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ドーナツ狂いの悪魔様

ドーナツ狂いの悪魔様 〜ハロウィン編〜

作者: 熊野こずえ

 電源が落ちて静かになったパソコンを前に、本日の仕事が終わったことを実感した私は肩の荷が下りるのを感じた。

 ふうと息をついて携帯を見れば、新着メールが一件。送り主も内容も何となく察しがついたけど、無視したら確実に後々面倒なので目を通すことにする。


《本日発売の新作ドーナツ、ハニーパンプキンを忘れないように。》


 絵文字も顔文字も無い、用件だけの素っ気ない文面に思わず溜め息が漏れる。

 すると、隣の机で資料を整理していた同僚が声を掛けてきた。


「藤原さん、お疲れ? 今日はずっとパソコン見てたもんねー」

「あ……えっと、うん、まあ……」


 まさか「悪魔からドーナツを強請られて呆れてました」なんて言えるわけもなく、私は曖昧な笑みを浮かべて適当に誤魔化す。

 同僚はそんな私を見て、どうやら疲れていると勘違いしてくれたらしく、机の端に置いてある小さな籠から飴玉を一つ摘んで差し出してくれた。


「はい、疲れた時は甘いものってね」


 その気遣いが嬉しくて、私は素直にお礼を言って飴玉を受け取る。

 そして、別に疲れてもいないのに、私の家で甘いドーナツを待ち望んでいるであろう悪魔様の為にドーナツショップへ向かうべく会社を出た。


 ***


 秋というのは過ごしやすい季節だけど、クリスマスやバレンタインのように目立ったイベントが少ない季節でもある。

 だからこそ、貴重な秋のイベントであるハロウィンを何処も取り上げるんだろうな、と思いながら私は街を歩いていた。

 大型ディスカウントストアの店先には様々なコスプレ衣装が並び、ケーキ屋やパン屋もハロウィンを意識したデザインの商品を全面的に宣伝している。

 そして今、私が向かうドーナツショップも例外ではない。連日情報収集を怠らない悪魔曰く、今日からハロウィン仕様の新作ドーナツを販売するらしかった。期間限定と銘打たれたそれに、あのドーナツ馬鹿の悪魔が食いつかないわけがない。


《絶対に! 絶対に買って帰ってこい! 絶対にだぞ!!》


 今朝の出勤前の光景を思い出す。

 耳にたこが出来るのではないかと思うくらいに念を押してきたグリファーに、流石に苛ついて、その額を思いっきり指で弾いてから家を出てきたのは記憶に新しい。最近爪を切っていないから、結構痛かったんじゃないだろうか。

 

(……帰ったら、そこら辺を真っ先に言われるんだろうな)


 きっと、この事を他人に話したら「そんなに食べたいのなら自分で買いに行かせればいいじゃないか」と言われるだろう。私も最初はそう思っていた。

 だけど、あのドーナツ中毒者をドーナツショップに解き放ったりなんかしたら、全種類を見境無く買い漁ってくるに違いない。そんなことをされたら私が生活出来なくなってしまう。

 そんなわけで私は、私自身の為にもこうして毎回、ドーナツを購入して運ぶ役目を引き受けているのである。


(まあ、少し多めに買っていってあげれば許してくれるだろうし……)


 こういう時、あの悪魔がドーナツ馬鹿で良かったと思う私の視界に、いつものドーナツショップが見えてきた。が、何やら様子がおかしい。

 女子高生二人組が店の入り口に近付いていくも、中に入らずに立ち止まったと思えば、何やら困惑した表情で踵を返して引き返していった。そして、次に来た親子連れも、サラリーマン風の男性も同じ反応をして、同じ行動をとっていく。

 

(どうしたんだろう?)


 内心で首を傾げながら、私も店先へ近付いていく。

 どうやら、店内の照明は落ちているようだった。入り口のドアには張り紙が張ってあり、その内容を読んだ私は思わず声を上げた。

 

「どういうこと……?」


 そこに書かれていたのは、臨時休業の報告と謝罪文だった。

 それによると、本日販売する分のドーナツの用意が出来なかったので、今日は急遽店を休業することにしたらしい。

 しかし、私はその理由に何となく違和感を覚えた。新作ドーナツを発売するという日にそんなトラブルを起こすなんて考え難いし、そもそもどうして用意が出来なかったのかも書かれていない。


(でもまあ、売ってないなら仕方ないか……)


 私は先ほどの客と同じように踵を返し、家に帰ろうとした。

 

《絶対にだぞ!》


 必死な声が耳元に蘇って、足が止まる。

 バッグから携帯を取り出して時刻を見た私は、そのまま携帯を操作する。

 そして、同じドーナツショップが此処から少し離れた場所にあることを確認すると、携帯の液晶画面に地図を表示させたまま歩き始めたのだった。


 ***


「売ってなかった、だと……!?」


 脳天に雷が落ちてきたような表情をして、そのまま動かなくなってしまったグリファーに、私は脱いだスーツの上着をハンガーに掛けながら返事を返す。


「うん、いつもの店も他の店も、ぜーんぶ駄目だった」


 あれから何件か検索して回ってみたものの、何処も入り口に同じような内容の紙が貼ってあった。ドーナツが用意できなかった、ということ以外は店ごとに謝罪文の内容が微妙に違っていたので、恐らくは本当に急なトラブルなのだろう。

 此処までくると原因が気になってくるが、私は探偵でも警察でも無いので調べようがない。


「そんなわけだから、今日は我慢してね」

「……むう」


 グリファーは不満たっぷりの表情で小さく唸る。

 そして、俯いて何やらぶつぶつと呟いたと思えば、突然立ち上がった。


「よし、行くぞ!」

「……は?」

「は? じゃない! ドーナツが一気に消えるなんておかしいだろう!? 何者かが奪ったに違いない!」


 拳を握り締めて力説するグリファーの目は至って真剣だった。矢印方の尻尾はその気合いを表すように左右に強く揺れていて、普段は引っ込んでいる牙も伸びかけている。

 今まで見たことがないくらいに興奮しているグリファーに、私は少しムッとした。


(私が前に化け物に襲われた時よりも必死って、何かムカつく……)


 そこまで考えて、私は軽く首を振る。

 この悪魔の思考が殆どドーナツが占めていることなんて今更だし、私よりドーナツが優位な扱いをされるのも当たり前のことだ。そこに苛つく必要なんて無い。

 だけど一度生まれた気持ちは簡単には治まらず、私は苛立ちを押し込めながら自室のドアを開けようとした。


「おい、何処に行く?」

「私が一緒に行く必要は無いでしょ? 行くなら一人で行ってきなさいよ」


 唇から零れた声が存外冷たいものになっていて、内心で驚いた。

 それをグリファーがどう受け取ったのかは分からないが、数回目を瞬かせた後に眉根を寄せて、動く気配を見せない私の腕を掴んだ。


「それは駄目だ、お前も一緒に来い」

「どうしてよ?」

「……阿呆か、お前は」

「はあ!?」


 唐突に溜め息混じりに貶されて、思わず大声を上げる。

 すると、呆れ顔のグリファーは私の目前まで片手を持ち上げた。一体何だろうとその手を目だけで追いかけると、


「きゃっ!?」


 今朝の私がやったように、額を指先で弾かれた。

 

「一人にして襲われたら、またお前は泣くだろう?」


 グリファーは悪魔らしい笑みを浮かべながら言う。

 額を撫でながらきょとんとしていた私だったが、記憶が蘇るにつれて徐々に恥ずかしくなってきて、言い返す言葉も見つからないので無言で顔を俯かせる。

 そんな私にグリファーは愉快そうな笑い声を上げると、俯く私の顎を掴んで上を向かせてきた。


「さて、納得はしたか?」

「……悔しいけど」


 ふくれっ面をした私の返事に、グリファーは更に面白そうに笑った。

 それを見て(ああ、やっぱりコイツは悪魔だ)と、私は思う。

 

 例え、さっき私の額を弾いた指の勢いが、私がやった時よりもずっと優しかったとしても。


 ***


 すっかり日も落ちて、暗くなった街を歩く。とはいえ、ビルのネオンや行き交う車のライトが充分に明るいのだけど。

 因みに、私の隣を歩くグリファーはいつもの赤ジャージではなく、小綺麗なメンズファッションに身を包んでいる。勿論買ったわけではない。出てくる際にテレビで映った物を見て、グリファーが魔法(正確には魔法じゃないらしいけど、そんなの一般人の私には分からない)で出したのだ。


「……少し、動きにくい」

「それくらい我慢して。変に目立つ格好して、職務質問とかされたら面倒なの」

「むう……」


 グリファーは納得したのかしていないのか微妙な反応を見せる。ジャージが基本スタイルだった所為で、見栄え重視の今の服装はお気に召さないようだった。

 それでも変に怪しまれたりするよりはマシなので我慢してもらい、私達はドーナツショップに到着した。普段ならまだ開いている時間帯だけど、臨時休業の今日は店内が真っ暗で人気も無さそうだった。


「とりあえず来てみたはいいけど、これからどうするつもり?」

 

 当然ながら入り口は閉まっているので、私達に出来ることはこうして外から店内を覗き見ることだけ。それに人目だってあるから長時間は出来ない。


「ねえ、グリファー……って、ちょっ、何してんの!?」


 返事が無いので隣を見れば、グリファーは店先に貼ってあった新作ドーナツの大型チラシに張り付くようにして、それこそ本当に穴が空くんじゃないかと思うほどに見つめていた。

 その光景に驚いて声を上げてしまった私なんてグリファーは気にも留めず、チラシに載る新作ドーナツの写真を撫でると、まるで恋する乙女のような溜め息をついた。


「ああ……本来ならば、もうこのドーナツは俺の舌の上に……」

「悔しいのは分かったからやめて! 目立つでしょ!」


 力無く頂垂れるグリファーをチラシから引き剥がす。

 グリファーは見た目が良いから、実はさっきから女の人からの視線を集めていたというのに、こんな奇行をされたら別の意味でも視線を集めてしまう。それで面倒事でも起きたら非常に困る。

 そうして、どうにかグリファーを近くの路地まで引っ張ってくることに成功した私は溜め息をつくと、未だショックが抜けきっていない様子の悪魔様に声を掛けた。


「……で? これからどうするの?」

「うむ……そうだな……」


 私の声で我に返ったグリファーは、顎に手を添えて考え始める。

 そして、少しの間で考えが纏まったらしく、ふむと頷くと口を開いた。


「原因は何となく察しがついた。店先に残っていた気配から予想すると、これは魔物の類の仕業だな」

「……、……えっ!?」


 平然とした顔で予想外の事を言われて、すぐに理解出来なかった私は数秒遅れてから反応した。


「ま、魔物って、あの……この間みたいな……?」

「細かく分けると違うが、まあ大体合っている」

「う、うそ……」


 私の脳裏に、あのおぞましい化け物の姿が蘇る。それと一緒に当時の恐怖心も帰ってきてしまったらしく、私の意志とは関係無しに体が震え始めた。

 すると、それに気付いたグリファーは軽く顔をしかめ、青ざめているであろう私の頬をむにっと摘んできた。


「何を勝手に怯えているんだ。今回の奴はお前の事を襲うようなやつでは無さそうだから、怖がる必要は無いぞ?」

「ほ……本当に?」

「……こんなことに嘘をついてどうするんだ」


 やはり馬鹿か、貴様。と、グリファーは呆れたように目を細めた。

 だけど、私はその表情にすら安心してしまって、それでも素直に「安心した」なんて言うのは何だか悔しかったから、頬を摘む手を軽く払いのけた。


「じゃあ、私は何すればいいの?」

「ほう? 結局は手を貸してくれるのか」

「……早く捕まえないと、お店の人が可哀想だからよ」


 にやりと笑うグリファーから目を逸らせば、楽しそうな声で「そうかそうか」と言われた。普段は全く悪魔らしくない居候男なのに、どうしてこういう時だけは本領を発揮するのだろうか。 

 このままでは変な墓穴を掘らされかねないと思った私はどうにか平静を装い、まだにやついているグリファーに再度問いかける。


「ほら、私は明日も仕事あるから長くは付き合えないの。私がやることがあるなら早く教えて?」

「そうか、では貴様にはこれを任せよう」


 そう言うとグリファーは指を鳴らした。

 すると、目の前に何かがぽんっと煙と共に現れて、咄嗟に受け止めた私はそれを見て首を傾げた。


「……何これ、キャンディ?」

 

 私の両手に収まる程度の小瓶に詰められているのは、色とりどりの宝石みたいなキャンディだった。

 可愛らしくて美味しそうなこれを一体どうすればいいのかと思いながら眺めていると、グリファーが再び指を鳴らして小気味よい音を響かせた。

 すると、一瞬だけ世界が揺れたと思えば、周囲が一気に灰色に染まった。


「……え? えっ?」

「これで他の人間には気付かれない。あとは向こうが来るのを待つだけだ」

「え、む、向こうが、って」

「俺がいると警戒して近付いてこないだろうからな、頼んだぞ」

「いや頼んだって、ちょっ……グリファー!?」


 灰色の世界に溶けていくグリファーに向かって手を伸ばすも、虚しく宙を掴むだけに終わってしまった。

 そうして一人、その場に残された私は呆然と立ち尽くす。


「っ、どうしろっていうのよ……!?」


 前回みたいに命の危険性が無いと言っても、訳が分からない状況にすんなりと対応出来る余裕があるわけではない。

 とりあえず何が来てもすぐ逃げられるようにと屈伸運動をしてみる。今回はハイヒールではなくスニーカーを履いているし、姿は見えなくても多分グリファーだって何処かで見守ってくれている、はず。

 

(……あ、靴紐解けてた)


 スニーカーの靴紐が解けているのを見つけたので、持っていた小瓶を地面に一旦置いて結び直す。

 すると、不意に私の肩に何かがとんっとぶつかってきた。

 

「ひっ!?」


 驚いた私は体勢を崩して、両手と両膝を地面についてしまう。

 こんな悪戯をする相手は一人しか思いつかず、私はその崩れた体勢のままでわなわなと震え、くわっと目を見開くと勢いよく立ち上がって振り返った。


「グリファー! 悪戯するにも程があるわ、よ……」


 視界いっぱいのオレンジと二つ並んだ黒い三角形。

 想像していた姿とは掠りもしない物がそこにあって、威勢良く発した私の声は萎びた挙げ句に空中に消えていく。  

 それどころか驚きすぎて言葉を失ってしまい、口を金魚のようにぱくぱくと開閉させながら、無意識にゆっくりと後ずさった。


「あ……あ、えっと……?」


 距離を取ってみて、私の背後にいた物の全貌が見えた。

 それは、宙に浮かぶ巨大なカボチャだった。しかし、スーパーや八百屋で売っているような物ではなく鮮やかなオレンジ色をしていて、目や口の部分が空洞になっている。

 何処か愛嬌すら感じられるその姿に少し気持ちが落ち着いた私は、あることにハッと気付いて思わず口を開いた。


「……もしかして君、ジャック・オ・ランタンってやつ?」


 すると、その巨大カボチャはそうだと答えるかのように周囲に青紫の炎を浮かべて、その場でくるりと一回転してみせた。まるでテーマパークのキャラクターのような愛嬌を振りまかれて、困惑していた私の気持ちも少し緩む。


《トリックオアトリート!》

「……え?」

《トリックオアトリート!》


 頭に直接響いてきた甲高い声に、落ち着いていた心臓が再び慌て始めた。

 体を強ばらせて立ち尽くす私。空っぽなはずの巨大カボチャの瞳に吸い込まれそうになる。底なし沼のような暗くて深い空洞の眼。不気味で怖くて、背中に冷や汗が流れるのが分かるのに目が逸らせない。でもこのままでは多分、いや絶対に、私は何か良くない目に遭ってしまう。だけど一体どうすればーー、

 

「……おい、何してる?」

「!!」


 不意に降ってきた声にハッとして辺りを見回せば、巨大カボチャの上にいつの間にか座っていたグリファーと目が合った。その途端に私の体から緊張が解けていく。

 頬杖をついて呆れ顔で私を見下ろしていたグリファーは、持っていた物を此方に向かって無造作に放り投げてきた。


「わっ、とと……!」


 何とか落とさずに受け止めたそれは、キャンディが詰まった小瓶だった。

 すっかり存在を忘れていた小瓶を渡されて戸惑っていれば、グリファーは我が物顔で椅子代わりにしている巨大カボチャをぺしぺしと叩きながら言った。


「ほら、何をグズグズしている。俺が抑えている間に早くしろ」

「早くって……」


 どうやら、ただ単に椅子代わりにしていたわけではないらしい。そういえば、頭に響いていた声がいつの間にか止んでいる。

 それに気付くと、気持ちが落ち着いて思考が回り始めた。今の私に示されたヒントである小瓶と巨大カボチャを交互に見やれば、頭の中で少しずつ何かが纏まっていく。

 

「……あ!」


 そして、漸くピンときた。

 キャンディに巨大カボチャのお化け。この二つが揃っていて、どうして今まで気付かなかったのか自分でも不思議でならない。いや、きっと大した説明もされずにいきなりこんな役目を任されたからなんだろうけど。

 私は退屈そうに尻尾を揺らしているグリファーを軽く睨んでから、巨大カボチャに向かってキャンディ入りの小瓶を突き出すように差し出した。


「……っ、ト、トリート!」


 間違っていたらどうしようかと、声が若干上擦ってしまった。

 すると、巨大カボチャは差し出された小瓶を暫く見つめたと思えば、突然自分の周りに青紫色の火の玉を幾つも浮かび上がらせた。

 

「ひゃっ!?」


 それに驚いて思わず小瓶を落としそうになったけど、その前に小瓶が私の手を離れて宙に浮いた。そして、目をぱちくりさせる私の前で小瓶はふよふよと漂って、巨大カボチャの口の中に入っていく。

 小瓶を食べた巨大カボチャは先程のようにその場で回ると、


《ハッピーハロウィン!》


 私の頭の中にそんな声を響かせて、火の玉と共に消えていった。

 

 ***


 灰色から元の色に戻った街を、私とグリファーは歩いていた。


「……じゃあ、結局はあの子の悪戯だったってわけ?」

「ああ、そうだ。あとは魔界に帰る為、菓子をくれる者を探していたのだろう。奴らは菓子を貰わないと帰れないらしいからな」


 そう言ってグリファーが指を鳴らせば、何処からともなくキャンディが現れた。

 それを見た私は、慌ててグリファーの手元を隠して辺りを見回した。夜も大分更けてはきたものの、行き交う人の数はまだまだ多い。

 どうやら運良く誰も此方を見ていなかったようで安堵するも、すぐに顔をしかめてグリファーを睨み上げる。


「ちょっと! 見られたらどうするの!?」

「この俺がそんなヘマをするはずが無いだろう、馬鹿め」


 グリファーは明らかに人を小馬鹿にした笑みを浮かべて、皺の寄った私の眉間を指でぐりぐりと押す。と、ふと何かを思ったのかその手を止めた。


「……まあしかし、今回はお前がいなかったら、もう少し面倒だったからな」


 そう呟くように零したグリファーはキャンディを軽く握り締める。 

 そして、すぐに開かれた掌にキャンディは無くなっていて、その代わりに銀色の細いチェーンのネックレスが乗っていた。リボンの小さなモチーフが、街の明かりを受けて小さく煌めいている。


「ほら、こっちに来い」

「わっ……!」


 可愛いなあ、と思いながらそのネックレスを見つめていると、不意に片腕を引かれて道の脇に連れて行かれた。

 突然引っ張られた所為でよろけた私はグリファーの胸元に寄りかかるような体勢になってしまい、咄嗟に離れようとしたが、


「おい、動くな」

「……っ!?」


 耳元を擽る吐息に、体がびくんと跳ね上がる。

 そして、意外と厚い胸板に顔を埋めたまま彫刻のように固まっている私の項を、グリファーの冷たい指がゆっくりと触れて、擽って、撫でていく。


(な、なに、何なの……っ!?)


 顔が熱くなるのを感じながら、内心で大混乱する。急展開すぎて何が何だか分からない。

 戸惑う私をバニラに似た甘い香りが包んで、頭の奥をじんと痺れさせる。そういえば「人を魅了して誑かすのも悪魔の本分だ」とグリファーが前に言っていたけど、この心を蕩けさせるような香りもその為なのだろうか。

 

「……何をしているんだ、お前は」

「……え?」


 いつの間にか瞑っていた目を開けば、グリファーの怪訝そうな顔があった。


「な、何でもないわよ!」 


 その表情のお陰で我に返った私は、今度こそ体を離す。

 しかし、まだ顔の熱は引いていない。赤くなっているのを見られたら間違いなく馬鹿にされるだろう。そう思った私は隠す為に軽く俯いて、ふと気付いた。


「あ……ネックレス……」


 さっきまでグリファーの手の中にあったネックレスが、私の首元できらきらと可愛らしく輝いていた。


「今日の褒美だ、有り難く思え」

「う、うん……」


 こんな物を貰えると思わなかったので驚きが隠せない。

 それでも徐々に嬉しさがこみ上げてきて、自然と口元が緩み始めた。単純だと馬鹿にされる気がして堪えようとしてみるも、顔の筋肉は笑顔を浮かべていく。

 そうして、抵抗が無駄だと悟った私は開き直り、たまにはいいかと素直に笑ってみせた。


「ありがと、グリファー。これ、大切にするね」

「……、……当然だ」

「……?」


 一瞬置かれた間が気になったけど、問いただす前にグリファーが顔を背けてしまったから何となく聞けなかった。まあ別にいいかな。

 先に歩き始めた背中を追いかける。そして隣に追い付いた私は、さっき自分がやられたみたいにグリファーの片腕を軽く引いて、立ち止まらせた。


「何だ?」

「あのさ、折角外に出たんだし、何処か寄っていこうよ」

「……は? どうして俺がそんな……」

「この間ね、美味しいドーナツが売ってるパン屋があるって聞いたんだけど」

「よし行くぞ! 早く案内しろ!」


 面倒臭さに歪めていた顔を生き生きとしたものに一変させて、腕を掴む私の手を取るグリファー。

 その微笑ましいくらいの単純さに、思わず噴き出しそうになったのを何とか堪えた私は、適当に握られた手をちゃんと繋ぎ直してから歩き始める。


「明日のお昼用にパンも買おうかな……。グリファーもたまにはドーナツ以外にも食べてみたらいいのに」

「俺はドーナツ以外は興味ない。祐子こそ、もっとドーナツの素晴らしさを知るべきだ。そもそもドーナツが何故あんなに美味いかというとだな……」


 頼んでもいないのに勝手にドーナツ語りを始めたグリファーは、これが悪魔だと言うなら無垢な子供は悪魔と呼べるのではないかと思わせる程に、それはもう楽しそうで幸せそうだった。

 そして、そんな表情を隣で見せられたら聞き流すわけにはいかず、私はそっと一つ溜め息をつくと、悪魔様のドーナツ講座にきちんと耳を傾けることにした。


 夜空に浮かぶ雲の隙間には、ドーナツみたいな真ん丸の月が浮かんでいる。


 END.

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