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4話が3話の内容と重複してしまっていたため、21/12/12付けで本来の4話の内容に差し替えさせていただきました。
不手際により長らく本来のお話をお読みいただけない状態にしてしまい、申し訳ありません。もし宜しければ改めてお楽しみいただけましたら幸いです。
テオは綺麗な笑顔を一瞬だけ険しいものに変え、けれどもすぐに仮面でも着けるように平静を装って後方を振り返る。私も落ち着くように一つ息を吐いてから倣うように振り返ると、続く廊下の先からぱたぱたと駆け寄って来る制服と思しき服装の女の人と、それを必死に追い掛ける何人かの人影があった。
その先頭――制服姿のその人は私と同じ色をしている。
水色の髪に赤い眼。私よりも長く伸ばされた髪を靡かせ、ドレスの裾を持ち上げて駆ける姿を見て、拭えない恐怖と一緒に込み上げたのは懐かしさと嬉しさ。
姉さんだ。アナスタシア姉さんがいる。
突き落とされた時の記憶は鮮明で、瞼に焼き付いて消えないのに。怖くて震えるし息が苦しくなるけれど、それでも心の何処かで嬉しいと思ってしまうのは、それよりも前の優しい姉さんと過ごした記憶が残っているからだ。
でも、だけど。
「……別人なのね」
ぽつりと呟いた言葉は、きっとカノンとリフにしか聞こえていない。もっともテオに聞かれて困るような事でもないから構わないのだけれど。
近付いてくる姉さん――アナスタシア王女は記憶の中の様子とは大きくかけ離れていた。
昔の姉さんならこんな風に廊下を走ることなんてなかった。それは、はしたないからじゃない。駆け寄るアクアリアを危ないわよ、と嬉しそうに笑って受け止めてくれた姉さんの言葉に羨むような色はどこにもなくて、非のつけ所のない振る舞いをしてきたのはただただ息をするように完璧な淑女だったからだ。
もしかしたら今の姉さんは本当にやりたかったことをしているのかもしれない。私の知る昔の姿は本心を押し殺した姿だったのかもしれない。けどそうだったとしても、私と同じである可能性の高いアナスタシア王女は、私自身がそうだったように元の人格と呼べるようなものを塗り潰している事は確かなのだから。
それに、よりにもよって実の姉の手によって死にかけたアクアリアが、私という前世の記憶を持っているが為に確固たる別の人格と混じってしまったのと、私が把握している限りはそうした体験もなく混じってしまったのとでは訳が違う。もちろん私が正しいという訳ではないし、私が知らないだけで姉さんに何かがあったかもしれないけれど。
いずれにしても私の知る姉さんはもうどこにも存在しないんだろう。それをいまはっきりと突きつけられている気がして、心が苦しい。
…………殺されかけたのにそう感じるなんて、不思議だよね。今の姉さんにとって私が生きてることは間違いなく良い事なんかじゃなくて、それなら彼女の変化に感情を動かすことに価値なんてないのに。
ふと視線を感じて窺うように見上げると、カノンが気遣わしげに眉を下げて私を見ていた。かと思えばリフが器用にフードからは顔が出ないようにしながらも頬に擦り寄って来て、私は驚きながらも吹き出すように笑う。
何も言ってないのに見抜かれちゃうんだもんなあ。
でも大丈夫だと伝えるようにありがとう、と二人に届くくらいの声で囁くと、一つ息を吐いてから向き直る。
「テオさま、どこに行かれていたんですかっ? 突然出掛けられたと思ったらなかなか帰ってこなくてとても寂しかったですし、心配したんですよ!」
甘く、けれども子供のような怒りを宿し責めるような声音で姉さん――アナスタシア王女は駆け寄る先のテオに声を掛け、
「きゃっ!」
直前で躓いたのか、短い悲鳴を上げて倒れかけたその体をテオは素早く支えると、極めて静かに、ともすれば冷ややかに言葉を放った。
「……足元にはお気を付けを」
「あ、ありがとうございます。ふふ、やっぱりテオ様はお優し、」
アナスタシア王女が恥ずかしそうながらも嬉しそうに頬を朱に染めて紡ぐ言葉を、テオは最後まで聞くことなく立たせると手を離して僅かに距離を取った。
「他国の王女殿下にお伝えする必要はないと思いお話しておりませんでしたが、しばし辺境まで足を運んでおりました」
「まあ! テオさま自ら辺境に? 何をしに行かれたんですか?」
「…………」
小首を傾げる姿は、とても可愛らしいとは思う。でもその質問はするまでもなく私達の姿を見ればわかるものだ。テオの背からも私と同じ事を考えていた気配がひしひしと伝わってくる。 ……決してそれを口に出すことはないけれど。
だけどアナスタシア王女はテオを見上げたまま――テオだけを見たままで、テオが諦めたように口を開いた。
「客人の迎えに」
「お客さま?」
きょとんとした表情を浮かべていたアナスタシア王女は、そこでようやく気付いたと言わんばかりに私とカノンに――違うな。
「うそ、なんでこのタイミングでここにカノンさまがいるの!?」
カノンだけを見て驚いたように、けれども歓喜に満ちた声を上げた。
どういうこと? カノンが姉さんと知り合いだなんてことないと思うけど、どうして名前を知っていて、嬉しそうに声を掛けてきているの?
困惑する私の目の前でアナスタシア王女は駆け寄るようにしてカノンに近付き、
「はじめまして、カノンさま! わたくし、アナスタシアと……」
「――気安く触れるな」
伸ばした手が冷たく吐き捨てるような声と共に払い除けられ、ぴたりと動きを止めた。
それはそれは綺麗で愛らしい笑顔が浮かんでいたアナスタシア王女の表情が戸惑いに染まっていく。
「え?」
どうして彼女が信じられないものでも見たかのような顔をしているのかはわからないけれど、その理由がカノンから注がれている視線と表情にもある事だけはわかる。
カノンはいま、アナスタシア王女を冷たい表情で見下ろしていた。
単に無愛想な表情という訳ではない。嫌悪と拒絶がこれでもかというほど満ちた表情と、酷く冷め切った双眸がそこにはあって。それを見間違いようもなく、勘違いのしようもなくアナスタシア王女に注いでいるのだ。
これまで穏やかな顔をしているカノンだけしか見てこなかったテオにとっても驚きだったのだろう、目を丸くして見詰めているけれど、私にとっては驚きでもなんでもない。
カノンは相手を観察して対応を変える。
今回のきっかけはなんだったのかは知らないけど、カノンにとってアナスタシア王女はひと目で好ましくないものだと断じた結果がこれなのだから。
「ごっ、ごめんなさいっ! カノンさまは触られるのがお嫌いでしたね……!」
ハッと我に返った様子で払いのけられた手を胸元に持っていき、きゅっと握ったアナスタシア王女はカノンを見上げて力無く微笑んだ。
それはまるで、演じているかのように。
けれどもそんな彼女にカノンはにこりともせず、冷え切った視線を注ぎ続けていた。
「……それ以前に随分と馴れ馴れしく俺の名を呼ぶものだな?」
カノンが言い放った言葉についぞアナスタシア王女が文字通り固まった。
「ぇ……? あ……」
これはだめ。これ以上は良くない。
想定外だったのか何なのか。いずれにしてもまともな返事を返すことが出来なくなったアナスタシア王女の様子を見て、私は慌ててカノンの服の裾を引いて制止を掛ける。
彼女の行動の何がカノンの不快を買ったのかは分からないけど、テオの事も驚かせて戸惑わせている以上は私が止めなければカノン自身が満足しない限りは終わらない。
それに――さっきからリフが低く唸っている。
言い付けを守って飛び出す様子はないけど、アナスタシア王女が近くなってから明らかに敵意を示し始めたし、カノンの態度に呼応するようにその度合いが酷くなってきている。
たぶん、このままだとリフが飛び出しかねない。それは今は絶対に避けるべきだ。
私の制止に気付いたカノンはすぐにこちらを見下ろし、ややあって目を伏せてからひとつ息を吐いた。
よかった、アナスタシア王女を責め立てるような態度はやめてくれるみたい。応じてくれた事にホッと安堵しつつ、次にテオに声を掛けようとして、
「シア!」
アナスタシア王女が駆けてきた方向と同じ。長く続く廊下から聞こえてきたのはアナスタシア王女を指し示すであろう愛称。
その声はアナスタシア王女が引き離してしまっていた侍従ではないのは、既にアナスタシア王女から下がった位置に佇んでいる様子からも分かる。
では誰なのか、と目をこらす私とは対照的にテオは額を押さえ、アナスタシア王女は弾かれたように振り返って口を開いた。
「リュシーさま!」
文字通り弾むような声でアナスタシア王女が口にした名前には、愛称には覚えがある。
それが正解だと言うように廊下の先から駆けてくる人影は金髪を揺らしていた。次第にはっきりと捉えられるようになった整った顔立ちを彩る双眸は碧眼をしていて。
それらをもったアルノーさんともう一人騎士を従えたその少年とも青年とも言い難い年頃に思える人物は、テオを見て何故だか表情を険しくさせた。
「リュシアン」
「……テオドール兄上」
リュシアン――リュシアン・リュンヌ・スィエル。
スィエル王国の第三王子でありテオの弟に当たる人物だ。
テオとは違う、アルマン陛下と同じ白金の髪に青い眼をしているけれど、顔立ちはどこかテオと似ている。
「アルノーより聞きましたが、先ほどお戻りになったようですね。大事ないようで、何よりです」
「ああ。今は客人を部屋まで案内しているところだ」
……何だろ、変な感じ。
リュシアン王子の表情は優れないままだし、テオも少しだけ困っているような……ただそれでも話が出来ないって様子はなくて、テオの言葉に眉を寄せたリュシアン王子が私とカノンをじっと見て、
「客人? この者たちがですか?」
じろじろとぶしつけに眺めてくるリュシアン王子には、私とカノンがただの平民に見えるのだろう。それはそれで構わない事だ。私はただの村娘であることには違いないし、カノンはこの程度でさっきのような態度を取る事はないのだから。
ただリュシアン王子のこの態度が良いと言えないことはテオの呆れの滲んだ様子や、リュシアン王子に駆け寄り擦り寄るようにしていたアナスタシア王女が慌てたように彼の名を呼んだ姿を見ていなくても分かる。……アナスタシア王女の反応はさっきのカノンの様子も関係しているのかもしれないけど。
「……あまり無礼な態度は取らないようにしろ、リュシアン。彼らは陛下が迎え入れられたこの国の賓客だ」
「父上が……何の為にこのような者達を?」
「その態度を改めろと言っているんだが……それと、陛下をお呼びする時は気をつけたほうが良い。あの方は俺達の父であると同時に、俺達もまた敬うべきこの国の王なのだから」
困ったように片手を腰にあてがい僅かに眉を下げながら、窘めるように言うテオに、リュシアン王子の表情が忌々しげに歪む。それを見たテオは少しだけ目を伏せながら視線を逸らすと、私達に向き直った。
すまなそうに眉を下げたテオは行こう、と私達を促したけど、
「テオさまっ、お待ちください!」
アナスタシア王女に引き止められて動き出すことを止める他なかった。
まだ何かテオやカノンに話があるんだろうか。どちらにしてもそろそろボロを出してしまいそうだから立ち去りたいんだけど、と私には用がないとわかっていながらもちらりと振り返ると彼女はどうしてだか私を真っ直ぐに見ていて。
「俺に何か御用でしょうか、アナスタシア王女」
「ええ! というよりも、テオさまたちがわたくしに御用があるのでしょう?」
テオ達が自分に用がある?
それは一体どういう意味なのかと見詰め返したのはテオや私やカノンだけじゃない。アナスタシア王女の傍に立つリュシアン王子も、その奥に佇むアルノーさんたちも同じで。
困惑する私達の目の前で、アナスタシア王女は花が咲いたような笑顔を浮かべてはっきりと言ったのだ。
「だってそこの外套を着込んだ方は、仔竜をお連れではありませんか!」




