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虚しいわけじゃないし、悲しいわけでもない。
穏やかに歓談出来る筈だった時間を、よりにもよってアナスタシア王女の来訪によって壊されてしまった、という事実に思うことがないといったら嘘になるけれど。
でも彼女を連れてくる形となったリディアーヌ王女やノエルくんを非難したいとは思わない。むしろ、王女殿下にさえもこうした態度を取らせる姉さんの方が問題のはずだし。
けど、だから少しだけ息がしにくいような感覚に襲われているんだろう。
こうした事がある度にこんな風に感じていちゃいけないんだろうな、ってわかってはいるんだけどなあ。
と、小さな溜息を零すと、くしゃりと頭が撫でられた。
少しだけ雑な撫で方をした、温かな手の持ち主はカノン以外なく。見上げるとカノンは常と変わらぬ穏やかな表情を浮かべていた。
ほんとに、レイン兄が底抜けにお人好しだからなのか、あの家に集まる人たちは何処までも優しくて困る。
「ごきげんよう、皆様。わたくしも相席して宜しいですか?」
弾んだアナスタシア王女の声が聞こえて、返事も待たずに自分で引いたであろう椅子に腰掛けたのが音でわかる。
断られるわけがない、と言わんばかりの行動だ。本来であればあまりない事だと思うんだけど。
「……相席は構わないのですが、生憎カップが足りておらず、紅茶を振舞うにはお時間をいただいてしまうことになってしまうかと」
「え? どうしてですか? そこにティーカップとソーサーがあるではありませんか」
ややあってからテオが告げた言葉に、アナスタシア王女は不思議そうな声を上げる。その問いに答えたのはラスカだ。
「申し訳ありませんが、こちらをアナスタシア王女殿下にお使い頂く訳にはいきません」
「そんな、わたくしに振舞いたくないからと意地悪をするのはやめてください」
「……申し訳ありません。ですが、失礼ながら意地悪などではないのです」
「嘘! ラスカさんはいつもわたくしをいじめるじゃありませんか!」
まるで小さな子供が怒りを示すかのような不服そうな声をアナスタシア王女が発しているけど、ラスカがそんな事をするはずもないし、する理由はない。
というか、この場での事に限ればラスカが片付けたカップとソーサーはよく見れば使用済みであるとわかるように置かれている筈なのだから、アナスタシア王女の指摘自体がそもそもおかしいのである。
ラスカを責めるような発言がそれをわかっていてのものなのか違うのかはわからないけど、心象は良いとは言えないだろう。
少なくとも、ラスカの兄であるカノンの中での心象は下がり続けているのが、盗み見た彼の表情でわかる。……別に怖い顔をしているわけではないのよ? でも見知った人なら怒っているのが分かるレベルで怒っているわね。
唐突に言われているような事柄に関して思い当たる行動ひとつ取らない身内を悪く言われて、平気でいられるひとはいないもの。
「アナスタシア王女殿下、そこまでにしていただけませんか?」
溜息混じりにテオが割って入るけれど、アナスタシア王女はすぐに、
「テオ様、お気になさらないでください! 別に罰して欲しいというわけではありませんから!」
……ねえこれ、会話として成立してるの?
アナスタシア王女がテオに対して切り返した言葉を聞いて、心の底から私はそんなことを思ってしまった。
だってテオはあくまでもアナスタシア王女がラスカを責めている事に対して口を挟んだだけであって、アナスタシア王女を案じてだとかではないんだもの。
それがどうしてなのか、アナスタシア王女は自分を気遣って割って入ったのだ、という前提で答えているのだ。
とても異様だ。昨日でわかっていたつもりだったけど、此処まで会話にもならないのなら、そりゃあテオが舌打ちだなんて反応を示すわけよね。
「……すごいな、あの女。謎の自信に満ち満ちてる」
ぽそりと言い放ったのはカノンだ。
声を出して大丈夫なのか心配になったけど、たぶん遮音も施しているからこその発言なのだろうから平気なのだろう。
……それにしても、カノンのアナスタシア王女への呼び方が更に悪化しているわね。おまけにリディアーヌ王女は何度も何度も頷いているし、ノエルくんも何かを思い出したように眉間に皺を深く刻んで頷いてるし。
わかってはいたけど、姉さんはリディアーヌ王女にも多大なる迷惑を掛けてきたのね。
「……王女殿下の寛大さに感謝を」
どうにかこうにか、といった様子だったように感じる。
吐きたかったであろう溜息さえも飲み込んで、テオは静かにそう言った。
すると、どうしてかアナスタシア王女は嬉しそうに声を弾ませた。
「そんな、当然の事を、」
「――ですが」
けれどもその言葉が紡がれ切るより早く、テオは僅かに語気を強めて遮り、
「事実無根の言い掛かりは、出来れば控えて頂きたく思います」
そうはっきりと言い切った。
「……え?」
戸惑ったような驚いたような呆けた声を零したアナスタシア王女は、どんな表情を浮かべているのだろうか。見たかったような気もするけれど、きっと見たところで彼女の考えや思いは理解できないのだろう。
「ラスカが使わせられないと言ったのは、そこにあるカップとソーサーが既に使用済みであるからです」
「え、で、でも!」
「それと、俺は貴方がラスカに何を言われたかなどを把握している訳ではありませんが、彼女は普段ジェラルド兄上の侍従をしている。そんなラスカが何かを言ったというのなら、それは兄上にとって不都合な事があったからでしょう」
テオの声は、とても淡々としていた。
怒っているとも呆れているともいえて、でも違う。苛立ちも汲み取れるような、けれどもそれでいてとても落ち着いた声音で言葉を紡ぐテオに対するアナスタシア王女の反応は困惑しきったものだった。
「そんなことは……! ただ、わたくしはジェドさまのお好きなお菓子を……」
「なるほど。その心遣いはありがたいと俺も思いますが、ラスカが拒むのも無理はありません。兄上は、城の厨房で料理長らにより作られたもの以外を食す事はありませんので」
「っ! わたくしが毒を盛るとでも思われているのですか!? そんなのあんまりです!」
「――いいえ」
悲痛な色を乗せたアナスタシア王女の叫びにも似た声にも、テオは至って平静を保ったままだ。慌てもせず、ただただ静かに告げる。
「それならば毒見をすれば良いだけですので、そのような事はありません。兄上は体に不調をきたす食物も多く、確認の取れぬものは安易に口には出来ないのです」
「それは、存じてますけど……っ、でもでもおかしなものは一つも……!」
「だとしても、です。……ただ、兄上はその菓子を受け取りはしたのではないかと思いますが、それで何故ラスカは貴方の行動を咎めたというのでしょう?」
と、テオが問い掛けるけど、アナスタシア王女がすぐに答える事はなかった。
その理由はテオが口にした言葉からも最もたるものはすぐに導き出せるし、そうであるならラスカが頑として引き下がらなかったのも納得以外ない。
「……その場で食べるように言ったのね」
「だろうな。……ジェラルド王子はあの女の気分を損ねないようにしてただろうが、今だってあの振る舞いなんだ。恐らく聞き入れはしなかったんだろうさ」
ひとりごちるように呟いた声を、カノンが肯定し更に言葉を続ける。
やっぱり、そうとしか考えにくいよね。小さく嘆息して私は目を伏せた。
アナスタシア王女は自分の行動に、揺るぎない自信を持っている。きっと一点の曇りさえなく、自分は正しいのだと思っている。
とても異様で異常だ。けどだから、アナスタシア王女はジェラルド王子の好きなものを差し入れ、その場で食べてもらえると信じて疑わなかったんだろう。
それでも主人の為にと泥を被るようにして拒んだラスカを悪く言うのはどうかと思うけれど。
アナスタシア王女はテオの言葉に答えないままだ。
見えなくてもアナスタシア王女は、何か言おうとしてはやめての繰り返しだった事だろう。
そうして少しして。
「……そういえば、体調が悪いと言って学院を休んだと聞きましたが」
ふと思い出したようにテオが口にした言葉に、アナスタシア王女がその表情を明るくさせたのが気配で分かった。
「は、はい! もしかしてわたくしの体調を案じて、」
「思うよりもずっと元気そうで安心しました。部屋から出て、リディたちを探せるほどお早い快復をなさっているようですしね」
……きっといい笑顔で言い放ってるんだろうなあ、テオ。
喜色に満ちたアナスタシア王女の言葉を遮り言い放たれたテオの言葉に、カノンが堪えながらも吹き出すよう笑ったのを横目に、私はぼんやり思った。
さしもの姉さん――もとい、アナスタシア王女も言葉を失ったみたいで、答えはない。
これで気にも留めないのなら、それはもう大物だわ。
だって丁寧な口調で誤魔化されているだけで、テオの発言は特大級の厭味なのだから。




