーさんは更に言葉を紡ぐ。


「不審な動きをすれば、明日はないと思え。生憎と、貴様らを信用したわけではないのでな」


 敵意と警戒を隠しもしない声音に、テオは眉を顰めたけれど、言われた私はといえば当然の主張、としか思えなかった。

 しつこいくらいに、いっそ面倒になるくらい繰り返されたって構わないと思うのよね、そう扱われてしかるべき身分であり立場なんだから。

 ただ、意外だったのはそのあとに付け足された言葉。


「だが……それがない限りは、相応の扱いをすることは保証しよう」

「……え?」


 思わずポカンとしながら見詰めてしまった私に、アルノーさんは眉間の皺を更に深くしたけれど……だって、ねえ? そんな言葉、飛び出すとは思わなかったのよ。アルノーさんからすれば、もはや存在自体が怪しさ満点だと思うし。


「そう驚くことでもなかろう。貴様……――いや、貴殿は捕虜というわけはないのだ。であるならば、騎士として無礼を働くわけにはいくまい」

「……アルノーさんって、本当に騎士なんですね」

「何を当たり前のことを言っているのだ、貴殿は」


 そりゃそうなんだけど、堅物でありながらも私情を挟まずに振る舞えるってすごいことだと思うのよ……ますます森を迷っていたことやリフが逃げていたことが不思議でならないけれど。

 怪訝そうな表情のアルノーさんをまじまじと見ながら、私はそんなことを考えていたのだった。





 テオとアルノーさんと一緒にリビングに戻ると、朝食の準備はすっかり終わっていた。

 いつも通り、揃って手を合わせていただく本日の朝ごはんは、きつね色の焼き目のついたトーストに、ふんわり卵のスクランブルエッグ。焼いたウインナーはお好みで。それから新鮮野菜のサラダと、温かいコーンポタージュ。所謂洋朝食って呼ばれるようなメニューね。

 トーストとサラダとコーンポタージュのおかわりはお気軽に、パンはお好みで食パンのままでもどうぞ。スクランブルエッグはレイン兄とシル姉が言ってもらえれば追加で用意するとのこと。特別豪華ではないけれど、こうしたご飯も私は好きだ。

 それはテオとアルノーさんも同じらしく、二人共揃っておかわりをしていた。当然のようにグレン兄もおかわりしていたことも一応付け足しておこうと思う。グレン兄は食いしん坊だ。


「そろそろ俺たちは失礼させてもらおうと思う」


 滞りもなく朝食を食べ終えると、テオがそう切り出した。

 食事の席ではレイン兄達から改めてテオたちが申し出を受けた話はされたけど、曰く私にはテオから話してもらったほうが良いと思ったらしい。リリィ(わたし)は当事者なのだから、と。ただそれだけ、だそうだけれど。


「そうか……うん、そうだね。ここから王都までは遠い、数日はかかるのだから早めに発つのがいいだろうね」

「世話になった。何も返せないのは申し訳なくはあるが……」

「気にしないで。スィエルの平穏は俺としても望むことだ。それに、何も返せないだなんてことはないよ。リリィとリフのこと、どうかよろしくね」

「ああ、任せてくれ」


 片付けをしながら言うレイン兄に、テオがしっかりと頷いた。その様子にレイン兄は少しだけ満足そうに微笑んだ。

 対してレイン兄の手伝いのためにせわしなく食器を流し台に運んでいたシル姉は、立ち止まり心配そうに眉を下げた。


「リリィ、旅支度は済んでる? 忘れ物とか、無い?」

「心配せずともできてるよ、大丈夫」

「そうね、もう小さな子供ではないものね。でもこれだけ、お二人を困らせないようにね?」

「もちろん、わかってる」


 精神年齢的には年上だもの、困らせるだなんてことはしないよ――だなんてことは言わないけれど、言い聞かせるようなレシル姉の言葉に、私は頷いてみせた。

 と、その時である。


「存外、お転婆だからなあ。うちの妹は」


 リフで遊ぶようにして構っているグレン兄が、なんてことなく、誰にともなくといった様子で呟いた。

 なかなかどうしてうちの兄は私に容赦がない。僅かにムッとした表情で見遣ると、グレン兄はふっと笑って、気を付けて行ってこい、と言った。もっと普通に送り出してくれませんかね、まったく。


「っと、忘れるところだった」


 不意に思い出した様子でレイン兄は洗い物で濡れた手をタオルで拭いて、早足でテーブルに向かうと普段使っている席に置かれた封筒を手に取ると、そのうちの一通をテオに差し出した。

 テオは差し出された封筒とレイン兄の顔を交互に見て、首を傾げる。


「これは?」

「単なる手紙だよ、国王陛下に渡してほしい。レインディルからだと伝えれば、受け取ってもらえるだろうから」

「陛下に? 承知した、帰城した際に渡そう」

「ありがとう。それと、リリィ」


 受諾するテオにレイン兄は微笑んで、それから私を見るともう一通、手にしていた封筒を差し出した。


「こっちはアレンに。悪いけど店に寄って渡してもらえる?」

「アレンに? わかったわ。どうせイシュルテには寄ることになるもの」

「うん、よろしく頼むね」


 満足げに頷いたレイン兄が私とテオとアルノーさんを順に見たところで、私はグレン兄に構い倒されているリフに声を掛ける。


「リフ、お出かけだよ。おいで」


 荷物を纏めた鞄はひとつだけ。大きめの肩がけ鞄の準備は昨日のうちに済ませたし、今朝リビングに来るときに降ろしてある。それを手に取りながら呼びかけると、リフはパッと顔をこちらに向けて、そうして直ぐに飛んでくる。

 どこに行くの? と訴えてくるような好奇心に満ちたきらきらとした眼で私の顔を覗き込むリフを、そっと撫でる。


「いつもよりも遠くまで行くことになるから、しばらくはレイン兄やシル姉、グレン兄とは会えなくなるけど……リフは強い子だもの、平気よね?」

「クルルルル……キュイ!」

「リリィがいるしね。ちゃんとリリィの言うこと、聞くんだよ?」


 小首を傾げながらも元気に一声鳴いたリフに、レイン兄が更に言葉を投げかけると、リフは今度は迷いなく返事を返した。嫌がられなかったのは何よりだ。

 すい、と泳ぐようにしてレイン兄とシル姉とグレン兄の顔の横を通り抜ける。まるで挨拶でもしているようだ。レイン兄には何がしたいのかわかるのだろうけれど、わからない筈のシル姉とグレン兄も口々に声を掛けているから、確かにリフは挨拶しているのだろう。

 そうして飛び回って、最後に向かったのは私――ではなく、テオのもと。くるりと周囲を回って、驚くテオのことなど構いもせずに頭の上に。すっかりテオのことが気に入ったみたいね。


「この様子なら、心配はいらないかな。テオ、どうかリフのことも邪険に扱わないでやってね」

「あ、ああ。もちろんだ。貴方の大切な家族二人の身の安全の保証は、約束する。城に着くまでは多少、不便な思いをさせてしまうかもしれないが」

「ふふ、嬉しいけどあまり気負わないでは欲しいかな」

「――いや、一宿の恩もある。殿下が申された通り、この場で貴殿らにその約束はしよう」


 緩く顔を横に振りながら、レイン兄とテオの会話に割って入ったのは口を閉ざし、静かに控えていたアルノーさんだ。

 レイン兄にとっても思いもよらない言葉だったのだろう、アルノーさんを見て目を丸くして、けれども直ぐに柔らかく目を細めた。


「うん、ありがとう。お願いするよ」

「しかと心得た」

「それと、天狼の子はあとから合流するから……そのつもりでいてくれるかな?」

「承知したが……此処に暮らしているわけではないのか?」

「いまは少し、出かけているんだ。普段は森でのんびりしているし、ウチにもよく居座っているよ。その子を保護した精霊もね」

「居座っているのか……」


 困惑しきりのテオの気持ち、痛いほどわかるわ。

 世間一般的には竜も精霊も幻獣も、神秘的な存在だもの。ごく当たり前のように家で寛いでいるようなものではないのだ、という絶対的なイメージがあるくらいには。いかんせん私からすれば、知能のある生き物なのだから、そりゃあ人間と似たような生活をしてもおかしくないよねって感じなのだけれど。そんなことを考えるのは、一般的ではないんでしょうね、うん。



 レイン兄たちの見送りは、玄関――庭先まで。グレン兄はてっきり出てきてくれないかと思っていたのに、開いた玄関の扉を押さえながら立っている。


「それじゃあ、気をつけて。テオも、アルノーさんも」

「ああ、感謝する」


 送り出す言葉に、テオが答え、アルノーさんが軽く会釈する。

 心配そうな、不安そうとも言えるようなレイン兄の隣には似たような表情のシル姉がいて。そんな二人に、私は大丈夫だよ、という思いを込めて笑って口を開く。


「行ってきます」


 不安がないといったら嘘だけれど。心配いらないと言ったのも事実だから。


「行ってらっしゃい」


 優しい声に見送られて、先を歩くテオとアルノーさんを追い掛けて。目指すは森を抜けた少し先にある近郊の町――緑風の町イシュルテだ。




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