11
口元を拭うカノンを呆然と見ていると、抱えていたリフがもぞもぞと身を捩って抜け出し、
「キューイ!」
「リリィ、大丈夫か!?」
そのままリフがカノンに突撃するのと、剣を収めるのも忘れてテオが駆け寄って来るのは同時だった。
焦燥と動揺を隠しもせずに尋ねてくるテオを見上げて、瞬きをひとつふたつ。それからへらりと笑いながら立ち上がり、
「うん、私もリフも平気。テオが守ってくれたし、カノンも助けてくれたから」
「そうか、よかった……しかし、カノン殿、というと彼が……?」
ほっと安堵した表情を浮かべたテオの視線が、ゆるやかに一点へと向けられる。そこにいるのはもちろんリフにじゃれつかれるカノンだ。
「こぉら、突撃は危ないからしちゃだめだっていつも言ってるだろ?」
「クルルルルル……」
「はぁ……まったく、嬉しそうに喉を鳴らしてくれちゃって。そろそろ少しは落ち着いてくれてもいいと思うんだけどなあ」
言いながらリフを両手で持ち上げるようにして頭の上に乗せると、そこでようやくカノンは私とテオに視線を寄越した。軽く手をひらつかせながら近付いてくるカノンに、私も応えるように手を振って見せて、
「テオの想像通り、これまで話していた天狼は彼のことだよ」
ちら、と目を遣るとテオは目を丸くしたままカノンを見ている。それはまっすぐに注がれているカノン本人もわからない筈もなく、少しだけ困ったように眉を下げた。
「そんなに熱心に見詰められると反応に困るんだが……」
「っ! すまない、不快な思いをさせてしまったか」
「ああ、不快には思ってないからその点は気にせず。……キミがテオドールで間違いなさそうだな? 俺はカノン、カノン・セレスティアル。リリィの護衛とリフの目付け役、それと伝令役も仰せつかったしがない狼です」
どうぞよろしく、と人当たりの良さそうな表情を浮かべるカノンに、テオの表情が僅かに緩んだ。
カノンことカノン・セレスティアルはレナが見付けて保護した天狼だ。
なんでもひっそりと集落を作って暮らす天狼でありながら一匹狼を気取って集落という形を取った群れから離れた結果、様々なやっかみとかを受けて衰弱しかけていたところを、レナが偶然見付けてレイン兄のとこに連れ帰ったのが出会いらしい。
この話を私はカノン本人から一度だけ聞いた。でもカノンを傷付け追い込んだのは決して彼が一人で過ごすことを選んだからだけではなく、色のせいもあるのだろうとレナやレイン兄たちは言っていた。
狼という獣の姿を取ったカノンの毛並みは、美しい銀色をしている。でもいま人の姿を取るカノンはといえば艶やかな黒の癖髪。それが本来なら単色であるべき天狼の中では異質過ぎたのだ。
黒い髪がおかしいわけじゃない。銀の毛並みがおかしいわけではない。ただ黒と銀、父母それぞれが異なる色を持っていた影響であるらしい姿かたちで異なる色合いは、繋がりを大事にする天狼の中においても異様であり、弾かれる一因のはなったのだろう、と。……本当の理由はカノン本人しかわからないんだけどね。
言うまでもないけれどカノンがレナによって保護されたのは私が生まれるよりもずっとずっと前のことだ。レナもだけれど、私がレイン兄に保護された時にはレイン兄たちのところにいて、頻繁に顔を合わせながら育ってきたような関係だ。
だからレナのことを姉のような存在と思うように、カノンの事も兄のような存在だと思っている。……カノンはレナのように兄であると自称することはほとんどないけれど。
「しがない狼なのかはさておきとしても、助かったよカノン。ありがとうね」
「どういたしまして。本当に、間に合ってよかったよ。イスイルのところから帰る途中でリュミィから聞いて、そこからまっすぐリリィを探してたんだけど、もう少し遅れていたら危なかったな?」
「あはは……せめて自衛の手段くらいは学べたら良かったんだけどねぇ」
口の中をすすいだら、と水筒を手渡すと、カノンはすぐに中の水を手に注ぐとそこから口に含み綺麗にして吐き捨て、ありがとうと水筒が返される。
何度だって繰り返すけれど、私に戦う力はない。
それは周囲から戦う力などなくていいと言われて育ったからではない。私の意識と感覚が前世に引きずられている結果として武器を手にして戦うという行為を怖いと思っている事と、今の私の年齢ではまだ魔法を覚えるにも不安定だからという事情がある。
後者については誰もが魔力を持つというこの世界でも特別珍しいことではなく、むしろ私の年齢で扱える方が珍しいそうなのだけれど、前者については私自身の問題だ。
言い換えれば魔法も武器の扱いもレイン兄たちから教えてもらう機会はあったけど、それこそ魔物相手にだって攻撃をするという事が出来なかった。戦わなきゃ殺されるとしても、である。
一応護身用の短剣は隠すようにして持ち歩いているけど、役立つかはわからない脅し用のものだ。シル姉はお守りだと言っていたけれど、要は使う事がないことを願われているのだろう。
「いずれはレナにでも教わるといいさ。あの子ならリリィでも少しは戦えるような剣の扱いも、魔法の扱い方も教えられるだろうし」
優しく目を細めながらカノンが言う言葉は、多分レイン兄とシル姉は本来なら戦い方を教えるのも魔法の扱いを教えるのも向いていないという自称と関係しているのだろう、と思う。
曰く、感覚での扱い方になってしまうから教えにくいのだとか。そういう意味では剣の扱いはさておき魔法の扱いは精霊であるレナにとって感覚そのものだと思うのだけれど、カノンがはっきりと言うということはその点の問題はないのだろう。
「まあ、目の届く範囲でなら俺達が守れるし、リフが成竜になれば安全は保証されるようなものだけど」
「うーん……別にカノンたちに守られるのは良いってことじゃないけど、リフに守られるだけっていうのはちょっとなあ」
竜とはいえ生まれた時から見守ってきた子が傷付くのを見ているだけだなんて、おかしいと思うし。
思わず眉を下げると考えていたことを読み取ったようにカノンがにっこりと笑った。
「だと思った。リリィらしいな」
そう微笑ましいものを見るような顔は、少し居心地がわるいですカノンさん。
ちょっとだけ恨みがましく見ていると、不思議そうにしていたリフがすい、と泳ぐようにこちらに飛んできて、カノンはといえば楽しそうに笑いながら黙したままのテオを見た。
「それで、君は興味深げな視線を寄越し続けているけど、気になることでも?」
リフを抱き抱える私のそばで首を傾げるカノンに、テオは緩く首を横に振り目を細める。
「いや、カノン殿は随分とリリィと気さくに接されるのだな、と。貴方に限らずレナにも思った事ではあるんだが」
「ああ、なるほど。世間一般的には精霊も天狼もそうそう人と共にあるものじゃないか……おまけに竜までいるしな。ただ居心地が良いからあの場所にいて、好ましいから一緒にいるってだけだよ。俺はレインたちの傍は居心地が良いし、グレンやリリィが好ましいし良い子たちと思うから穏やかに在り続けられる。そういう感情や感覚は王族である君ならよくわかると思うけど」
それと気楽に接して欲しい、と言ってカノンは柔和な笑みを浮かべた。
居心地が良い場所や好きな人のそばにいたいって思うのも感じるのもみんな同じだと思うけれど、ほとんど決まったルーティーンというかサイクルを繰り返すところのある人間以外の種族はその辺りを何よりも優先するらしい。だから彼らに加護を授かっていたり契約をしていたり、という人間は少ないのよね。
レナやカノンに言わせれば人間は怖がりすぎで同胞達は警戒しすぎなだけで、案外顔を合わせたらパートナーは増えるだろうに、とのことだけれど。
テオはしばらく眼を瞬かせていたけれど、やがてふっと笑ってそうだな、と小さく頷く。その様子を穏やかに笑みながらもどこか値踏みするようにカノンが眺めていることに、テオは気付いているのだろうか。
気付いていたとしてもしていなかったとしても、カノンが初対面の相手を観察するのは例外ないことであるし、気付いていても無為に指摘するよりは好きにさせたほうが良いのだけれど。
と、その時だ。
「殿下! リリィ嬢! ご無事ですか!?」
がさがさと茂みを鳴らして大きな声を上げながらアルノーさんが戻ってきた。
テオと私に逃げるようにと声を荒らげたはずの彼が何故すぐに戻ってこなかったのかは、僅かに乱れた息と利き手に握られた血塗れの抜き身の剣を見れば一目瞭然――どうやら叫んだその時からおそらくは今さっきまでフォレストドッグか別の魔物を相手取っていたらしい。
アルノーさんは焦りと動揺に染まった顔ながらもテオと私を見て安堵したように短く息を吐き、だけれどこちらに近付いてくる足はカノンを捉えて止まった。
「こちらは無事だ、アルノー。お前も無事だったか」
「複数の魔物を退けていましたので戻るまでに時間は掛かってしまいましたが、私はこの通り。殿下とリリィ嬢もお怪我がないようで。……それで、そちらの男は?」
じっと視線を注がれるカノンはアルノーさんに振り向きながらも柔和な表情を崩さない。ただ極々わずかに目を細めたけれど。
「彼がレイン達の話にあった天狼――カノンだそうだ」
「天狼!? これが……!? ただの人間にしか見えませんが……」
僅かに目を見開きながらもすぐに怪訝そうな視線をカノンに向けるアルノーさんに、テオが眉を寄せて息を吐く。
「アルノー、そうして無礼な態度を取るのはやめろ」
「し、失礼致しました……! ですが、この者からは、」
「威厳も何も感じない、だろ?」
アルノーさんの言葉を遮るようにして続くはずだったであろう言葉を引き継いだのはカノンだ。弾かれるように振り向いたアルノーさんの顔が強ばったことにも構わず、カノンはにっこりと笑って、
「そんなに驚くことでもないと思うけどな。何せ自覚はある、威厳もなければ気高さも感じないからどこにでもいるような人間に見えるってな。ただ自覚はあっても指摘されたところで不愉快さはない、俺は別に他の天狼のような存在になりたいわけじゃないから」
「むしろ人里に降りるにはそう感じさせない方が気が楽なんだっけ? 確かレナやロランたちとかも言ってたよね、そんなこと」
容姿で目を引いてしまうのは仕方ないにしても、それ以外においては没個性の方が良い。
そう言い切ったのはカノンとレナ以外にも数える程はいる。その誰しもが人里にはあまり降りることのない種族だったり、ちょっとした事情を抱えた人たちだ。
そしてそれはリフを連れ歩く私もそうといえばそうで。だからこそ私はリフを連れて歩く時には不必要に隠したりはしない。その方がまだ体格の小さなリフは目立たないと教えられたし、自分自身でも試してみて学んだからだ。
カノンは首を傾げる私に満足げに頷いて、
「そうそう。ロランたちやクルセなんかは特に視線を集めすぎると周りをざわつかせすぎるのもあるけどな? だからむしろそう感じてくれた分には少し嬉しいよ、騎士様」
「…………」
瞬間、アルノーさんの表情が歪んだ。間違いなくカノンの呼び方が引っかかったんだろうけど、これは意趣返しとかではない。
カノンは本当にアルノーさんの言葉を気にしてはいない。ただ、カノンは相手を観察してその対応を変えるような困ったところがある……間違いなくそのせいだ。
「……アルノー・ヴィデールだ」
「ご丁寧にどうも。俺はカノン・セレスティアルだよ、騎士様」
「…………」
不服げに、不愉快そうに眉を顰めるアルノーさんに対して決して人懐こそうな笑みは隠さない――むしろどこか楽しそうとさえ思える笑みを浮かべたままのカノン。
その様子を見てただごとじゃないと感じ取ったのか、二人の仲裁をしようとしたテオを私は服の裾を掴んで引っ張ることで止める。
「リリィ?」
「テオ、気にしないで。これはカノンのせいだから、むしろ謝るべきなのも咎めるべきなのもこっち。……言ったところで聞いてくれないだろうけど」
基準も理由もわからないけれど、カノンはアルノーさんの事を好ましいとは思えなかったみたいだ。名前さえもまともに呼ぼうとしないのは珍しいけれど、こればかりは誰に何を言われたって――レナやレイン兄たちに叱られたって変えようとはしないから。
ただそれでも、と半目で睨むように見るとカノンはにこにこと笑ったまま、何も答えることはなくて。
私は深く深くため息を吐く。それからアルノーさんへと向き直って、
「まったくもう……! すみません、アルノーさん。カノンが失礼をしてしまって」
アルノーさんはちらりと私を見てからカノンを一瞥すると、ゆるゆると首を横に振って目を伏せた。
「いや、リリィ嬢が謝ることではない。そもそもとして私に落ち度があったのだろうからな」
「おっと、意外と殊勝な態度」
「カノン!」
揶揄うような言い方をするカノンを叱るように名前を呼ぶけど、どこ吹く風で懲りた様子も反省する気配もない。
今回ばかりはアルノーさんが悪いとは思えないから、言い返す様子もない事が申し訳なくなってきてしまう。
本当に何がどうして気に入らなかったんだか。テオの事は名前で呼んでるんだから、カノンにとってこの場で何かがあったのは間違いないんだろうけど……態度は改めないってわかってるけど、あとでレイン兄たちやレナには言い付けてやるんだからね!
戸惑うようなテオに見守られながら睨みつけるけれど、飄々とした態度を崩さないカノンは気にもとめずにそろそろ出発した方がいいんじゃないか、と提案を口にした。
確かにそう。確かにそうなんだけど、釈然としない気持ちを抱いてしまうのは仕方ないと思う。
でも絶対どうしてアルノーさんに失礼な態度を取るのかって理由を聞いても答えてはくれないだろうし、平行線の言い合いをするほど無駄な時間はないから。
ふう、と息を吐いてもう一度アルノーさんと、それからテオに謝ってから休憩を切り上げようと促すと、テオはちらりとカノンを見てからそうだな、と頷いた。
「アルノー、急ぎ支度を」
テオの呼び掛けにアルノーさんが抜き身の剣についた血を拭き取ってから鞘に納め、目礼をする。
「承知いたしました」
寸分の無駄な動きもなく自分の馬に装備を着け直し、荷を乗せ始めるアルノーさん同様、少し待っててくれとだけ言い残してテオもまた支度を始めた。
その幾らでもない時間をリフを抱えたまま眺めて待つ間、私はカノンを横目で睨みつける。
「……あまりにも失礼な態度が過ぎるよ? カノン」
するとカノンはきょとんとした表情を浮かべ、
「仲良しこよしは頼まれてないし?」
「テオには普通の態度なのに……」
「流石は彼の子孫というべきか、別段嫌う理由はないからなあ」
「……それって、アルノーさんには明確な理由があるってこと?」
テオへの対応の理由が引っかかって尋ねると、カノンはふ、と頬を緩ませる。
「俺の役割はグレンの代わりのようなものなので、万が一に備えて警戒する義務があるのです」
「キャウ!」
返された言葉は答えとは程遠いものだったけれど、何故だかカノンの言葉にその通りだと言わんばかりにリフが鳴き声を上げた。……わっかんないなあ。
ただそれ以上は教えてくれそうにないカノンに、私は息を吐くと眉を下げて小さく笑った。
「アルノーさんだってそんなに悪い人じゃないと思うよ? ただ少しだけ疑り深くて警戒心が強くて、でもそれは多分テオの事を思ってのことだもん」
竜に対して好意的とはいえないかもしれないけど、それでも決してリフを傷付けようとはせず、むしろ寛容が過ぎて行動力に溢れすぎているテオを思うばかりに必要以上に何もかもを過剰に疑い、警戒しているだけ。
私にはただそれだけで、真っ当な騎士様のように感じるから。
そう言うだけ言って私を呼ぶテオの元へと駆け寄った私には、真剣な面持ちでカノンが呟いた言葉は耳に届くことはなかった。
「リリィが抱いている印象も間違いではないんだろうが……竜殺しの剣を所有しているようだし、何よりもレインがリリィに俺をつけたという事は警戒を怠るなと言っているようなものだろうからな。おまけにリフを怖がらせる程の竜への憎悪と嫌悪……近衛騎士アルノー・ヴィデール、過去に一体何があったのやら」




