猫の話
とある雑居ビルの一室、<月見里探偵事務所>と仰々しいプレートの掲げられた扉の中には、少しばかり草臥れたソファーと細かい傷のついたテーブル、パソコンと電話機が置かれた机に、少々埃をまとった本の並べられた本棚があるだけだった。そして、百人が百人ともこの部屋の主であると間違うことのない風体の、探偵月見里が収まっていた。
探偵などと名乗っていても、舞込む依頼の殆どは迷子のペット探し。しかしコレがよく見つかると大評判で、本人のやる気のなさとは裏腹に、日夜草むらに分け入り、ビルの隙間を抜け、塀の上を登ったり降りたりと、この界隈では少々有名であった。
そして今日も一本の電話に呼出され、事務所から程近い閑静な住宅街、所謂“お金持ちが住む所”に足を向けた。月見里は自分の風体と綺麗に並んだ家々を見て、一寸足を止めたが、今更気にする事でもないと足を動かした。
依頼主との約束の時間までまだ幾ばくかあり、月見里は少し遠回りをする事にした。
路地を二,三本曲がった所で、住宅街には似つかわしくない人だかりに出くわした。月見里は‘厄介事の匂’を感じ踵を返したが、時すでに遅し、「月見里先輩!」と若い男に声を掛けられた。
「先輩! 奇遇ですね! こんな所で何してるんですか?」
「矢代君こそ、こんな所で油を売っていて良いのかい? 勤務中だろうに」
「そうです! まさしく僕は勤務中です! だからこうして今朝方発生した火事の現場にいるんです」
「ほう、ここで火事があったのかい?」
八代は「そうなんです!」と言うと、手帳に書かれたメモをすらすらと読上げた。
「なるほどね、しかし君、私は“部外者”なのだから、そんな重要な事をペラペラと喋るのは如何なものかと思うのだけれど」
「あっ! そうでした! 先輩はもう刑事を辞めてしまっていたんでしたね。でも先輩なら他言しないでしょう?」
「確かにそうだが……。ところで、あの門の所に立っている女の子はその家の子かい?」
「女の子? どこにそんな子が居るんですか?」
きょろきょろと辺りを見渡す八代を見て、月見里は慌てて自分の発言を撤回した。
「いや、すまない、どうやら私の見間違いだった様だ。
それじゃあ、人と会う約束があるからこれで失礼するよ」
そう言い残して足早にその場を去る月見里に、八代は首を傾げた。
「あの家に子供なんて居ないんだけどなぁ」
◇・◇・◇・◇・◇
思わぬところで時間を食ってしまい、月見里は約束の時間ギリギリにインターホンを鳴らした。
「どちら様でしょうか?」
「探偵の月見里と申します」
「お待ちしておりました。少々お待ちください」
しばらくして、玄関から家政婦風の女性(後に家政婦と分かる)が現れた。月見里は、こういう住宅でも奥方は意外と普通の人なものだなと表情には出さずに思った。
通された客間で出された紅茶を啜っていると、先ほどの女性とは異なる足音が聞こえた。月見里が、はて、本当の依頼主は旦那の方だったかと思っていると、福与かな女性が部屋に入り、月見里の向かいに座った。
「真紀さん、私にもお紅茶を淹れて欲しいざます」
「はい。奥様」
その‘あまりにもな喋り方’に、月見里はカップをテーブルに置いておいて良かったと心底思った。
依頼主は出てきた紅茶をグビリと飲むと、開口一番に「私のマーガレットちゃんを探して欲しいざますの」と、身を乗り出して訴えてきた。
まったく何の情報もなしに探せと言われても無理だという内容をやんわりと伝えると、依頼主はペラペラと喋りだした。けれど一向に要領を得ず、やれマーガレットちゃんは賢いだの、可愛いだの、あんなに可愛いのだからきっと誘拐されただの何だの、ついにはハンカチを目元に当て泣き出してしまった。
「えっと、つまり、その……猫の捜索…ですか?」
「違うざます! マーガレットちゃんを猫呼ばわりしないで欲しいざます!」
ハンカチの当て所を変えて欲しいと月見里は思いながら、依頼主の話をまとめた。
「今回の依頼は、マーガレットちゃんの捜索でよろしいでしょうか?」
「そうざます。可愛い私のマーガレットちゃんを今すぐ探し出して欲しいざますの」
初めからその一行を話していれば無駄に時間は掛からなかっただろうにと月見里は思う。
「では報酬についてですが……」
「お金は幾らでも出すざます!」
そのあまりの剣幕に月見里はたじろいだ。(これがなければ、いつもよりも多めに報酬が手に入ったかもしれないと後に後悔する事になった。)
それからはより事務的に契約書を交わし、前金を受取って早々に依頼主の下を後にした。
◇・◇・◇・◇・◇
いまひとつ、捜索対象について情報はないものの、今までの経験から‘家猫のよく居る所’を重点的に探し回った。
けれど一向に手掛かりすら見つからず、日暮れが近づき街頭が灯り出した頃、これは詳しい奴に話を聞いた方が早いなと月見里は事務所に戻った。
引出しをあさり小さな布の巾着を取出すと、それを鞄にしまい、今度はビルの隙間を歩き始めた。
他者から見れは闇雲に歩いている様に見える道順、時には人が歩くには向かない所を歩きながら、月見里はようやく目的地に着いた。
等間隔に並んだ行燈の明かりが怪しく揺らめくその道を進むと、古い門が見えた。その門を潜ると足元から声が聞こえた。
「これはまた兄さん、お久しゅぅ」
「又助か、今日は姉さんはいらっしゃるかい?」
「生憎、姉さんは寄合で今日は留守にしてますわぁ」
「じゃあ又吉は居るかい?」
「又吉さんならいつもの店に入るのを見ましたよぉ」
「そうかい、ありがとう」
そう言って月見里は事務所から持ってきた巾着から小枝を取出すと、又助に手渡した。
「これはまた、良いマタタビじゃぁないですかぁ」
「お前さんら猫又もコレが好きだろう?」
「ええ、ええ、もちろんもちろん」
貰ったマタタビを大事そうに抱えると、「それじゃぁわたしゃぁこれでぇ」と又助は闇に消えていった。
行燈の灯りを頼りにしばらく進むと、目的の店にたどり着いた。
店の中はこじんまりとした普通の居酒屋といった所で、4人掛けのテーブルが2席にカウンターが4席あった。
「又吉は居るかい?」
人にとって小さい店内には入らず、月見里は引き戸を開けて中に声を掛けた。
「月見里の旦那じゃないですか。今店ん中にゃ又吉さん達しか居やせんから、どうぞ中に入ってくだせぇな」
「そうか。それじゃぁ大将邪魔するよ」
月見里は窮屈そうに腰を屈めると、店の中に納まった。
「月見里さん、お久しぶりです。今日は何用で?」
「いやね、猫を探しているんだが…」
「ハハッ、月見里さんに見つけられない“外猫”が居るとは到底思えませんが?」
「私も、幸か不幸か猫を探すのは得意だと思っていたが、これがさっぱり見つからなくてね。
又吉なら“外猫”に詳しいから何か知っているんじゃないかと思ってね」
「月見里さんは俺を買いかぶり過ぎですよ。
それで、そいつの特徴は?」
月見里は店の物に当たらない様に細心の注意を払い、鞄から一枚の写真を取出した。
「依頼主から借りられたのがこんな写真しかなくてね」
差出された写真を両手で受取ると、又吉は顔を歪めた。
「これは、なんとも……」
誰の目にも明らかなほど不機嫌に歪んだ顔に、似つかわしくない花をあしらったボンネットを被り、フリフリのドレスを身にまとった一匹の猫の写真であった。
「他の写真はないか聞いたんだが、『これが一番愛らしく写っている』と聞かなくてね」
「左様で…。しかし、この顔どこかで見た気が…」
「それは本当かい?」
「さてどこで見たものか…」と又吉が首を捻ったのと同時に、店の戸がガラリと引かれた。
「兄貴! 頼まれた物買ってって何で人間が居るんだよ!!」
意気揚々と扉を開けたかと思うと、すぐに毛を逆立てて月見里を威嚇しだした。
「これ、寅、この人は俺のお得意さんなんだから失礼な事をするんじゃない」
「人間が??! 兄貴のお得意さん???!!!!」
半信半疑のまま寅は壁伝いに又吉の隣に行くと、今度はギャァと声を上げた。
「あっ兄貴!! なっ何で!! そんなもの!! 持って???!!!」
「ん? この写真のことか?」
そう言って又吉が写真を寅に向けるとまたギャアアァと騒いだ。
「そういえば、君、この写真の猫にそっくり」
「うるせぇ人間! そっくりも何も! それはオレ様なんだよ!!」
又吉から写真を奪おうと、寅もといマーガレットは躍起になっていた。見るに見かねて、月見里は写真を回収すると鞄の中に仕舞いこんだ。
「すると、君がまーがれ」
「ギャアァ! オレ様をその名前で呼ぶな! 人間!」
月見里に飛びかかろうとした寅を、又吉は手にした煙管でいなした。
「寅、俺はお前が捨て猫だと聞いたから、しばらく面倒を見てやると言ったんだ。それなのに、お前さんは飼い主の所から逃げ出してきたそうじゃないか」
「だって兄貴!」
「だってじゃない。俺はお前さんが嘘をついた事について話をしているんだ。
いいかい、寅、この街は“飼い猫はこの街に暮らしてはならない”と決まっているんだ。お前さんは今その掟に背いてしまってるんだ。この意味が分かるかい?」
「オレはあの飼い主の下には帰らない! あんな、あんな、女みたいな格好二度と御免だ!」
「ん? マーガレット、君は雄なのかい?」
「オレ様のどこが雌だって?!!!」
そう言って仁王立ちするマーガレットを見るが、何分全身がふんわりとした毛に覆われてちゃんと見えないが、幾ばくか、ふっくらとしている様に見えた。
月見里と又吉はお互い顔を見合わせてドッと笑った。寅は笑い事ではないと憤慨した。
「お前さんが飼い主にどう見られているかは俺には関係ない話だ。兎に角、お前さんは一刻も早くこの街を出るんだ」
「嫌だ! オレは絶対に帰らない!」
「寅!」
「オレは、オレ様は、死んでもこの街を出ないからな!!」
そう寅が叫んだ瞬間、スンと空気が冷たくなった。
「月見里さん!」
「ああ、分かっている」
ひとり事情が分からず毛を逆なでるマーガレットを月見里はむんぐりと攫み、店の外に転がり出た。そのまま、マーガレットを俵の様に担ぐと全力で走り出す。
「何するんだ! 離しやがれ!」
「生憎と、私は君と心中する気はないのですよ」
まったく思ってもいなかった、けれど物騒な言葉にマーガレットは少しだけ冷静さを取り戻した。そして、通りに、文字通り猫の子一匹居ないことに気が付いた。何時もであれば、猫又や野良猫で賑わっているのにと。
それだけではなく、家々の明かりは消え、道端の行燈の灯りだけがゆらゆらと揺らめいていた。それも、街の奥の方から少しずつ闇に消えていっていた。
その消え方に違和感を感じ、マーガレットは街の奥を凝視した。
「なんだ、ありゃ……」
「あれはこの街の“異物を消すための闇”です。君はあの時、返答を間違えたので、この街の異物となり排除される対象になったんです」
「異物…オレ様が……?」
「そうです。君は『死んでもこの街を出ない』と言った事により、この街の“飼い猫はこの街に暮らしてはならない”という掟を破ってしまった。この街は姉さんの決めた掟が絶対ですから、それを破った君はこの街にとって不要なモノになったんです」
月見里の言葉に、マーガレットは「オレ様は要らないモノなのか…」と小さく呟いて項垂れた。
ようやく事態を理解し大人しくなったマーガレットを抱えなおすと、月見里は走る速度を上げた。闇は少しずつその距離を縮めてきた。
「兄さん! 門を開けておきやした!」
屋根の上を四足で駆けながら、又助は月見里に向かって叫んだ。
「あぁ、すまない!」
「けど、時間外ですから、何処に繋がっているかは……」
「分かっている。又助も早く家の中にお入り」
「はい。兄さん、お気をつけて」
こんなに走ったのはいつ振りだろうかと、月見里は頭の隅で思ったが、あまりいい思い出ではなかったので、走ることに意識を集中させた。
ようやく、門の輪郭がはっきりと見える所までたどり着き、月見里はちらりと後ろを振り向いた。行燈の数にして五つ、間に合うかどうか、怪しかった。
「マーガレット君、君は着地は得意かい?」
「は? そりゃ、オレ様は猫だから…ってまさか……?」
「それでは、頑張って着地してくれたまえ」
月見里は走る勢いをそのままに、マーガレットを門の外にぶん投げた。
「おまっ! おい! 人間!!」
くるりと空中で反転したマーガレットの目に、月見里が闇に―。
◇・◇・◇・◇・◇
「あれからすぐにマーガレットちゃんは私の所に帰ってきてくれたざますのよ」
依頼の結果報告のため、依頼主の下を訪れた月見里は目を見開きその腕の中を見つめていた。
「探偵さんには悪いざますが、マーガレットちゃんは一人で帰ってきたざますから、残りの報酬はお支払いできないざます」
「それは、仕方のないことですので…」
依頼主は兎に角マーガレットを構い倒したいのか、頬ずりをすると「それでは失礼するざます」と言って部屋を出て行った。
月見里は事の全様を説明する必要がなくなったと、安堵のため息をついた。
「奥様は、今朝からずっとあの様子で、よほどマーガレットちゃんが戻ってきたのが嬉しいのでしょう」
「結果はどうあれ、無事に戻って良かったです」
玄関までの道すがら、家政婦の真紀と月見里は二,三言葉を交わした。
月見里が靴を履き終わり、ドアノブに手を掛けたところで「探偵さん」と月見里は真紀に呼び止められた。
真紀は振向いた月見里に封筒をひとつ差出した。月見里は不思議に思いながら封筒を受け取った。
「これは?」
「気持ちばかりですがお受け取りください。今回、マーガレットちゃんが大変ご迷惑をお掛けした様ですので」
「いえ、私は、結局マーガレットちゃんを“連れて”帰れませんでしたから」
封筒を差返そうとする月見里の手を真紀は押し返し、頭を振った。
「いえ、探偵さんがマーガレットちゃんを還してくださったのに変わりはありませんから」
「では、有難く頂戴いたします」
月見里は封筒を鞄に仕舞うと、まっすぐに事務所へと向かった。
原稿用紙:19枚