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ラスカは一つ間を置いて、小さく息を吐いてから言葉を続ける。
「クスィオン・マレディ。この城で働く侍従の一人よ」
「……知らない名だな? そいつが怪しいって?」
「……クスィオンは、ジェラルド様たちが〈黒鱗病〉に掛かるほんの少し前に城に来たの」
重々しくラスカから告げられる言葉に、頭にだから怪しいのかという安直な理由が浮かんだ。でもそれだけならこんな風に話す事はないだろう。言い換えるなら、たったそれだけの理由なら噂話として既に執事長らの耳くらいには届いているだろうと思う。
つまり、ラスカがそれでも目星をつけているのだから、まだ疑う理由はあるんだ。
ラスカは私とカノンの視線の先で、紅茶を一口飲み、険しい顔でまた口を開いた。
「それだけなら、運が悪かったとだけ考えているところなのだけれど……〈黒鱗病〉の発症が確認されるよりも以前から、クスィオンは普通とは違った人間だったから」
「嫌な匂いでもしたか? それとも仕草や癖か?」
「動き、というか振る舞いはごく普通の執事よ。仕事ぶりも悪いわけではなかったし、サボるとか、そんな事もなかったしね。ただ――匂いがしなさすぎる」
それは、人間ではまず気付けない理由であり、人間では理解出来ない理由だった。
当然私にも今ひとつ理解出来ない理由ではあったけど、ちらりと見遣るとカノンが険しい顔を浮かべていた。
「匂いがしなさすぎるって、ただの死者でもあるまいし普通は有り得ないだろ」
「うん、そう。普通じゃありえないわ。生きているのであれば、何らかの匂いがする。特に魔力や力の流れといったものならば、天狼が嗅ぎ分けられないわけがないもの」
「……でも、実際にはその人から匂いがしなかった」
五感が極めて優れている幻獣の中でも、天狼は特に鼻が良いって言われている。その理由は人間にはできないレベルでの嗅ぎ分けにある。
魔力の種類を特定するとなれば精霊や竜にしか出来ないと言われているけれど、それでもそれぞれに異なるという形状を感覚的かつ決して間違える事なく記憶していられるらしい天狼であるラスカが言い切り、カノンが怪訝そうにしているというのならば、それは。
「上質な魔具を持ってる? でもそれで呪具の存在を自分のありとあらゆる気配や匂いごと隠しているなら……」
「何かやましい事があるのは間違いないし、その魔具を提供したのは、錬金術士だと思う。……そこまでの効力を持っている魔具なんて、簡単に手に入るわけがないもの――だからといって、錬金術士との接触が容易だとは言わないけれどね」
「なら呪具の提供もそこか。古文書さえ読み解ければ、あいつらに作れないものはないしな」
否定する声はひとつだって上がらない。そう考えたほうが無理なく辻褄が合うからなのもあるけれど、私とカノンはこうした状況を好むだろう錬金術士を知っているから、というのも大きいように思う。
もちろんあの人が本当に関わっているかはわからないけれど、錬金術士が関わっているのは確実と思っていい筈だ。……ラスカも言っているけれど、上質な魔具なんて普通に生きていたら手に入るものじゃないもの。
少量でも魔力を注ぐことで効力を発揮する魔法道具――魔具。
日常生活においても加熱機器だとか電灯といった形で様々な場所で使われている便利道具だけど、戦闘中に用いられるものは魔法ほどの効力を持たないし回数の制限があるけれど、それでも消耗が少ないから一般的に運用されていると聞いたことがある。
ただ生活の中で使われているもの以外は、一般人が手を伸ばせるほど安価ではないし、そもそもお店で販売されているようなものでもない。各国の騎士や軍、王族といった要人たちを除いて手にしている人がいたとしたら、それはまだ人の手の入っていない遺跡に眠っているものを見つけ出したか、古文書を読み解いた錬金術士が作り出したもの以外にないのだ。
その上でクスィオンさんが持っているかもしれない魔具の効力と、〈黒鱗病〉の原因のひとつである呪具の存在を踏まえると、錬金術士によってこのために用意されたものの可能性が高い筈だ。
別にレイン兄たちからもアルマン陛下からも、犯人を捕まえろって言われているわけじゃない。裏付けさえ出来ればこの件に関して私とリフがこれ以上駆り出される事はないと思う。
でも錬金術士が関わっているとなると、良く知る友人たちを思い出して憂鬱な気分にはなるのは仕方ないだろう。……アレンもイヴも、二人の師匠も、錬金術の悪用を嫌っているって知ってるもの。
「呪いが関わってる時点で思ってはいたが、厄介極まりないな」
眉間に皺を深く刻んで額を押さえ、深く溜息を零すカノンの膝からおもむろに飛び上がったリフが、私の方へ泳ぐように近付いてくる。
「こんなにも厄介じゃなければとっくに私とノエルでどうにかしてるわ、にぃ」
眉根を下げて困り果てた表情で長い息を吐くラスカを横目に、リフを抱き留めて、私はぼんやりとティーカップに注がれたままの紅茶を眺めて口を開いた。
「ねえ、ラスカ」
「うん? なぁに、リリィ?」
「アルノーさんのこと、聞きたいんだけど」
そう言って窺うように視線をやると、視線の先でラスカはきょとんとした表情を浮かべた後に表情を緩め、
「リリィは彼の事が気になるの?」
「別にそういうわけじゃなくて」
「恥ずかしがらなくてもいいわ、少し意外とは思うけれど。大体の人は、彼よりもティートさんに興味関心を抱くから」
「だから違うってば!」
にこにこと微笑むラスカから、カノンとよく似た意地悪さを感じるんだけど……!
不服を訴えるように責めるようにじとりと睨むと、ラスカはようやく降参するようにごめんなさい、と言いながら両手を挙げた。もー!
「……俺はあの騎士サマはオススメしないけどなあ」
「カノンは黙ってて」
「……キュ」
「わかった、もう何も言わないから突撃の為の体勢を取るな、リフ」
カノンは敢えて空気を読まないようにするのはやめてほしい。
なんて思いながらカノンを睨んでると、私たちのやり取りを見守っていたラスカが可笑しそうに笑みを零し、
「仔竜ちゃんはリリィのことが大好きなのね」
「キューウ!」
「ふふ、元気なお返事ね。それで、アルノーさんについて聞きたいことっていうのは何かしら? 生憎とあまり交流があるわけではないから、私に答えられる事だと良いのだけれど……」
ちょこん、と首を傾げてラスカが私をじっと見る。
注がれる優しげなライムグリーンの双眸を見詰め返しながら、私は投げかけたかった疑問を口にした。
「アルノーさんが竜殺しの剣を持っていることは、ラスカも知ってるよね?」
「ええ、もちろん。……ただ、彼の剣は私たちが此処で働き始める以前からの持ちものだから、今回の件と関わりがあるとは……」
「アイツ、隠れ家前の森を延々と迷っていたらしいぞ。おまけにリフにも避けられてる」
「…………」
ラスカは僅かに眼を見張り、それから思案げに眉を寄せて手を口元に遣り、
「……これは、あくまでもジェラルド王子から聞いた事にしか過ぎない、ということだけは考慮して欲しいのだけれど、アルノーさんは昔、竜種によって家族の命を奪われたのだそうなの」
「……っ! 竜に!?」
「何がどうしてそんな事になったのか、本当にそんな事が起きたのかはわからないわ。でも仔竜に避けられていて、あの森も迷い続けていたというのなら、彼が竜を嫌っているという噂も本当なのかもしれないわね」
「……確かに、本当にそんな事があったなら嫌っても仕方ないよね」
「……ただ、そうだって言うんならアイツにもやっぱり警戒はすべきだな。呪具の気配もなければヒトとしてあるべき匂いがしないなんてこともないが、竜殺しの剣は呪具や魔具なんかよりも簡単に手に入れられるようなもんじゃない」
カノンの言い括るような言葉に、躊躇いながらも頷く。
そんな話を聞いてもなお、私にはアルノーさんが悪い人には思えないし、〈黒鱗病〉とは無関係なんじゃないかって思うけど……それとは別に――竜殺しの剣は錬金術士にしか作れない事は事実だから。




