3-31話 天使のゆくえ
静かに箸を置いた美雪が、勢い良く椅子から立ち上がる。
「んゅ?? 誰だろー?」
胸元のフリルと真っ白な肩がくるりと後ろを向き、小さなお尻が玄関に向かって遠ざかっていく。
(胸はないけど、スレンダーで良い体してるよなー)
「いや、ちょっとまて!!」
一瞬だけそんなことを頭に過ぎらせた史記が、テーブルを押しのけて真っ白な肩に手を伸ばした。
滑らかな人肌が手に伝わり、不思議そうな表情を浮かべた美雪が振り返る。
「ふゅ?? どうしたの、お兄ちゃん??」
「とりあえず席に戻ってくれるか?? 自分の格好を思い出すべきだと思うぞ?」
来客が誰であろうと、天使のような水着姿をさらすのはどう考えてもまずい。
高確率で史記が変態扱いされてしまう。
もしご近所さんだとしたら明日からの井戸端会議のタイトルが『淡路兄妹の秘密を探る。兄は重度の変態か?』になるだろう。
それだけは何としてでも避けたかった。
そんな史記の思いが通じたのか、ハッとした表情を見せた美雪が動きを止める。
「ほんとだ!! じゃぁ、お兄ちゃん、あとよろしくー」
「へいへい」
名残惜しさを感じながら手を離せば、美雪は素直に席へと帰ってくれた。
肌の暖かさが残る手のひらを握り締めて、鋭い視線を廊下に向ける。
(誰だよ!! 人の幸せの絶頂タイムを邪魔する不届き者は!!)
そんな思いで廊下を進み、玄関に出た。
街灯の明かりが差し込む磨りガラスには、来訪者のシルエットが浮かび上がっていた。
あまり高くない身長、華奢な肩。
女性のように見える。
ピンポーン。
そうこうしていると、もう一度ベルが鳴った。
急ぎの用事でもあるのだろうか。
「はいはい。今開けますよー」
そう声をかけながら、史記がドアに手を伸ばす。
ガチャリと音を立てて開いたドアの向こうに立っていたのは、なじみ深いスーツ姿の女性。
「ん? 律姉??」
ドアの隙間から顔をのぞかせて声をかければ、疲れた表情を浮かべる律姉の顔にちいさな笑みが浮かんだ。
「こんばんは。夜なのにごめんね。ちょっとだけ史記ちゃんの力をお姉さんに貸してくれないかな??」
どうやらまた問題が起きたらしい。
瞬時に思い浮かぶのは、裏技とでも言うべき免許証取得の方法が律姉の上司にバレた時のこと。
「え、なに? またクビになりそうなの??」
思わず口をついて出た言葉に、慌てた様子で律姉が首を大きく横に振る。
「違うわよ。お姉さんは悪くないわ」
つややかな髪が宙を舞い乱れを生むものの、気にする素振りは一切ない。
どうやら本気で困っているようだ。
目を細めて疑い深く見詰めていると、律姉が身を乗り出して言葉を続けた。
「責任を取らされるとすれば市長か教育課の部長だと思うわよ?」
「市長、部長って。どう考えても大丈夫に聞こえないんだけど……」
どう考えても、普通の高校生が手伝える範囲ではないと思う。
そんな考えを見越してか、律姉が勢い良く史記の方へと体を寄せた。
手のひらを両手で包み込んで、上目遣いに史記の顔を見詰める。
「お願い、報酬は多めに用意してもらうから」
ふわりとした石けんの香りが、史記の鼻をくすぐった。
「……とりあえず、詳しい話を聞かせてくれる?」
「もちろん!! ありがとう、史記ちゃん!!」
勢い余った律姉が、両手を広げて抱き付いてくる。
石けんの香りに加えて、柔らかな肌が史記の体を包み込んだ。
「いや、あの、まだ手伝うと決めた訳じゃ……」
「大丈夫よ。危険なことにはならないから。お願い、お姉さんには史記ちゃんしかいないの」
「そう言われても……」
しどろもどろになりながら史記が視線をそらせば、リビングから顔をのぞかせた美雪と目が合った。
きょとんとした表情を見せながらも一瞬だけ律姉へと視線を向けた美雪が、拳を握り締めて親指を大きく立てる。
(ん? ……あぁ、連れ込んでもいいってことか?)
確かに律姉なら2人の水着姿を見られても大きな問題にはならないだろう。
史記ちゃんの衣装として検討される心配もあるが、さすがに水着はないと信じたい。
そう結論付けた史記が抱きしめるように手を回して、律姉の背中をポンポンと叩いた。
「とりあえず入って。座りながらゆっくり聞くから。結論はそのあとな?」
「うん、それでいいわ。ごめんね。お邪魔します」
抱擁を離した律姉が、高めのヒールを脱いで端の方にそろえる。
そうこうしていると、背後からパタパタと足音が迫ってきた。
「律お姉ちゃん、いらっしゃい!! 入って入ってー!!」
「美雪ちゃん、こんばんはー。はい、これ。お土産」
「ほほう、らんらんの豆大福ですかー。良い趣味してますなぁー」
餌付けの和菓子を受け取ってご満悦の美雪が、律姉を引っ張って家の中へと入っていく。
大きめのTシャツに、お気に入りのスカート。
美雪の装いは、いつの間にか普段通りのものに戻っていた。
先ほどの親指の合図は、着替え完了の意味だったのだろう。
(律姉なら水着のままで良かったんじゃないか? むしろ、律姉も水着スタイルになってもらって……)
未練たらしく脳内で文句を言いながらリビングへと戻ると、案の定、女神様も普段着に戻っていた。
(いや、まぁ、律姉が悪いんじゃないんだけどさ……。もう、あれだ。律姉の頼み、断ろうかな。うん、マジでそうしよう)
半ばそんなことを本気で考えながら席に着くと、律姉が申し訳なさそうに頭を下げる。
「柚希ちゃんもごめんね。ご飯の最中に突然来ちゃったみたいで。みんなは食べてて良いから、ちょっとだけお姉さんのお話を聞いてくれないかな??」
「いえいえ、私のことはお構いなく……」
「ユキはもう、ごちそうさまでしたー。お兄ちゃん、抹茶立ててー」
「あいよ。全員抹茶でいいよな?」
なんともまとまりに欠ける雰囲気で、律姉の頼み事が始まった。